角部屋
角部屋
ミーンミンミン――と、蝉の声が煩わしい夏の日だった。
久しぶりの休日であり、家に帰ってきていた私は、遅い朝食の為に近所のコンビニへ行こうとしていた。
陽射しが殺人的な勢いで私の視界を焼くが、幸運な事に私の家は四方一面、田圃に囲まれている。
必然的にコンビニまでの道も、田圃の境を縫う形で向かうのだ。
水が張られた田圃は周囲の空気を冷やしてくれるのか、偶に吹く夏風がとても心地よかった。
こういう話をすると、周りの人間はコンビニがさぞ遠く、それを歩きで向かうだなんて、よっぽど暇なんだろう、と辟易とした顔をするが、意外な事にコンビニは近い。
歩いて十分弱程度だ。
近くを県道が通っていて、そこの沿いにあるのだ。
途中に坂はあるが、距離はさほど無い。
問題は、その途中にある。
コンビニまで後少し、田圃の畦に小振りだが朱色の鳥居が立っている。
その先には、小さいが社がある。
簡素だが石碑が立ち、低いが何かの木も植えてある。
年季だけは無駄にあり、必要か分からないたった三段の石階には、一人の女性が座っていた。
「げっ」
目が合った拍子に、ついそんな声が漏れる。
大した距離ではないので、声こそ聞こえないが引きつった表情は分かるはずだ。
けれどその女性は、無駄にニコニコとした笑顔で、大きく手を振ってくる。
一度手を振られたら、彼女は私が行くまで振り続けるのだ。
つまり、逃れられない。
私は溜息一つ溢して、彼女の元へ向かった。
「……おはようございます。イナギさん」
「おはよう! 大丈夫? 元気なさそうだけど」
「朝飯がまだなんですよ」
「それは大変だね! 朝ご飯食べなきゃ、元気でないから」
だから早く、朝ご飯を買いに行かせてほしい。
そう思うが、どうせ言っても意味がないので、私は口を噤んだ。
「ちなみに、今何時?」
「…………一時ですね」
「朝ごはん買いに行くんだっけ?」
「……まあ、はい」
なんか嫌な予感がしてならない。
「うーん、もうこの時間じゃ、お昼ごはんだよね?」
「まあ、そうですね」
「私もお昼ごはん、まだなんだ」
「へー、そうなんですか」
「そうそう! だから一緒に、此処で食べようよ!」
「……いや、でも暑いですし」
「木陰があるからそんなに熱くないよ。
それに偶には、日光に当たらなきゃ」
ね?
そうイナギさんに言われては、私もそういつまでも断れない。
どうも母親や祖母に似た雰囲気を纏っているからか、彼女には頭が上がらないのだ。
見た目は凄く若々しいのに、中身はこれである。
相当の若作りと、最近の私はみている。
「まあ、わかりました。
それでは、コンビニ行きますか」
「うん。そうだねー。
……何買うか決まってる?」
カップラーメンですかねー、と答えれば。
イナギさんは、まるで母親の様に小言を言ってくる。
野菜ジュースもつけるといえば、すんなりと黙った。
そのガバガバな栄養基準は、なんだかなぁと思う私だった。
「さて、じゃあ食べようか」
「……そうですね」
準備のいいことにイナギさんは、レジャーシートを持っていたらしい。
それを社と木の合間に敷いて、私と彼女はそこに腰掛けた。
私の朝食(昼食?)は、ベストセラーのカップ麺と黄色い野菜ジュースである。
イナギさんは、サンドイッチが二つに高いで有名な珈琲店のカップコーヒーだった。
因みに料金は、私の財布から出ている。
「そういえば、知り合いからこんな話を聞いたんだけどね」
食べ始めてから暫く――丁度カップ麺を食べ終わり、私は残りの野菜ジュースを飲み干すところだった――経って、イナギさんは唐突にそう切り出してきた。
私は心中、つい「きた」と口にだす勢いで思った。
彼女の悪癖が、始まったのである。
「これは、弟が先輩から聞いた話なんだけどね」
「また、その手の話ですか」
嫌そうな顔でそう言えば、彼女はキョトンとした顔で見つめ返してきた。
「嫌なの?」
「嫌ではないですけど……」
「じゃあ、いいじゃない」
彼女は、最後のサンドイッチを口に放り込むと、いけしゃあしゃあと続ける。
別に苦手でも、嫌いでもない。
ただしょっちゅう聞かされては、溜まったもんではない。
まあ言っても聞いてもらえないので、私は大人しく聴くほかない。
こうして、彼女の『怪談』が始まった。
◆
コレは、ある会社員の人の話なんだけどね。
弟の先輩が、同級生の人から聞いた話らしいの。
同級生の同期。彼を仮にMさんとするけど。
このMさんというのが、仕事柄色々な場所を転々とする人らしくて。
そのせいもあって、数年の頻度で住居を変えることが多い人だったのね。
コレはそのMさんの話。
Mさんは、その時仙台の方に住んでいて、四月から転勤ということで、埼玉の方に引っ越すことになったらしいの。
詳しい場所は伏せるけど、そこには会社の寮があるってことで、そこに住むことになったのね。
元々Mさんこそ、どちらかというと山の中や田舎の方が仕事の現場としては多いけれど、会社全体で見れば、どちらかというと都内や街の中の方が多いらしくてね。
Mさんの新しい住居も、まあまあ都会の中にある寮だったそうなのね。
けど不思議な事が一つあって。
Mさんが入る部屋というのが、今まで誰も入ったことのない部屋だったそうなの。
会社の従業員は、別に少ないということはなくて、寮も一杯ではないけれどガラガラと言うほどもない寮が大半だったそうなのよ。
別に新しい会社ってこともないから、部屋だって既に年季が入ってる部屋が多いらしいしね、
でもそこだけは、異常なほど少ない。
まだ出来たばっかで。近くに支社がない。
……とか理由は色々考えられたから、Mさんは特に気にしないでそこに入ったそうなの。
行ったMさんは、ラッキーって思ったそうよ。
なんと、角部屋だったから。
右への音は気にしなくていいのね。
しかも左隣は、まぁまぁ仲の良い同期。
殆ど寮には帰らないにしても、たまの休暇には楽しめそうだって、そう思った。
荷物を運び込んで、その日に終わらせられるのは終わらせて、夜には同期と飲みに行って…………Mさんは部屋に帰った。
まだ春先のことだったから、仙台と比べて埼玉は暖かいな、とそんなことを思って布団に入ったのね。
そしたら、物音が酷い。
何だこの物音って、Mさんは思わず布団から出たの。
仙台の住居では、あの壁が薄いので有名なアパートだったから、物音にはそこそこ慣れているつもりだった。
だけど、その物音はそれよりも酷い。
でもMさんは壁ドンとか、怒鳴り声を上げるとか、そういう事は余りしない人だったから、その日はそのまま寝たの。
次の日、隣人は朝早くに仕事に出てしまったから、Mさんはとりあえず気にしないことにして、用事にでかけたそうね。
その日の夜よ。
けれどその日は比較的静かで、気にならないMさんはそのまま寝たのね。
けど、深夜二時頃。
ドン! っていう音で目を覚ました。
少し浅い睡眠だったせいで、Mさんは一気に目が覚めたそうよ。
びっくりさせられたのもあるし、安眠を妨害させられたことも苛立たしくて、Mさんは思わず壁を殴ってしまったのね。
奇しくも、それは前のアパートと同じ右の隣人で、以前にも騒音で苦しめられた経験のあるMさんは、部屋の家具やベッドの位置も同じだったものだから、ほぼ反射的にやってしまったのね。
心臓がバクバクと鳴って、それからスーッと頭が冷えてから、Mさんは思ったの。
――右は誰もいないじゃないかって。
角なんだから、音がすること自体おかしいって。
直ぐに、血の気が引いた。
即座に布団に包まって寝ようとした時。
――ドン! って音が返ってきた。
外の壁から、叩き返されたのね。
止めよう。気にしないでおこう。このまま寝よう。
Mさんは混乱した頭でそう思うと、ギュッと布団の中で目を瞑った。
そしたら……。
――ドン! ドンドン! ドン! ドンドン!
凄まじい勢いで、壁が異様な音を立て始めた。
思わず耳を覆ったMさんは、嫌なことに気づいたの。
音が、移動しているって。
しかも移動している先は、ベランダの方。
このまま移動していけば、音を出しているヤツは、ベランダの方へ行ってしまう。
そうすると、窓から入られるんじゃないかって。
Mさんは飛び起きて、窓を見た。
暖かいからって、窓は網戸を残して開け放たれていたの。
Mさんは急いで、窓を閉めた。
音は直ぐそこまで迫っていた。
閉めたMさんは、このままここに居たら変なヤツを見てしまうかも知れないって、すぐに布団へ飛びこんだの。
そして布団を被って、必死に耳を塞いだ。
けど、音はすっぱり止まったのね。
あれ、とMさんは拍子抜けした気分だったの。
壁しか叩かない妖怪なのかなって、よくわからないことを考えながら毛布をとって、それで窓の方を見てしまったのね。
そしたら、両手に何かを持った小柄な老婆が、万歳するみたいに両手を窓に当てて、じっと部屋の中を覗いてた。
壁を叩いたのは、中に何がいるかを確認するためで。
ガラスなら叩いて確認しなくたって、覗けば中に何がいれば分かるから、だから老婆は叩かなくなっただけだったの。
Mさんは即座に、部屋から逃げ出したそうよ。
……それきり、Mさんは部屋には帰ってないらしいわ。
たまの休暇もずっと現場に居て、それができない時は近くのホテルで夜を明かしているって。
なんで帰ってないかって?
勿論、ただ怖いってのもあると思うわ。
けど一番怖いのは、老婆が両手に持ってた物。
思い返すと、あれは包丁と玄翁に見えたそうで
――きっと、次は入ってくる。
……そう思うと、もう戻れないんだって。
◆
「……って話なんだけど」
「…………はぁ、怪談ってよりかは、不審者の怖い話って印象ですね」
私は言いながら、紙パックを潰す。
その私を見て、イナギさんは少し不機嫌そうに頬を膨らませた。
「あんま、驚かないのね」
「まあ、そういう話には慣れてますし」
何より、その話を"私は知っていた"。
彼女は私を見て、いらやしい笑みを浮かべると。
「知ってたから?」
と、驚くようなことを言い出した。
なんで知ってるのか、私は驚きのあまり、目を剥いて彼女を見つめた。
「Mさん…………松館さんって、あなたの知り合いでしょ?」
「……まあ、そうですけど」
松館は、私の同期である。
何を隠そう、私も一時期は、彼と同じ会社に勤めていたのだ。
諸事情で地元に帰ってきた私は、今はしがない工場勤務の中年である。
「実は、私はそういう類いの話を集めるのが趣味で、色々集めていく内に"そういう話はアイツに限る"って言われるようになってね?」
「……はぁ、そういうことですか」
つまり、彼女はそういう目的で私に近づいてきたのだ。
「それじゃあ、あまり私がそういう話を好きじゃないって言うことも、知ってるんじゃないですか?」
「えー? それは分かんないな。
……だって、皆アイツはそういうの好きだって、口を揃えて言ってたよ?」
「…………そうですか」
彼女は私に拝むように頭を下げると、大声で頼み込んでくる。
「お願い! 暇な時間でいいから私にそういう話をしてほしいの!」
「……しょうがないですね」
そういえば、彼女は目を輝かせながら顔を上げた。
こうして、イナギさんとの奇妙な関係が始まったのだった。
これはイナギさんへの話を纏める為に、私が私的に書いた話を纏めたものであり、そしてイナギさんへの文句兼日記の様なものである。