2 珈琲店にて
ランシアを出たあとは、真っすぐ祖父母の家に帰った。帰る途中、道路を走っていたのは数台の軽トラックだけだった。タケルは自分の部屋に行き、見つけた鍵を座卓の上に置いた。そして、それを眺めながらランシアで買った生菓子を食べた。表面に散りばめられたナッツの香ばしさと濃厚なクリームの味わいがとてもよく合っていた。食べ終えると、勉強をした。どうしても鍵をちらちら見てしまうので、ポケットの中にそれをしまった。勉強に疲れたら、横になって少し眠った。そして、祖母に呼ばれる。食事の用意ができたから来なさいと。祖父母と三人で昼食をとる。食事を終えるとタケルは食器洗いを手伝い、祖父の畑仕事を手伝った。土の匂いや触ったときの感触はとても久しぶりで、懐かしかった。
夕方になると、タケルは部屋の小さな座卓に向かい、勉強した。ポケットから鍵を取り出す。見つめる。しばらく見つめたらポケットにしまう。勉強を再開する。そんなことを繰り返すうちに夕食の時間になった。
「勉強は順調か?」
祖父が聞く。
「まあまあです」
とタケルは答えた。
「無理しないでね」
祖母が言う。
食べ終えるとタケルは風呂に入り、歯を磨いて眠った。ここへ来てから、夜の八時半に寝るのが習慣となった。テレビ番組は見ず、インターネットも使わない。世間や社会の動向に耳を塞いで目を閉じて、人の集まる都会から遠く離れて暮らすこと。そういう静かな生活も案外いいかもしれないと思うようになっていた。その日から、夜中に目が覚めることもなくなった。深く穏やかな眠りを彼は久しぶりに得たのだった。
次の日、タケルは朝の五時に起きる。部屋の窓を少し開けると、鳥の声が聞こえてくる。同時に、朝のさわやかな風が入り込む。晴れやかな天気だった。彼が祖父母の元へ来てから、晴天が続いている。参考書も問題集も開く気になれず、畳の上に寝転がって鍵を見つめた。何度も見ているが、飽きが来ない。彼は考える。この鍵の柄は、一見何かを模しているようで実は何も模していないのではないかと。この鍵を作った人は、頭に浮かんだ形をただそのまま表現しただけなのではないだろうかと。
祖母に呼ばれる。野菜を洗うのを手伝ってほしいということだった。タケルは台所に向かい、水道水で丁寧に洗った。そして、祖母はその野菜を使って手際よく調理し、朝食を作った。祖父母とタケルは食卓を囲む。
「今日も散歩するの?」
祖母が聞いてくる。
「はい、行ってきます」
タケルは答える。
「今日はどこに?」
祖父が聞く。
「今日もランシアの方に行ってきます」
彼は、陳列された洋菓子よりも店員の方が気になっていた。彼女の明るい笑顔。彼女が発した楽園という言葉。ふと思い出し、じわりと胸が熱くなる。
「ごちそうさまでした」
食事を済ませて、歯を磨き、外へ出かけた。ランシアへ行くと、昨日の彼女はいなかった。代わりに、タケルの親と同年代と思われる女性の店員がショーケースの向こう側に立っていた。背が高く、恰幅がよい。ショーケースの中をしばらく眺めてから、彼女にタケルは話しかける。
「あの、今日はお姉さんはいないんですか?」
「お姉さん?」
「僕と多分同じくらいの年で、その」
「ああ、ユリカのこと?」
「ユリカさんっていうんですね」
「うん。うちの娘よ」
「そうなんですか」
「あ、君がそうなのね?」
「え?」
「あの子言ってたわ。同い年くらいの男の子が来たって」
「はあ」
「あなたのことだったのね」
「多分、そうかもしれません」
「学校は?行ってないの?今日も、昨日も、平日だけど」
「いいんです。行かなくて」
「どうして?」
「落ちたんです。行く学校がありません」
「落ちた」
「はい。試験に落ちたので」
「あら、それは残念ね」
「そうですね」
「余計なこと聞いちゃった。ごめんなさい。まあ、お菓子を食べて元気出して。ユリカは、今日は学校へ行ったの」
「そうですか」
「あの子もね、昨日まで学校へ行かずにこの店の手伝いをしてたんだよ」
「ユリカさんは、もうここで店番しないのですか」
「いいえ、土曜日だけあの子が手伝うことにしてる」
「そうですか」
「うん。で、何にするの?これとかこれもおいしいよ」
「これにします」
小さく切られた果物がいくつも乗った生菓子を指さして言った。
「ありがとう」
会計を済ませる。菓子を包装しながら、ユリカの母は言った。
「よかったら、あの子と仲良くしてあげて。親の私が言うのもあれだけど、少し変わったところがあるけど」
「あ、はい。また来ます」
「うん」
にっこり笑って彼女は言った。今日は水曜日。土曜日に彼女に会える。木曜日と金曜日、あと二日、あと二日なのだとタケルは強く思う。生菓子の入った袋を手に下げて、店を出る。一歩一歩に弾みをつけて、祖父母の家に向かって歩き出す。
木曜日と金曜日、タケルは淡々と過ごした。汗をかくことも、心拍数が上がることもない静かで穏やかな二日間。木曜日には祖母と家の床掃除をした。雑巾でよく拭いて、ワックスがけをした。金曜日には雨が降った。しとしとと降り続く雨の音を聞きながら、問題集を開き、問いの答えをせっせとノートに書いた。この二日間、タケルは一歩も外へ出ることがなかった。
そして、土曜日。彼女に会える日。待ちわびた日が訪れた。目覚めてから胸の高鳴りが止まない。昨日から続いていた雨は夜のうちに上がっていた。窓の外からは澄んだ青空が見えている。
朝食を食べたあと勉強を始めるが、手に付かない。ランシアの開店は午前十時。歩くと片道四十分近くかかる。タケルは逆算して出発時間を決める。九時二十分にここを出よう。今は八時四十分。あと三十分は勉強を続けよう。そんな小さな計画を、頭の中でひっそり立てて、実行すると心に決める。
そして、計画通りに家を出る。日に日に暑さは増していた。その日の外気はまるで夏のようだった。日傘を差した中年の女性とすれ違い、腰の曲がった高齢の男性を追い越した。そうして、住宅街の外へ出る。田畑の中の道を歩き続けると、ランシアが見えてくる。もうすぐ十時になる。店の周りをうろうろ歩き回り、開店直後に店内へ。
「いらっしゃいませ」
ユリカの声。聞き覚えのあるその声にタケルは安堵する。そして、にわかにそわそわし始める。
「あ、今日も来てくれたんだ」
顔を合わせるなりユリカは言った。
「うん」
タケルはそう返事をするので精一杯だった。
「あたしの母さんからもう聞いてたかもしれないけど、学校行くことにしたの」
「そうなんだ」
「専門学校。ここから遠いんだけど。だからね、土曜日しか店にいないんだ」
「そうなんだ」
「そうだよ」
そこで会話は途切れたが、ユリカの笑顔は途切れない。彼女はずっとにこにこしている。タケルは菓子を選んでいる振りをして、ちらりちらりとユリカの顔を見る。今日もすてきな笑顔だと思った。
「これなんかおすすめよ」
「おいしそう」
「そうでしょ」
「これにします」
「ありがとう!」
代金を渡して会計を済ませる。このままでは終わってしまう。もっと話がしたかったのに。せっかくこの日が来るのを待っていたのに。そう思い、勇気を出して、タケルは言った。
「あの!」
思いがけず大きな声が出た。静かな店内にその声はやけに響いた。
「何?」
ビニール袋に品物を詰めこむ手を止めて、少し驚いた様子でユリカは言った。
「もっと、お話がしたいです」
「あたしと?何の話を?」
「えっと、楽園の話とか」
ユリカは赤面する。その顔は困っているようで、どこか嬉しそうでもあった。タケルが聞く。
「だめ、ですか?」
「だめ」
「そう、ですか」
「うそ、うそ、いいよ」
「ホントに?」
「うん。明日ってヒマ?」
「はい」
「じゃあ、お店近くのバス停に来て」
店の近くに立てられたバス停の看板をタケルは思い出す。
「あ、分かった」
「バスに乗って、街へ行こう。十時半にバスは出るから」
「うん」
そうして、その日はランシアを出た。タケルはユリカと二人で出かけることに胸が躍る思いだった。その日はなかなか寝付けなかった。
次の日、約束通りの時間に二人でバスに乗る。空はどんよりと曇っていたが、雨は降っていない。朝見たニュースの天気予報でも、夜までなんとか降らずに持ちこたえるだろうということだった。二人がけのシートに並んで座る。乗客はほかに三人だけで、車内はがらんとしていた。ユリカは言う。
「コーヒー、好き?」
「好きです」
「それならよかった。いいよ、普通に話して。ですとか、ますとか、カタイのはナシにしようよ」
「うん」
「おいしいお店があるんだ」
三つ目の停留所でバスから降りた。そこは、小さな駅の前にある停留所だった。タケルはその駅に来たことがある。この街へ来たとき、祖父母が改札の前で出迎えてくれた駅だった。
「こっち」
と言って、先にバスから降りたユリカが手招きする。タケルは彼女に付いていく。着いたのは、駅のすぐ近くにある小さなコーヒーショップだった。
「ここ、いろんな豆置いてるし、飲むスペースもあるの」
「そうなんだ」
店内に入る。コーヒーのとてもよい香りがした。袋詰めされたさまざまなコーヒー豆が並ぶ陳列棚。その奥にいくつか置かれているテーブルとイスのセット。コーヒーを楽しむ年配の男女が一組。彼らは何かについて密やかに語り合っている。そんな彼らから距離を置き、空いている席にタケルとユリカは向かい合い座る。
「ブレンドコーヒー二つ。あとワッフルも二つください」
注文を取りにきた店員にユリカは告げた。
「はい、かしこまりました」
店員は店の奥へと消えていく。
「名前は?君なんていうの?」
ユリカはタケルに聞いた。タケルは答えた。
「タケル」
「タケルっていうんだ。あたしはユリカ。って、もう知ってるよね」
「うん」
「何歳なの?」
「十六歳」
「あたしは十八歳。特技は?」
「特技。これと言ったものはないや」
「あたしはね、寝ること。タケルは食べることと寝ること。どっちが得意なの?」
「食べることかな」
「そんな気がした」
そして、彼女はにっと笑ってみせた。それからユリカはタケルに、この街にいつから来たのか、どこから来たのか、どうして来たのか、そんなことを矢継ぎ早に聞いた。タケルは少し慌てふためきながらも一つ一つの問いに答えた。正しく、短く。すると、彼女は言った。
「そっか。受験、残念だったね」
「うん」
「今度はきっと上手くいくよ」
「うん。頑張る」
「あたしもね、進路どうするか悩んでた」
「そうなんだ」
「親にも、先生にも相談して」
「そっか」
「でも、最後は自分の意志だった」
「自分の意志」
「そうだよ。大事なのは自分の意志。どうしたいか、何がしたいか。周りの人たちはいろいろ言うけどさ、時々、無責任だなって思うこともあるけどさ、最後は自分の意志なんだよ。自分の胸に問いかけてみるんだよ。それで、それが一番なんだって。最後は気付いた」
店の奥からトレーを持った店員が現れ、熱々のコーヒーが入ったカップと真っ白いクリームが乗ったワッフルの盛られた皿をテーブルの上に置いた。タケルは言う。
「おいしそう」
「でしょ。召し上がれ」
そう言って、ユリカはにっこり笑う。