10 帰京
鍵を渡したあと、ユリカから楽園についていろいろな話を聞いた。月の楽園で「お月見パーティー」が開催されて、それに参加したこと。木の楽園で、どこまでも空高く伸びる木に登り、とても美しい景色を眺めることができたこと。そんな話をユリカはしてくれた。でも、それらの話はほかの楽園の話と比べると、タケルにはどこか曖昧でぼやけたものにしか聞こえてこなかった。
「そろそろ帰ろう」
日が傾き、空が暗くなり始めた頃、ユリカは言った。
「うん」
二人で帰り道を歩く。ユリカが言う。
「どうしたの。今日はなんだか上の空だね」
彼女は不機嫌そうだった。
「そうかな。ごめん」
「いいよ、いろいろ考えごとがあって、集中できないことってあると思うし。ただ、何かに悩んでいるのなら、教えてくれてもいいかなってあたしは思うよ。どうかしたの?」
タケルは考えた。どうしてだろう。どうしてユリカの楽園の話に興味が持てなくなってしまったのだろう。鍵を渡してしまったからだろうか。いや、そうではない。単純に、そういうことではないのだ。歩きながら、考えて、考えて、彼は言葉を発した。
「そろそろ僕は帰るべきじゃないかと思うんだ」
「帰る?」
「うん。住んでいた場所に。そろそろ帰らなきゃいけないような気がするんだ」
「そっか」
タケルは言ってみて、思う。これはただの思いつきではないと。なんとなく考えていたことではあるが、自分がそのことについて考えていることをはっきりと意識してはいなかった。ユリカの話をひどくぼやけたものにしてしまう、今日のこの心の曇りは、こういうことが原因だったのだろうとタケルは思う。
「いつ帰る?」
ユリカが聞いてくる。
「明日っていうのは急だから、来週にする」
「見送るよ」
「ありがと」
「どこで会おっか?」
「いつものバス停にしよう」
「そうだね、それがいいね」
それからバスに乗り、いつものバス停の前で二人は別れた。
「また来週」
とユリカ。
「うん、バイバイ」
タケルは言って、手を振った。ユリカも小さく手を振り、微笑んだ。
家に帰ると、夕食の準備ができていた。祖父母と食卓を囲む。タケルは切り出した。
「そろそろ帰ろうかなって思うんだけど」
祖父母は一瞬、驚いた表情を見せて、それから、納得したように二人ともこくりこくりとうなずいた。
「そうか。タケルがそう思うなら、そういう時期なんだろう」
と祖父が言う。
「もう帰るのね」
と祖母が言う。二人は寂しそうだった。だが、二人の言葉を聞き、タケルは、自分から帰るのを切り出すことを、二人は待っていたのかもしれないと思った。タケルが元気になり、帰りたくなるまで預かること。それが自分たちの役割だと祖父母は前から分かっていた。タケルは二人に感謝の気持ちを伝える。
「うん。今までありがとう。帰ってからも勉強頑張ります。また遊びにくるね」
「またいつでもおいで」
と二人は言った。
最後の一週間は静かに過ごした。月曜日から金曜日まで、ほとんど外へ出ず、食事をして、勉強して、家の手伝いをして、食事をして、昼寝をして、また勉強して、食事をする。その繰り返しで、静かに淡々と日々は過ぎていった。ランシアへ行く気にはならなかった。ユリカに出ていくことを伝えてから、店にふらりと立ち寄ることは、なんとなく恥ずかしいことのように思えたから。
土曜日は、祖母が一際手の込んだ料理を作ってくれた。そして、家の前で三人で記念撮影をした。祖父は、あとで印刷して送ると言った。その日も空はよく晴れていて、涼しい風が吹く、心地よい一日だった。
日曜日。とうとう帰る日。いつものように起きて、三人で朝食をとる。それから、タケルは身支度をした。着替えや勉強道具をすべてリュックに詰めて、靴ひもを結ぶ。
「本当に、送らなくていいのか?」
祖父が聞いてくる。
「いいよ。大丈夫だから。本当にお世話になりました」
玄関で小さく一礼して、家を出た。行き先は、ランシアの近くにあるバス停。しばらく歩いて、バス停が見えてくると、そこにユリカの姿があった。先に来て、待ってくれていたのだった。
「おはよう」
とユリカ。
「うん、おはよう」
軽く挨拶を交わし、それから無言のまま五分ほど立って待っていると、バスはやってくる。二人で乗り込み、席に座った。バスに乗ってからも、互いに一言も話さなかった。駅前のバス停で下車すると、ユリカは言った。
「改札までね」
「うん」
駅に向かって二人で歩く。タケルは券売機の前に行き、帰りの切符を買う。そして、手を振ってユリカのそばから離れようとしたそのときだった。
「ねえ、待って!」
ユリカが言う。驚いて、タケルは立ち止まる。ユリカは言った。
「これを上げる」
タケルはきょとんとしてユリカの顔を見る。彼女は一通の手紙を差し出している。純白の封筒に包まれた一通の手紙を。なんだろうと思い、タケルは受け取り、中を開けようとする。すると、
「だめ!」
とユリカは大きな声で言った。その声にタケルは驚き、ユリカの顔を見つめる。彼女は言った。
「帰りの電車で見て。ここではだめ。開けたらだめだから!」
一生懸命に言う彼女の顔を見て、手紙に何が書かれているのかタケルはとても気になった。しかし、彼女の願いを受け入れて、リュックの中へしまい込んだ。
「新幹線の中で読むことにするよ」
「うん!」
ユリカは笑ってうなずいた。そして、二人で手を振り合い、別れた。
約束通りタケルは新幹線の中で、その手紙を読んだ。読み終えて、タケルは一人、小さな声で言った。目に涙を滲ませながら。
「やられたっ!」
手紙にはこう書かれていた。
「タケル君へ
今まで本当にありがとう。短い間だったけれど、とても楽しかった。タケル君と出かけた水族館も映画館も楽しかったよ。楽園の話も聞いてくれてありがとう。私からあなたに一つ言っておかなければならないことがあります。それは、あの鍵についてです。タケル君が私にくれた、金色の鍵についてです。どうしても私は、あなたに一つ、言っておかなければなりません。言っておかなければ私の気持ちがすっきりしないのです。このたった一つのわがままを許してください。私はあの鍵がどうしても欲しかったのです。初めて見たときから。欲しくて、欲しくて、たまらなかったのです。なんとかしてあなたから奪い取ってしまいたいと思ったのですが、私にはそんなことをする勇気はありません。だから、あなたが私に上げたいと思うように仕向ける必要があったのです。本当に、どんなことをしても欲しかった。私ができる、どんなことをしても。あの鍵を譲ってくれてありがとう。大切にします。また、気が向いたら遊びに来て。でも、鍵を返してとは言わないで。さようなら。」
祖父母の家の中。タケルが出ていったあと、寂しそうに祖母が言う。
「なんだかまた、寂しくなったね」
「そうだなぁ。そう言えば、母さん」
祖父が言う。
「何?」
「鍵を知らないか?」
「鍵?」
「ああ、こういう、曲がってて、金色で」
「さあ。知らないね」
「うむ。そうか」
「大事な鍵なの?」
「いや、特に大事ってわけでもないんだけどな」
「何に使う鍵なの?戸が開けられなくなったら、困るんじゃないの」
「いや、そういうもんじゃないんだ。あれは」
「じゃあなんなの?」
「あれでな、足の裏をぐりぐりすると気持ちがいいんだよ。ちょうどいい曲がり具合でな。こう、ぐりぐりっとね。あと、指と指の間も」
「あら、汚い!そういうのホームセンターで買ってきてあげるから」
「うん、じゃあ、頼むよ」
終わり