3 火の楽園
タケルはコーヒーを飲む。
「どう?」
ユリカはタケルに聞いた。
「おいしい」
タケルは言った。それは、彼が今まで飲んだコーヒーとはほとんど別物と言ってもよい味がした。豊かな香りが、深い苦みが口の中に、鼻の奥にまで広がって、とどまり続ける。ユリカは言う。
「ここのは特別。普通のお店じゃ扱ってない特別な豆を使ってるから。普段飲むのとは全然違う味がするでしょ」
「うん。こんな味は初めてだ」
「熱いうちに飲んだ方がいいよ。熱いのが一番おいしいから」
「うん」
タケルは、また一口飲む。胸の奥底からじわじわと湧き立つような高揚感。ワッフルを一口、二口と食べる。ほどよい甘みとふんわりとした食感を楽しむ。ユリカもワッフルを一口食べる。そして、コーヒーを一口飲む。それから、彼女はほんわりとした表情を浮かべ、店の壁に掛けられた一枚の大きな絵画をぼんやりと眺め続けた。その絵画は、賑やかな市場の光景を切り取った風景画だった。時間は静かに、ゆったりと流れた。
「ユリカさんに見てほしいんだけど」
「何?」
タケルはポケットから金色の鍵を出して彼女に見せた。
「ああ、あのときの鍵ね」
「うん、これ、何に見える?柄のところなんだけど」
「なんだろう」
首を傾げながら彼女は言う。
「魚かな?それとも、鳥のくちばしかな」
タケルが言うと、
「どっちも違うと思う」
と彼女は否定する。
「違うかな」
「そういう風に見えなくもないけどね」
「何に見える?」
「分かんない。でも、綺麗な形だよね」
「そうだよね」
「大事にしてあげて。その鍵にはきっと大事な役割があるから」
「楽園の扉を開ける役割だね」
「そうだよ。あたしが気付いたのは七歳の頃」
「何に気付いたの?」
「楽園があるということ」
「楽園が?」
「うん。楽園があることに気付いた」
「どんな楽園?」
「そこは、いろんなのがある。いろんな動物がいて、いろんな人がいる。それに、かなり広い。いろんな場所がある」
「いろんな人?いろんな場所?そういうのがあるっていうの?」
「うん。誰にでもあるよ。そういうのが、君にもね」
「そんな」
「気付いていないだけ。ちゃんと楽園がある。普段はそこへ行くことはない。でも、眠っているときとか」
「夢の中みたいなもんかな」
「うん、まあ厳密に言うと、ちょっと違うかな」
「ちょっと違うっていうのは?」
「夢の中が必ずしも楽園ではない」
「どういうとき楽園に行けたって思うの?」
「鍵だよ」
「鍵」
「楽園に行くときは扉を開ける必要がある。黄金の鍵で重い扉を開けるんだ。だいたい分かる。あ、今日は楽園に行けるって。鍵を手にしていて、重い扉の小さな鍵穴に差し込んでぐいっと回すと、がちゃんって音がして、ゆっくりと扉は開かれる」
「そうすると、どうなるの?」
「楽園に行ける」
「楽園はどんな場所?」
「どんな場所って言われても。広いから、一言じゃ言えないよ。今日は火の楽園についてお話しよっか」
「火の楽園?」
「そうだよ。火は、燃える火のことね」
「うん」
「火の楽園っていうと、とても暑いところを想像するでしょ。でもそうではない。暖かい。楽園は基本的にどこでも暖かい。とても穏やかな気候なんだ。穏やかで、雨も滅多に降らない。季節もない。いつも春のような天気。だからとても過ごしやすい。火の楽園もそんなところ。名前がちょっと物騒だけどね。のどかでとってもすてきなところだよ」
「火の楽園で何をするの?」
「豆を栽培してる」
「豆?」
「そう、細長い豆。でも、さやえんどうとかそういうのではない。固くて、細長くて、茶色い豆。形はそうだなあ」
しばらく辺りをくるくる見回してから、ユリカは少し大きな声で言った。
「そんな感じ!」
タケルがポケットから取り出した黄金の鍵。テーブルの上に置いたままだった。それを指さして彼女は言った。
「これ?」
「うん。柄の部分が、豆の形によく似てる」
「そうなんだ」
「うん。あたしも収穫のお手伝い何回かしたんだけどね。ちょうどそんな形の豆なんだ」
「そうなんだ」
「そうだよ。とてもいい香りがする。あんまり長く素手で触っているとかぶれちゃうから注意が必要なんだけど」
「その豆をどうするの?」
「焙煎する」
「焙煎?」
「そうだよ。火で熱して、豆を乾燥させるんだよ」
「乾燥させてどうするの?」
「細かく砕いて、お湯で成分を抽出する」
「抽出してどうするの?」
「飲むんだよ」
「コーヒーじゃん」
「違う、違う。コーヒーとは別の飲み物。まあ、かなり似てるけどね。色も黒いし、苦いし」
「それにおいしい」
「そうだよ。よく分かったね」
「そんな気がした」
「飲ませてあげたいけど」
「ユリカさんの楽園には行けない」
「そうだよ。楽園はみんながそれぞれ持っているものだから。でもね、今日のこのコーヒーショップのブレンドコーヒー、かなりいい線行ってるから」
「そうなんだ」
「そうだよ」
ユリカはコーヒーを一口飲み、ワッフルを一口食べた。タケルはワッフルを一口食べてからコーヒーを一口飲んだ。年配の男女が会計を済ませて店を去っていった。店の客は二人だけになった。ユリカは言う。
「どうして火の楽園でそんなことが行われてるのか。分かる?」
「ううん、焙煎と関係してるのかな?火を使うし」
「当たり。特別な火を生み出せるんだ。火の楽園は。火の楽園の火は、特別な火なんだ。だからみんなそう呼んでいる。あの場所を火の楽園と。あの場所で起こす火は、ほかの場所のそれとは違う。根本的にね。それはもうみんなの共通の認識で、いいえ、それはもう常識みたいなもので、火を起こすなら火の楽園で、焙煎するなら火の楽園の火で。そんな感じなんだよ」
「火の楽園で生まれる火は、一体何が違うの?」
「まろやかなの」
「まろやか?」
「まろやかな火なの。じんわりと対象を温める。表面をかりかりにするんじゃなくて、中からじんわりと温める。そんな性質の火なの」
「あ、それって遠赤外線とか、そういう」
「何それ?」
「いや、なんでもない」
「とにかくね、そういうまろやかな特別な火が生まれる場所なんだ。だから、火の楽園。覚えておいて」
「うん」
それから、ユリカはワッフルを一口食べて、コーヒーを一口飲んだ。タケルはコーヒーを一口飲んでからワッフルを一口食べた。すると、二人の目の前に置かれたコーヒーカップもワッフルの盛られていた皿もすっかり空になってしまった。最後の一口は、コーヒーの香りも、ワッフルの食感もいくらか劣化してしまっていたが、それでもタケルにはおいしく感じた。
「お会計しよっか」
ユリカは言う。
「うん」
タケルが言うと、彼女は立ち上がって、レジカウンターへ行き、支払いを済ませた。
「お金は?」
タケルが言うと
「今日だけね。一応、あたしが年上だし。今日はありがとう。話を聞いてくれて。それに、いつもお店でお菓子を買ってくれてありがとう」
とユリカは言った。コーヒーショップを出て、バスに乗る。バスは二時間に一本。ちょうどよいタイミングでそれは来た。二人で乗る。制服姿の男女が何人かで固まって座り、話をしていた。近くの学校の生徒だろうかとタケルは思う。タケルとユリカは来たときと同じように二人がけのシートに並んで腰掛けた。バスが発車するとユリカが言った。
「タケル君は水族館好き?今度、よかったら一緒に行かない?」
「水族館?」
「ボロかったところが、最近リニューアルして」
「ボロかったところ?リニューアル?」
「うん。ここからちょっと遠いんだけど。電車に乗れば、まあそんなにって感じ」
「行きたい」
タケルは特に魚を見るのが好きというわけではない。ヒトデも、貝も、エビも特に見たい気分ではない。イルカショーなども行ってみれば、それなりに楽しめるのかもしれないと思うが、取り立てて見にいきたいわけでもない。だが、ユリカと出かけられるのならと思い、行きたいというその言葉を、ほとんど間を置かずに発していた。ユリカは微笑んで言う。
「決まりだね。来週またバス停で」
「うん、今日はありがとう」
ランシア近くのバス停で、二人は降車し、その日は別れた。