1 離京
タケルは受験に失敗した。勉強を怠ったわけではない。学校から配られた問題集は、どれも何度も解いていた。模擬試験の合格判定も決して悪くはなかった。試験本番の日、特に体調が悪かったということもない。だが、不合格。彼に突きつけられたのはそういう結果だった。
友達は全員合格を決めた。第一志望にしろ、滑り止めにしろ、彼らには「行き先」があった。春から始まる新しい生活について楽しげに語り合う友達。タケルはそんな彼らの近くにはいられなかった。教室の隅で、あるいは図書室で一人本を読みふけり、卒業までの日々を静かに過ごした。
四月に入ってからのこと。日中は誰と遊ぶこともなく、一人で机に向かい続ける。夕方になれば、学習塾へ行き、いくつかの講義を受けた。満足に眠れない夜が増える。眠りについても悪夢で目が覚めてしまう。どんな悪夢なのかは思い出せない。だが、ひどい悪夢であることに違いなかった。額や首にたくさんの汗をかき、ときに大声を上げながら布団を払いのけ、ベッドから跳び上がるほどのものだったのだから。五月は特に症状がひどくなり、ほとんど毎夜そういうことを繰り返しては、家族に大変な迷惑をかけた。
環境を変えてみてはどうか。それは親からの提案だった。環境を変えて気持ちを切り替える。彼自身、そうすることは今の自分に必要なことのように思えた。彼は親の提案を受け入れ、祖父母の暮らす田舎へ移ることになった。のどかな田舎へ行けば、緊張も解け、夜中に跳び起きるようなこともなくなるのではないか。親の考えはそういうものだった。
祖父母の家へ向かう日。それはゴールデンウィークが終わりを迎えた日でもあった。世間が、社会が、日常の慌ただしさを取り戻そうとする日。そんな日に、彼は生まれ育った街を出た。一人きりで。新幹線にしばらく乗り続ける。先へ進めば進むほど高層ビルは見えなくなった。代わりに、まばらに並んだ低い建物と広い田畑が窓の向こうに広がる。新幹線から在来線に乗り換えて、さらに進む。祖父母の家の最寄り駅に到着したのは、出発からおよそ三時間半後のことだった。彼の祖父母は改札の前まで迎えに来ていた。二人ともにこやかに笑っていた。祖父が手を振ってくる。タケルは笑顔を作り、手を振り返す。
駅からは祖父の運転する乗用車に乗って移動した。祖母が助手席に、タケルは後部座席に一人で座った。背負っていた少し大きなリュックを隣に置いて。田畑の中を一本の幹線道路が伸びている。祖父の運転する車は、その上をしばらく走り続けた。そして、左の小路へ入り、踏切を越え、学校と工場の近くを通り過ぎ、小さな住宅街の中へ。車が停車する。祖父母の家に着いたのだった。田畑に囲まれた小さな住宅街。その隅に建つ一軒家。それが祖父母の家だった。車から降り、その家の外観を見て、タケルは思う。前に訪れたのはいつのことだっただろうかと。はっきり思い出せない。車から降りると暖かい日差しに包まれる。彼の新しい生活はこうして始まった。
タケルには小さな部屋が与えられた。そこはもともと祖父が書斎として使っていた部屋。小さな座卓を一台置き、その上に参考書や問題集を立てて並べた。あまり勉強しなくていい。出発前、親に言われた言葉をタケルは思い出す。気持ちを張り過ぎないこと、落ち着かせること、それが目的なのだからとも言っていた。いつまでここにいるのだろう。それさえも決めていない。
静かに時は過ぎていき、タケルが祖父母の家で暮らし始めて三日目の朝の迎える。これまでのところ、夜中に目覚めることはあっても、声を上げたり跳び起きたりすることはなかった。症状は落ち着いたのだった。祖母の作った朝食を食べ終え、居間で横になっていると、何かが落ちているのに気付く。腕を伸ばして、それをつかみ、拾い上げる。上体を起こして、じっとそれを見つめた。それは、鍵だった。全体が金色で、柄の部分が不思議な形をしている。いかにもそれが鍵であることを主張している角張った凹凸のある先端部分とは対照的に、柄の部分はとても滑らかな、いくつもの曲線によって形作られていた。流れるように、揺らめくように、それらの曲線はしなやかに交わって、世にも美しい形を作り出す。何かの動物を象ったものなのだろうか。それとも、何かの植物を模したものなのだろうか。タケルには分からなかった。家の鍵、車の鍵、棚の鍵。今までいろいろな鍵を彼は見てきたが、それがなんの鍵なのか想像もできない。もっと手に取って、眺めていたい。その鍵は、彼にそう思わせた。
「おばあちゃん、これ借りてもいい?」
台所まで行き、鍵を見せながら祖母に聞いた。祖母は食器を洗っているところだった。
「あら、それは?」
振り向いて祖母は言う。
「落ちてたんだ」
「そんな鍵、見たことないねえ。持っていたいなら持ってなさい」
「うん、ありがとう」
それから、タケルは食器洗いを手伝う。家事をなるべく手伝うこと。親から言われたことだった。掃除も、洗濯も、手伝うと決めていた。ただ、祖父母はもうやらなくていいよと言うことがあり、そういうときは大人しく従って、手伝うのをやめた。
食器洗いを終えると、タケルは散歩に出かけた。祖父母の家に来てから、午前中に散歩するのを日課にしようと決めていた。気分転換のため、運動は大切だと思うから。
出かける前から散歩のコースは決まっていた。住宅街を歩き、やがて抜ける。そして、今度は田畑の中の道を行く。右へ左へ緩やかに曲がりながら伸びる道。その上を歩き続ける。すると、一軒の背の高い建物が見えてくる。無機質な灰色の四角い建物。いくつもの深くて細い溝が外壁に刻まれている。その建物の外観はまるで精密機器の部品の一つをいたずらに巨大化したもののようだった。洋菓子屋「ランシア」。広がる田畑の中、ぽつんとそびえる灰色のその建物は、近所でも味がよいと評判の洋菓子屋だった。その店の前まで行き、引き返すのが彼の決めた散歩のコースだった。だが、その日は引き返さない。店に入ってみよう。彼はそう思い立った。建物の中がどうなっているのか、売られている洋菓子がどれほど美味なのか。気になっていたから。
タケルは店内へ入る。自動ドアが開くなり、ひんやりとした空気に迎えられる。冷房がよく効いている。きんと冷えたその空気を彼はとても気に入った。
「いらっしゃいませ」
弾けるような笑顔で女性の店員が言う。タケルは店の奥へ進む。店内を見回せば、白と灰色を貴重とした無機質な内装が視界に広がる。遠い未来の宇宙船の中にいるような気持ちになった。そして、店内に広がる甘い香り。もともと彼は甘い食べ物があまり好きではない。だが、その香りには体がとろけてしまうような心地よさを覚えた。
「何にする?」
ショーケースの中を真剣な顔で眺めていると、店員が聞いてくる。
「これにします」
どれが欲しいか指で示した。その洋菓子屋の商品名は、どれも長くてカタカナで、つっかえたり言い間違えたりしたら恥ずかしいので、彼はそうやって欲しい商品を彼女に伝えた。
「これね、ありがとう!」
そう言って、彼女は値段を告げる。
「はい」
タケルが財布から数枚の硬貨を取り出したそのときだった。財布にしまっていた金色の鍵も一緒に会計皿の上に落ちてしまった。
「あ、綺麗」
うっとりした表情で、鍵を見ながら彼女は言った。
「ごめんなさい」
慌ててタケルは鍵を拾って財布にしまう。
「それ、鍵?鍵だよね。綺麗だね」
と彼女が言う。
「ああ、まあ」
しどろもどろになりタケルが言う。すると、彼女は言った。
「知ってる?綺麗な鍵には大事な役目があるんだよ。綺麗な鍵はね、楽園の扉を開ける鍵なんだ。それで、楽園にはね」
「え?」
楽園。扉。思いがけない言葉が彼女の口から飛び出した。タケルは思わず聞き返す。すると、彼女はほんのりと頬を赤らめ、言った。
「ごめんね、急に、ごめんね」
彼女は慌てて硬貨を拾い上げた。釣り銭とレシートをタケルに渡す。そして、タケルが選んだ生菓子を手早く小さな紙箱に収めた。さらに、その紙箱を白い半透明のビニール袋にすっぽり入れて、差し出す。
「ありがとうございました」
最後は笑顔でタケルに言った。さっきの話を水に流して忘れるかのようなさっぱりとした彼女の態度だった。タケルは不思議そうに彼女の顔を見つめ、思った。とてもファンタジックな女の子だと。大事な役目。楽園。扉。もっと彼女の話が聞いてみたい。そう思った。この鍵を持って、明日もここに来よう。心に決めて、彼はランシアをあとにした。