5 水の楽園
タケルとユリカは券売機で入場券を買い、ゲートを抜けて水族館の中へと入る。二人で一緒に館内を歩き回り、展示されているいくつもの水槽を見た。大きくて明るい水槽、小さくて暗い水槽、それぞれの水槽の中で生きているさまざまな生き物を見て楽しんだ。元気よく泳ぎ回る小さな魚たち。底の方でじっとして動かないエビやカニ。ゆらゆらと揺れるイソギンチャク。館内をくまなく歩き、観賞していった。一つの水槽も、一匹の生き物も、見落とすまいと注意を払うかのように。館内には多くの客がいるものの、混み過ぎて楽しめないということはなかった。ユリカが言う。
「そろそろ餌やりの時間らしいから大水槽に行こ?」
その大水槽の前へ行くと、ダイバーの格好をした一人の飼育員が水槽の中へ入り、手にした餌を魚たちに与えていた。さまざまな模様の魚たちが、飼育員の左右の手に群がって、ひらりひらりと舞う。水槽の中の色彩は目まぐるしく移り変わった。大水槽の周りには人だかりができており、おおお、という驚きの声が上がった。タケルとユリカは一言も声を発することなく、黙って静かに餌やりの様子を見届けた。餌がなくなると、ダイバーは浮上して姿を消した。そして、餌に群がっていた魚も、水槽の周りに集まっていた客たちも方々へ散っていく。
「腹が減った」
タケルは言った。時刻は午後一時を過ぎていた。
「あたしも。館内にレストランあるから。そこに行こうよ」
ユリカが言う。レストランは水族館の二階に設けられていた。広々とした店内で多くの客が食事をしていたが、いくつかの席は空いていた。店員に案内され、二人は小さなテーブルを挟んで向かい合って座る。二人で「シーフード・ランチセット」というメニューを注文し、さっきまで観賞していた魚やエビやカニについて話し合った。ユリカは特定の魚の種類を挙げながら、面白い形だった、綺麗な色だったと感想を言う。しかし、タケルはそれぞれの種類まで覚えておらず、適当に相槌を打ち、彼女の意見に共感する態度を示した。今日、彼が見た大抵の生き物は、面白い形で、綺麗な色をしていたから。やがてランチセットが運ばれてきた。魚とエビの熱々のフライが、一切れのトマトとキャベツの千切りとともに大きな皿に盛られている。とてもよい香りがした。ほかにも皿に盛られたご飯とカップに入った野菜スープがトレーに乗っていた。
「いただきます」
タケルとユリカは言って、食べ始めた。さくさくの衣とぷりぷりの身がとてもおいしく、タケルはすぐに食べてしまった。フライがとても熱かったので、彼はいくらか口の中を火傷した。
「食べるの早過ぎ」
空になった皿とカップを見てから、ユリカは半ば呆れたような口調で言った。
「腹減ってたから。あと、おいしかったから」
「そうだね。おいしい。それはあたしもそうだけど」
ユリカは一口一口味わって食べた。ときに目を閉じて、口をゆっくりと動かして食べた。その様子はタケルにとって、まどろっこしくも可愛らしく見えた。食べ終えると二人ともアイスティーを注文して飲んだ。飲みながらユリカは言った。
「二時半からイルカショーあるよ。行かない?」
「行きたい。行こう」
タケルは店内を見渡す。相変わらず多くの客がいた。店内を駆け回り、親に連れ戻される小さな子供の姿があった。時刻は一時四十分。タケルはユリカに言った。
「そう言えば、この前の月曜日のことなんだけど」
「何?」
「扉を見つけたんだ。夜、夢の中で」
「扉?」
「うん。黒い扉が目の前にあって、突然、雷が近くに落ちて、びっくりして目が覚めた。そんな夢」
「へえ、そっか」
ユリカはうつむき加減になって返事をした。
「すごく怖くて、気味が悪くて、でも、もう少し近づいてみたいと思った。そのときは。ユリカさんはどう思う?あれが楽園の扉なのかな」
タケルはあのとき起きたことを、思ったことを正直に言った。そのことについてユリカがどう思うのか気になったし、そのときの自分の気持ちを少しでも分かってもらいたかったから。ユリカは言う。首を上げて、タケルの目を真っすぐ見つめて、大きな声で言った。
「それは、分かんないよ」
とても大きな声だったので、二、三人の周囲の客が二人の方をちらりと見て、すぐに目を逸らした。ユリカは続けて言った。テンポよく、リズミカルに話をした。
「それは分かんない。それが果たして本当の楽園の扉なのか。それとも、それはちょっとした悪夢に過ぎないものだったのか。どうなのか。それはあたしには分からない。君も楽園の扉を見つけることができたというのなら、それはあたしも嬉しいことだけど。ただ、それが本当にそうなのかって言われるとどうなんだろうってあたしは思う。何しろ判断材料が少な過ぎるし、タケルは扉を開けてすらいない。前に言ったでしょ。黄金の鍵で開けるの。楽園の扉は。差し込んで、回して、がちゃんって音がして、それから開かれる。楽園への扉はそうやって、いや、そうやらないと開かれないんだ。君はまだ開けてもないんだよね。中がどうなってるか分からない。それなら話を聞いてもなんとも言えないよ。『それは楽園の扉だ』なんて今はそんな無責任なことは言えない。でもね、思うことがあるの。次、また、今度、その扉が目の前に現れたのならやってほしいの。やってほしいことがあるの。それはすごく単純なことだから。ちょっとのことで思い出せるし実践できる。たとえ夢の中であったとしても」
「どんなこと?」
「右手を開いて見てみて」
「右手?」
「そうだよ。右手。楽園に行けるときは鍵がある。鍵がその手に収められているんだよ。だから、黄金の鍵があったときは正解で、なかったのなら不正解」
「ユリカさんはあるの?黄金の鍵が。右手に」
「あるよ。扉を見つけたら、だいたい持ってる。持ってるときは開けてみる。持ってないときはそのままその場を離れておしまい」
「開けるとどうなるんだろう。楽園のことはよく知らないし、鍵があったとしても、楽園に入る前に引き返したくなるかも」
「引き返したくなるって、怖いの?」
「そんなんじゃないよ。怖いっていうか」
「しょうがないなあ。あたしがまた楽園の話をしてあげる」
不思議なことに、ユリカのその言葉がきっかけとなり、周りの雑談の一切がタケルの耳に届かなくなった。タケルとユリカ。二人の周囲だけが、分厚いアクリルガラスで仕切られてしまったかのよう。透明で見えないけれど、とても分厚いアクリルガラスで。二人だけが水のない水槽に入り込んでしまったかのように。
「今日はどの楽園の話をしようかな。ああ、そうだ。せっかく水族館に来てるわけだし、水の楽園の話をしよう」
「水の楽園。ふうん、そういうのもあるんだ」
「あるよ。すっごくすてきな場所なんだから。一回しかお話しないから、ちゃんと聞いててよ」
「うん、分かった」
「水の楽園は水がいっぱいあるの。海に、川に、滝に、湖に。本当に水が豊かな楽園なんだ」
「うん」
「生き物もいろんなのがいるの。イルカとかジュゴンとかマナティーとかスナメリとかね」
「スナメリ?」
「イルカみたいなもんよ」
「なんだ、イルカか」
「イルカではないけどね」
「そっか」
「とにかくね、そういう生き物がいっぱいいる。そして、水の楽園の住人は彼らと共存してるの」
「共存か」
「うん。まあ、つまり、上手に一緒に生きていくってこと。一方的に乱獲したり、住処を荒らしたりせずに、お互いに上手にやっていくってこと。楽園はいつも平和なんだ。争いごとなんて基本起きない。水の楽園の人たちには、イルカたちとお話できる人もいるんだから」
「話。それはすごいね」
「まあね。そして、水の楽園には特別な場所がある。本当に特別な場所。人と水の生き物たちは、主にそこでお話をしたり、新しい取り決めを定めたりするんだけど」
「それはどんな場所なの?」
「『水里殿』って呼ばれているよ」
「スイリデン」
「そうだよ。水に、里に、宮殿の殿。それで『水里殿』。楽園のみんなはそう呼んでいる。とっても特別な場所。楽園のほかのどの場所を探してもそれは決して見つからないんだ」
「そこで、話し合いが行われるんだね」
「そうだよ。水の生き物と、人が、対等に対面できる場所。それが水里殿。中はとっても不思議。あたしもね、二回くらいしか行ったことないんだけど、水の中にいるようで、全然苦しくないの。薄い水の中にいるって言ったらいいのかな。例えるの難しいんだけど、そういう感じ。イルカもスナメリも普通に目の前に現れて、彼らは彼らで特に苦しくもないみたい。今日、水槽の中で餌やりしてた人いたじゃない。仰々しくウェットスーツ着たり酸素ボンベを背負ったりしちゃってさ。水里殿だとそういうのがいらないの。海の生き物も、人も直にお互いに触れ合える。そういう場所なの。今の話で、タケルもなんとなくイメージ伝わったよね?」
「うん。まあ、なんとなく。息ができる水の中。そういう場所なんだよね」
「まあね。だいたい合ってる。それでね、水族館はね、その場所に近い。もちろんアクリルガラスで海の生き物も人間も互いに遮られているけれど、ああやって対面できるっていうのは水里殿にかなり近い」
「ふうん。そっか」
ふと時計を見るとイルカショーが始まる五分前だった。二人で慌てて席を立ち、会計を済ませ、会場へと向かった。おかげでかなり後ろの席になってしまったが、イルカたちのジャンプは見事なもので、それなりに楽しむことができた。