空色の瞳の子供
結局、一樽を二人で呑み干してしまった。と言っても、正確に覚えていない。今朝方、惣一から聞いたのだ。
弥素次が覚えているのは、一〇杯呑んだ時点でもう無理だと根を上げたが、一一杯目を渡されて呑む羽目になってしまった処まで。気が付いた時には、薬屋の貸してもらっている部屋の寝床に寝ていた。どれだけ呑んだのかも、どうやって帰ったのかも弥素次は全く覚えておらず、ただ困惑するだけだった。分かるのは、高くなった日差しが、目を覚ましてくれたこと。体が石のように重いことと、ふとした拍子に襲ってくる頭痛だろうか。
惣一には謝ったが、昨日連がまともに手伝いできないと聞いていたせいか、仕方がないという苦笑いを浮かべて寝ていろと言われた。今は甘えさせてもらい、横になっている。目を閉じているが、頭痛に襲われる度に顔を顰めていた。
扉が開く音がした。惣一が様子を見に来たかと思ったが、続いた音は小走りしているような音で、一音、一音が軽く聞こえる。気にせずに弥素次が目を閉じていると、今度は寝床が引っ張られるような感覚を覚えた。何かが寝床に上ったのか、ほんの少し布団が重く感じたかと思うと、腹の上に勢い良く乗られてしまい、一瞬、息が出来なくなった。眉間に皺を寄せ、重たげに瞼を開けた弥素次の視界に飛び込んできたのは、歳にして三、四歳くらいの金髪の子供で、好奇心いっぱいの表情で顔を覗き込んでいた。
「やしょじ起きた?」
甲高い、大きな声が子供の口から発せられる。
「目は覚めているのですが」
声が大きいせいか、二日酔いの頭には大量の鐘が響くように頭痛が襲ってきてしまう。
「頭が痛いです」
大きな空色の瞳が不思議そうに見つめながら、右に首を傾げた。
「痛い、痛いしてるの?」
「昨日、お酒を呑み過ぎまして」
誰の子供か知らないが、そっとしておいて欲しいと思いながらも、弥素次は律儀に答えてしまう。
「おしゃけ、呑みしゅぎましたか。後で、かかにおくしゅり貰いましょうね」
にこにこしながら言っているが、この無邪気な声は、今の弥素次にとって凶器以外の何物でもない。
「そうですね。出来れば、もう少し声を小さくして頂くと、嬉しいのですが」
さすがに大きな声は、耳を塞ぎたくなる。辛そうに顔を歪めたまま言葉を返すと、不思議そうにしていた空色の瞳は言葉を理解しようと弥素次を見詰めている。
「ちいしゃく? ひしょひしょ話でしゅか?」
「そうして下さい。処で、私は名前を知らないのですが」
この子供がいては、ゆっくり寝られない。弥素次は漸く起きる気になり、掛け布団の中から腕を出すと、子供が落ちないように右腕を回し、ゆっくりと体を起こした。
「名前はでしゅねえ、賢治っていうの」
言われた通り、賢治は小さな声で答える。
「そうですか。賢治は誰と、此処に来たのですか?」
「かかと来たの」
「かか?」
弥素次が聞き返すと、賢治は大きく頷く。
「かかにね、やしょじを呼んで来てって、言われました」
かかとは誰かと聞くつもりだったのだが、賢治の答えは全く違っていた。
「かかが誰なのか、行けば分かりそうですね」
呟いて賢治を寝床に降ろし、自分は寝床から出ると着替え始めた。
着替え終えた後、弥素次は賢治と共に一階に下りた足で店内に入ると、惣一と連が話していた。すぐに話を止め、弥素次を見る。連を見た瞬間に、狐に抓まれたような表情になってしまった。
「賢治は、連の子だったのですね」
賢治の顔がにっこりとしている。賢治の髪と瞳の色を見て、連を思い浮かべるべきだったと今更ながらに思う。
「お前、惣一に言った言葉と同じことを言わせたいのか?」
連が惣一に言った言葉は何となく想像がついたので、首を横に振って見せた。
「いいえ、賢治がかかと来たと言っておりましたので、誰なのか知りたいと思っただけですよ」
賢治が連の傍に行き、服を掴むと連の顔を見上げた。
「かか、やしょじをちゅれて来ました」
にっこりと連が笑みを見せると、賢治を抱き上げて頬ずりをした。
「賢治、かかのお願いを聞いてくれてありがとう」
「連は、ちゃんと母親やってるんだなあ」
何故か、しみじみと惣一が呟いている。
「ふふふ。かかがお願いしましたから、賢治はやしょじをちゅれて来たんでしゅ。でも、やしょじは頭が痛い、痛いなの。かか、おくしゅりやしょじにあげてくだしゃい」
賢治の言葉は、幼さ故にたどたどしく、子供らしい無邪気な表情を見せて、連に話している。
「賢治、ここは薬屋だ。かかが薬を渡さずとも、惣一が薬を渡すさ」
連はにっこりとしたまま答えた。
「しょうなの?」
連に抱き上げられたまま、賢治は惣一を見る。
その惣一は調合してある薬の中から、一つ取り出し弥素次に渡した。渡されて、申し訳なさげに苦笑してしまった。
「本当でしゅね。やしょじ、おくしゅり貰いました」
急に賢治が大きな声になった為に声が頭に響き、思わず弥素次は眉間に皺を寄せた。慌てて、賢治が口を塞ぐ仕草をする。
「やしょじに、ひしょひしょ話をしてくだしゃいって、言われてました」
連と惣一が、賢治の言葉を聞いて笑っている。少々ばつが悪そうにした弥素次は、惣一から貰った薬を飲みに母屋へ行く。
台所で、情けないと思いつつも水飲みに水を注ぎ、薬を口に入れると、水で一気に流し込んだ。
軽く息を吐くと、何時ここを出ようか考える。恐らく、連は昨日の話を惣一にしただろう。話をされた以上、此処にも長くいられない。行く当てはないが、それでも次の町に行こう。
水飲みを洗い、布巾で軽く拭く。
行くとすれば、何処に行くか。一番近い町は、篠木の町から一日くらいだろう。また、森を通った方が人目にはつきにくい。盗賊達と遭遇しかねないが、そんなことを言っている場合ではないのだ。とにかく、時間をかけてでも人目を避けたい。
水飲みを元の場所へ戻すと、台所を出て店の入り口で立ち止まる。
惣一にとっては失礼に値するかもしれないが、自分がいるが為に面倒に巻き込ませたくない。巻き込んでしまう前に、立ち去るのが惣一達夫婦にとって最良だ。しかし、現状は出て行く機会を失っている。出る機会を窺いながら、暫くは過ごさなければならないだろう。
深く溜息を吐いて、扉を開けた。