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8 遊園地にて

 映画の本編が終わる。上映室の中は暗いままだ。黒一色の背景がスクリーンに映されていて、白い文字のエンドロールが下から上へ流れていく。大音量で鳴り響く歌が、物語の余韻を一層華やかで、輝かしいものにする。その歌声の主は、十代のリスナーから絶大な支持を得ている、今、最も勢いのあるポップ・ソング・ユニットの中の一組だった。動画配信サイトで公開されている彼らのミュージックビデオのいくつかは再生回数が一千万回を超えているほどだ。そんな彼らの最新曲が、この映画の主題歌に採用されていたのだった。静かな間奏が流れる間、タケルとユリカは近くの座席の何人がむせび泣く声を聞いた。そして、タケルとユリカもまた涙を流していた。

 上映室を出て、二人で並んで廊下を歩く。歩きながらタケルの横顔を見て、ユリカは言った。

「面白かったね」

 タケルは目からこぼれる涙の粒を手の甲で拭いながら答えた。

「うん」

 続く言葉が出てこない。タケルは泣き顔をユリカに見せたくなかった。腕で顔を隠しながら大袈裟な仕草で涙を拭う。その様子を見てユリカは言った。

「こっちのにしてよかったでしょ。ほら、これ使っていいよ」

 手渡されたハンカチ。それは白いタオル地のものだった。受け取るなりタケルはそっと目の下に当てる。すると、急に鼻水があふれてきた。なので、そのハンカチで思い切り鼻をかんだ。

「ちょっと」

 ユリカの声。タケルは言う。

「あ、ごめん。洗って返すから。ありがと」

「まさか、そんなに泣くなんて」

 ユリカは少し目をはらしたまま、困った顔で笑う。その顔を見て、タケルも笑った。ユリカのハンカチは甘くてとてもいい香りがした。

 映画館を出て、昼下がりの空の下を二人で歩く。ショッピング街を抜けて、オフィス街の中を行く。駅の建物が見えてきたとき、ユリカが言った。

「お腹空いたよね」

「うん」

 タケルはすぐに返事した。実際に彼はとても空腹で、そのことが返事の速さに現れた。

「何か食べようか。微妙な時間だけど」

 時刻は三時前だった。

「うん、食べる」

「何がいい?」

「なんでもいいよ」

 タケルは言った。すると、少し考えてからユリカは言った。

「ハンバーガーはどう?」

「うん」

 タケルは大きな声で返事した。彼は空腹のとき、とにかく肉が食べたくなる。ハンバーガーは打ってつけのメニューだった。歩きながらユリカは言う。

「駅の近くに新しいお店あるんだ。ここからほんのちょっと歩くんだけど、いいよね」

 並んで歩いて、大きなホテルと小さな公園の近くを通り過ぎると、その店は見えてきた。

「ここだよ」

 それは小さな店だった。小さいながらも、れんが造りの外壁で、窓に色彩豊かなペイントが配されていたり、店のマスコットキャラクターと思われるプラスチック製の人形が客を出迎えるような格好で置かれていたりと人目を引く工夫がしっかりと施されていた。

 二人は丸いテーブルの席に着き、それぞれハンバーガーとポテトのセットを注文した。客はほかに一人だけだった。品物が運ばれてくるまでの間、タケルとユリカは話をした。

「タケルはいつ帰るの?」

 ユリカが言う。その問いにタケルははっと驚き、考える。帰る。いつだろう。あまり意識していなかった。だけど、その日は来る。いつか、必ず、そして、おそらくは近いうちに。彼は答えた。

「あんまり決めてない」

「そうなんだ。また受験するんだよね」

「うん。するよ」

「じゃあ、いつまでもここにはいられないね」

「うん」

 タケルは窓の外を見た。店の前の通りに人の姿はなく、車も通らない。とても静かだった。肉を焼く「じゅううう」という音が聞こえてきた。ユリカの方を見てタケルは言う。

「いつ帰るかは、僕の意志だけじゃ決まらないと思う。ちゃんと相談しないと」

「そっか。預けられてるんだもんね」

「うん」

「でも、どうして預けられたの?」

 タケルは話した。夜中に何度も騒いだことを。家族に迷惑をかけたことを。コーヒーショップでは彼女に言えなかったことが、そのときはすらすらと言えた。

「そうだったんだ」

 ユリカは物悲しげに言った。

「うん」

「今は大丈夫?調子はいい?」

「大丈夫だよ。調子はすごくいい」

「よかったね」

「ユリカさんのおかげだと思う」

「なんで?」

「ユリカさんの楽園の話が聞きたいから、聞くのが楽しみだから」

「それはよかった」

 ユリカはにこやかに言った。少し照れた様子で、とても愛らしく、いつまでも見ていたいとタケルは思う。しかし、見続けると彼自身も照れてしまうので、つい目をそらしてしまった。

 注文した品が運ばれてくると、いただきますと二人で言って食べ始めた。タケルはハンバーガーもポテトもすぐに食べてしまった。追加でチーズバーガーも注文する。タケルがチーズバーガーを食べ始めたとき、ユリカは食後のコーヒーを注文した。そして、さっき観た映画について話し合う。どのシーンが好きだったか。誰のどんな台詞に感動したか。そんなことをしばらく話し合い、店を出た。

 駅まで歩き、午後五時四十分発の電車に乗る。ホームも車内もとても混み合っていたが、電車が走り出し、一駅目、二駅目と停まるたび、乗客の姿は減っていく。いずれの停車駅でも多くの客が降りていく一方で、新たに乗ってくる客は数えるほどしかいなかった。最初はタケルもユリカも立って乗っていたが、四駅目で座席に座る。車両の真ん中にポッカリと空いたボックス席に。降車する駅まであと一駅というところで、タケルはユリカに聞いた。それはタケルにとって、ユリカに聞いてみたかったが、なかなか聞けないことでもあった。彼女から返ってくる答えによっては、いくらか落胆してしまうかもしれないから。周りに客の姿は一人も見当たらない。今がチャンス。そう思い、勇気を出してタケルは聞いた。

「高校って楽しかった?」

「あたしに言ってんの?」

「うん」

「人によると思うよ」

「ユリカさんはどうだった?」

「あんまり。これから受験する人に言いづらいけど」

「いいよ。別に」

「こういうことしとけばよかったって、思うことはあるけどね。卒業しちゃうとまるで一夜の夢のようで。どうするか、よく考えた方がいいよ。こんなこと言って、なんかえらそうだけど」

「うん、分かった」

「勉強も部活も遊ぶのも、あたしは中途半端だった気がするな。生活態度もあまりよくなかったかも。先生からはよくにらまれてた気がするし、何かで困ってる子がいても上手に助けてあげられなかったし」

 言い終えると、ユリカは口を閉じて黙り込む。数秒置いて、タケルは言う。

「そっか。ありがとう、教えてくれて」

「いいの。ごめんね、あんまりためになること言えなくて」

 タケルはうなずき、口をつぐんだ。電車はごとんごとんと音を立てて進み続ける。やがて、ブレーキ音が聞こえ、停まる。ドアが開く。タケルとユリカはおもむろに席を立つ。ホームの上を歩きながらユリカは言う。

「遅くなっちゃったね」

 時刻は七時を過ぎていた。日が長くなってきたとは言え、外はかなり暗くなっていた。

「ごめんね。こんな時間まで」

 改札の前で立ち止まり、申し訳なさそうにユリカは言った。そんな彼女を見て、タケルは言う。

「別にいいよ。今日はすごく楽しかったし、またユリカさんと出かけたいから」

 言い終えた途端、タケルは自分の顔が熱くなるのを感じる。ユリカはくすりと笑い、

「あたしも。ありがとう」

 と言った。改札を抜けて、駅前の停留所からバスに乗る。ランシア近くのバス停で二人はまたねと言って別れた。

 帰ると祖父母は心配して待っていてくれた。出かけることは伝えていたのだが、少し遅くなり過ぎた。居間のテーブルの上には、ラップのかかった一人分の夕食。特に空腹ではなかったが、タケルは全部食べた。せっかく作ってくれたものを残したくはなかったから。風呂に入り、歯を磨き、布団に入る。眠気はすぐに訪れた。

 夢の中でタケルはユリカに会った。彼女は大きな木の根元に腰を下ろしていた。近づいて声をかける。

「ユリカさん」

 返答はない。ただ微笑みかけてくるだけだった。それから、彼女はすっと腕を伸ばし、彼方の一点を指さした。タケルがその方向へ目をやると、小さな赤い扉があった。草原の真ん中に赤い扉が一枚。タケルは右手を開いた。ゆっくりと。手の中を見ると、綺麗な鍵があった。きらりと輝いている。楽園の扉を開ける黄金の鍵だとタケルはすぐに分かった。

「行こう」

 ユリカのいた方を向き、声をかけると、彼女はもういなかった。そこで目が覚めた。

 月曜日、火曜日、水曜日とタケルはランシアへ通った。しかし、閉まっていた。特に張り紙も看板も出てない。高くて四角いその建物は、凍りついたようにただそこに立っていた。

 木曜日は大雨が降った。タケルは一歩も外に出ず、受験勉強に励み、合間を見ては掃除や洗濯といった家事を手伝った。勉強も家事もひとしきりやり終えると、自分の部屋で寝転がって過ごした。天井の木目を見ながら日曜日の夜に見た夢を思い出す。鍵はこの手に握られていた。黄金の鍵をあのとき確かに手にしていた。微笑み続けるユリカの顔。そして、彼女は姿を消した。タケルは思う。これは何を暗示しているのだろうと。ランシアが閉まっていることと何か関係があるのだろうかと。現実が、幻想が、黄金の鍵を介して、繋がっているのか。いや、そんなわけがない。止むことのない雨音を聞きながら、タケルはもんもんと考え続けた。だめだ、こうしていても何も解決しない。そう思って、体を起こす。そして、居間へ行く。祖父母は茶を飲みながらテレビを見ていた。

「おばあちゃん」

 祖母に話しかける。

「何?」

「ランシアが閉まってるんだけど、何か知ってる?」

「そうなの」

 今度は、祖父に聞く。

「おじいちゃんも知らない?」

「さあなあ」

 タケルは部屋に戻って、また寝転んだ。

 金曜日。その日も雨が降っていた。朝食を食べ、勉強し、九時半を過ぎたころ、傘を差してタケルはランシアへ歩いて出かけた。その建物が視界に入ってきただけでなんとなくだが分かる。今日も閉まっていると。開いているときの活気を感じない。店の前まで行くと、本当に閉まっていた。一体どうしたのだろうと首を傾げる。

 土曜日。その日はよく晴れていた。十時に祖父母の家を出て、タケルはランシアを目指す。来客用の駐車場に複数の車が停まっていた。今日は開いている。タケルは安心した。歩き続けて、店の中へ。ユリカがいた。

「いらっしゃい」

「よかった」

「何、よかったって」

 微笑みながらユリカは言う。

「ずっと閉まってたから」

「そっか、タケルには言ってなかったね」

 客の一人が商品をレジに持ち込む。

「あ、ごめん。またあとで、ね。」

 ユリカは慌てた様子で小声で言う。

「うん」

 タケルはショーケースから少し離れて店内を眺める。ランシアは何事もなかったかのように営業している。あの閉店は一体なんだったのだろうと彼は疑問に思う。

「お待たせ」

 後ろから声をかけられる。タケルが振り向くとユリカがそばに立っていた。

「明日も出かけよっか」

 とユリカが言った。

「うん」

「どこ行く?」

 ユリカが聞いてくる。

「どこでも行くよ」

「じゃあね、タケルが行きたい場所にあたしは行きたい」

「僕が」

「うん」

「分かった。どこ行くか、考えとく」

「また同じ場所で、同じ時間でいいよね」

「うん」

 それから、カップに入った小さなケーキを三つ買って、タケルは帰った。

 翌日、いつものバス停でタケルとユリカは会う。とてもよく晴れた日だった。太陽の光がさんさんと降り注ぐ。しかし、暑過ぎることはない。涼しい風がそよそよと吹いていたから。

「さあ、どこに連れていってくれるのかな?」

 ユリカは言う。いたずらっぽく微笑みながら。

「遊園地に行こう」

「遊園地?」

「うん。いい場所だと思う」

「分かった。そこ行こう」

 それは、幼い頃に祖父母に連れていってもらった場所だった。記憶はかなり薄れているが、楽しかった場所。ここで暮らしているのだから、ユリカもきっと、知っているだろうとタケルは思う。だが一方で、もしかすると知らないかもしれないとも思う。なぜなら、その遊園地は十年前に閉園してしまっていたから。

 時刻表通りにやって来たバスに乗る。駅前のバス停を通り過ぎ、終点で降りる。最後まで乗っていた乗客は、タケルとユリカ、ただ二人だけだった。

「タケルがどこ行きたいのか分かった」

 バスから降りるなりユリカが言う。

「どこか当ててみて」

 とタケル。

「ネインランド」

「当たり」

 二人はバス停の近くにあるコンビニエンスストアに寄り、金を出し合って茶と弁当を買った。飴、グミ、チョコレートなども買った。それから、人も車もほとんど通らない静かな道を二人で歩く。右を見ても、左を見ても、道の外側は林が広がっている。細い歩道の縁石に並んで腰かけ、短い休憩をとったあと、タケルとユリカはさらに歩き続ける。目的地はもうすぐそこだった。ユリカが言う。

「到着ね」

 ところどころに草が茂るアスファルトの広場。そこは、かつてネインランドの駐車場だった場所。向こうの方には、閉ざされた大きな門が見える。ぼうぼうに伸びた草に隠されて、ひっそりとそれは立っている。そして、門の向こうには、すっかりその役目を終え、覚めない眠りについたアトラクションがあった。

「行こう」

 とタケルが門を指さして言う。ポケットに入れた金色の鍵を握り締めながら。

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