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4 水族館にて

 家に着いてから、タケルはぼうっとして過ごした。居間で祖父母とテレビを観るが、音も映像も彼の頭には入らない。ニュース番組が放送されていたが、コメンテーターの声も、映し出される事故現場の光景も彼の注意を引くことはない。放たれた情報群は、タケルの目を、耳を、ただただすり抜けていくだけだった。おもむろに自分の部屋へ行く。座卓に向かって、英単語帳を開き、忘れかけていた単語を覚え直そうとするが、一向にはかどらない。あきらめて仰向けになり、天井をただ眺め続けた。天井に刻まれた木目のうねりに見入る。ふとよみがえるのはユリカの声。彼女が言っていた楽園の話。火の楽園のこと。

 眠っているのか目覚めているのか、はっきりしないままぼうっとして過ごしていると、祖母の呼ぶ声が聞こえた。夕食の準備ができたのだった。三人で食べて、食器を洗う。その日はタケルがすべてを洗って、布巾で丁寧に拭いた。

 その日の夜、言い表しようのない強い胸騒ぎに彼は襲われた。深夜一時のことだった。彼は大きな声を上げて布団から跳び起きた。首に、額に、じわりと不快な汗をかいていた。どうしてだろうと彼は思う。このところ大丈夫だったのに。ここにきて、こんなことになったのはどうしてだろうと疑問に思い、首を傾げる。タケルの声を聞き、心配した祖父母がやってきた。

「タケル、大丈夫か?」

 と祖父が言う。

「うん、大丈夫。なんともないから」

「本当に?」

 祖母が言う。

「うん、大丈夫。ちょっと嫌な夢を見ただけだから」

 と言って、タケルは自覚する。叫んだのは、夢を見たのが原因だったと。どんな夢だっただろうと彼は記憶をたぐりよせた。扉だ。黒く、とても大きな扉が彼の目の前にあった。それに触れようとしたら突然、大きな雷が近くに落ちた。そんな夢。

「心配ないよ。大丈夫だから。起こしてしまって、ごめんなさい」

 祖父母に言うと、心配そうな顔をしながらも、二人は自分たちの寝室へ戻っていった。扉。あれは楽園の扉だったのだろうか。ユリカが言っていた扉を自分も見つけることができたのだろうか。タケルは考える。真剣な顔で。考えながらティッシュで汗をふき、横になり、目を閉じる。眠気は徐々に戻ってくる。そして、彼はとても静かに朝まで眠った。

 月曜日。朝起きて、いつものように朝食を食べる。食器を洗おうとすると、祖母は

「今日はしなくていいから」

 と言った。昨夜のあの出来事があって、彼を気遣ってくれている様子だった。

「一緒に出かけないか」

 と祖父が言う。

「うん」

 勉強することを除けば、その日、タケルには何も予定はなかった。祖父がどこへ連れていってくれるのかは分からないが、一緒に出かけることにした。

 軽自動車に二人で乗る。タケルが助手席に座り、シートベルトを締めると、祖父はエンジンをかけた。車は田畑の中を抜け、街中に入る。込み入った細い路地を進むと、目的地に到着した。そこは、市営の図書館だった。それなりに大きく、洗練された外観ではあるが、外壁のところどころに傷んだ箇所や染みついた汚れがあり、それなりに古い建物なのが見て取れた。建物のそばに設けられた来館者用の広い駐車場は半分ほどが空いていた。

 二人で車から降り、図書館の中へ入る。静かで薄暗いエントランスホールを通り抜け、たくさんの書棚が並ぶ閲覧室に入った。中庭に面して設けられた大きな窓からの採光。そのおかげで、閲覧室はエントランスホールとは打って変わって明るく、開放的な空間に仕立て上げられていた。

「あれとかこれとか面白いぞ」

 書棚に並んだ推理小説や時代小説のタイトルを指さして祖父は言った。タケルは普段小説を読まない。勉強するとき以外に読むとすれば、漫画、雑誌くらいのものだった。祖父が指さしたタイトルの一つには、見覚えがあった。それは実写映画化された作品だった。映画はとても面白いと友達から聞いていたが、結局観ないままだった。それを手に取り、読んでみることにした。一時間、二時間と閲覧室のソファに座り、読みふける。祖父はすぐ隣で別な小説を熱心に読んでいた。三時間近くが経ったころ、祖父に声をかけられる。

「そろそろ行こうか」

「うん」

「面白いだろう。それ」

「うん、そうだね」

「借りて帰ろうか」

「いいよ。大丈夫。また、今度来たら読むよ」

「そうか、じゃあ、また来よう」

「うん」

 手にした推理小説はいろいろな登場人物が現れ、タケルにとって分かりにくいものだったが、緊迫した物語の展開に引き込まれ、飽きることなく半分ぐらいまで読み進めることができた。だが、借りてまで読みたいという気持ちにはならなかった。

 祖父と二人で立ち上がり、本を棚に戻して図書館をあとにした。外へ出るとぱらぱらと雨が降り出した。傘を持っていなかったので、二人で車まで走っていき、乗り込んだ。祖父はかなり息が上がってしまって、見ていて心配になるほどだった。しばらく休んで、息を落ち着けてから祖父は車のエンジンをかけた。近くの和菓子店へ寄り、祖父は祖母への土産を買った。

「母さんは、これが好きなんだよ」

 祖父はにっこり笑って、ショーケースの中にならんだ桃色の団子をいくつか買う。それは大きくて、柔らかくて、とてもおいしそうだった。店を出て、車の中で祖父と一つずつ食べる。一口食べて、タケルは言った。

「うまい」

「そうだろ」

 祖父は得意気に笑った。家に戻り、祖母に食べさせるととても喜んだ。

 火曜日も水曜日もタケルは静かに過ごした。真夜中に目覚めることはなかった。夜には深い眠りが、朝には爽やかな目覚めが訪れる。その二日間は雨が降ったり止んだりを繰り返す不安定な天気だったこともあり、家からは一歩たりとも出なかった。その分、勉強は大いにはかどった。

 木曜日。タケルはランシアへ行った。行くのは、先週の土曜日以来。その日はよく晴れていた。そして、真夏のように暑かった。店に着くと、額に、首筋にじっとりと汗をかいた。だが、不快ではない。むしろ心地よい汗だった。冷房のよく効いた店内へ入る。ユリカの母がいた。店にはほかにも数人の客がいて、彼女は慌ただしく包装や会計の作業をしていた。ショーケースの前に並んだ客を横目に店内をうろうろ歩き、内装をじっくりと見つめた。やはり宇宙船のようだとタケルは思う。未来的で、無機質で、どこか遠くへ連れていってくれる。そんな乗り物の内装に見えた。彼は想像力を働かせる。店を出たら、全く知らない冷えきった砂漠の惑星にいたらどうしようなどと想像して遊んだ。

「タケル君!」

 その声を聞いて、彼ははっとして振り返る。ユリカの母が呼んだのだった。客がいなくなったショーケースの前まで歩いていき、タケルは彼女に問いかけた。

「どうして僕の名前を?」

「ユリカに聞いた」

「そっか」

「この前はありがとね」

「この前ですか」

「あの子と一緒に遊んでくれて」

「いえ、そんな」

「今日はちょっとおまけしたげる」

「いんですか」

「うん。いいよ。おじいちゃんやおばあちゃんにもよろしく」

「はい」

 そうして、ユリカの母はいくつか余計に焼き菓子を入れてくれた。それを家に持って帰ると、祖父母はとても喜んでくれた。

 金曜日。前日に続き、その日も天気がよく、朝から祖父の畑仕事を手伝った。そして、夜は外食をした。祖父母の家に来てから、三人での初めての外食だった。近くの洋食店に三人で行った。そこは昔からやっている人気のある店。中は客で一杯だった。タケルはオムライスを食べた。とろける玉子とデミグラスソースがとてもおいしいと思った。

 土曜日には再びランシアへ行った。ユリカに会うのが目的だった。心躍らせながら店に行く。しかし、彼女の姿はなかった。ユリカの母が言った。

「ユリカ、朝から頭が痛いって言ってて」

「そうですか」

 その日はシュークリームを一つだけ買った。明日、彼女は水族館に行けるだろうか。そんな不安を抱えながら家に帰った。

 日曜日。タケルは一人でバス停へ歩いていった。十時半のバスで一緒に駅まで行く。今日もそういう予定なのだろうと思い、その時間に合わせるように家を出た。十時二十分にバス停に着く。ユリカはなかなか現れない。刻々と過ぎていく一分、二分がやけに長く感じられた。太陽は青空の中でぎらぎらと輝いている。

「来ないのか」

 うつむき、アスファルトの地面を見つめ、ぼそりと一言発すると、柔らかな声が聞こえた。

「お待たせ」

 見ると、そこにユリカは立っていた。

「よかった。来ないかと思った」

「来たよ。この通り」

「頭が痛いのは大丈夫?」

「ええ、大丈夫。ご心配ありがとう。さあ行こう」

 ユリカが言うと、ちょうどバスが停留所に着く。ドアが開く。二人で並んでシートに座った。

「ほら、これ見てよ」

 ユリカはスマートフォンの画面を見せてくれた。リニューアルオープンしたという水族館の情報だ。イルカやナマコといったいろいろな海洋生物、そして、それを見て楽しんでいる入場客たちの姿が映し出されている。大人も子供も笑っている。彼女の見せてくれたその画面は、楽しさに満ちていた。

「行ってみたくなるでしょ」

「うん、楽しそう」

 バスが駅前に着いたら、降りて電車に乗った。それなりに遠くの駅まで行くので、切符もそれなりの値段だった。電車は二両編成で、乗り込んだ車両は二十人ほどの乗客がまばらに席を埋めていた。誰も座っていないボックス席にタケルとユリカは向かい合って座った。ホームの自販機で買った麦茶を一口だけ飲んで、ユリカは言う。

「タケルは何が好き?海の生き物だと」

「なんだろう」

「何?なんでもいいから言ってみてよ」

「タコかな」

「ああ、オクトパスね」

「今、なんで英語で言ったの?」

「勉強しなきゃ。受験生なんだから」

「じゃあ、ユリカさんは何が好き?」

「あたしはイルカ」

「ドルフィンだね」

「うん。あと、ナマコも。かわいいよね」

「ナマコ。ナマコってなんて言うんだろう。英語で」

「さあ」

 それで会話は終わった。タケルは移り変わる窓の外の景色を眺めて、たまに麦茶を飲んだ。麦茶はユリカが買ってくれた。彼女の分とともに。田や畑、小さな集落が見えては後方へ過ぎていく。しばらくすると遠くの方に工場が見えてきた。二本の煙突からは白い煙が空高く上がっている。ユリカはスマートフォンを時折いじっては、うつむいてこくりこくりと居眠りした。一時間ほど電車に揺られると、水族館の最寄駅に着いた。

「行こう」

 と言って、ユリカが立ち上がる。

「うん」

 タケルも席から立ち上がる。ほかの乗客も一斉に下車した。そこはそれなりに大きな駅。ちょうど二週間前の日曜日、この駅で新幹線から在来線に乗り換えたのをタケルは思い出す。ホームには多くの人が立っていて、乗客が降りるのを待ち構えている様子だった。

 駅を出ると、賑やかな街が広がっていた。高層ビルが建ち並び、人通りもそれなりに多い。タケルの生まれ育った場所ほどではないが、そこには都市部の騒がしさがあった。

 駅前のバス停から水族館行きのバスに乗る。バス停前には多くの人が列をなしていた。シートに座ることはできず、水族館前のバス停までユリカと立ったままバスに揺られることとなった。

「みんな水族館に行くんだね」

 とタケルが言うと、

「うん。大人気だから」

 とユリカは言った。

 バスを降りると、水族館はすぐ目の前にあった。青と白を基調とした外壁の、とても大きな建物が建っている。リニューアルしたというだけあって、その見た目は真新しさを感じさせるものだった。そこへ引き寄せられ、吸い込まれていく人々。遠くには海の水平線が見える。

「閉ざされてない。いい感じ」

 ユリカが言った。タケルは彼女に聞いた。

「今、なんて?」

「あ、なんでもない。行こう」

「うん」

 水族館に向かって歩き出す。閉ざされていない。一体どういうことだろうとタケルは歩きながら疑問に思うのだった。

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