・98・謝罪
時間はまだ午前10時を少しすぎたところだ。
開店したばかりのカフェに入ると、まだ灰原ウォーは来ていないようだった。
奥の、仕切りによって個室のようになっている席に、キムとミーは並んで座る。
以前灰原ウォーと会った時は何も頼まなかったが、今回はキムがサクサクと注文をした。
どちらもホットの紅茶に、キムはバニラアイスの添えられたベイクドチーズケーキ、ミーには濃厚なチョコレートソースの使われているらしいチョコプリン。
先に紅茶が届き、スイーツの到着を待っている間に、灰原ウォーは来た。
黒髪をぴっちりと後ろに撫でつけ、細い黒フレームの眼鏡の奥に、笑ってない瞳。
高い背にがっちりした体格で、紺色のスーツに黒のコートをまとっている。
以前の記憶とほぼ変わらないその姿に、嘲るように嗤われた記憶まで同時に呼び起こって、ミーは思わず服のすそを握った。
「遅れてしまって申し訳ございません。だいぶ、お待たせしてしまいましたでしょうか?」
一礼して二人の前に腰掛けたウォーが、声音は済まなさそうに問う。
それにキムは首を小さく横に振ることで応えた。
「そうですか」と特に安堵した様子も見せずウォーは呟いて、店員を呼ぶ。
コーヒーだけを頼んで、ウォーは改めてキムとミーに向き合った。
「さて、わざわざ来て頂いて感謝します。藍塚さんは、体調などは大丈夫ですか?」
ウォーはまた小さく頭を下げ、ミーに視線をやる。
話を向けられたミーはさっと目線を紅茶のカップに向けて、コクリと頷いた。
クスリ、と苦笑のような吐息が聞こえた。
顔を上げれば、ウォーが困ったように眉を下げている。
「藍塚ミーさん、この前は本当に申し訳ありませんでした」
唐突に、ウォーは深くミーに謝罪した。
驚いて目を見張るミーの頭を、これまた不意にキムがそっと撫でる。
え、と……、と戸惑うミーに、姿勢を戻したウォーがちらりと、一瞬キムに視線を向けた。
「キムさんから事情はお聞きしました。あの時、貴女はほとんどヘキサアイズに関する事はお知りになっておらず、わたしは貴女をとても混乱させ、傷つけてしまったと」
そう、まっすぐにミーを見つめるウォーは、本心からそう言っているように見えた。
ミーは動揺しながら記憶をかき回し、ウォーの発言を思い出す。
そして、それがミーを『人間』扱いして嗤った事を指しているのだろう、と検討をつけた。
確かに、あの時ミーは思考が真っ白になり、言葉の理解ができなかった。
キムから説明を受けた後も、ウォーのあの瞳は、ずっとミーの心を抉って傷跡を残していた。
しかし、事情を聞いたという事は、おそらく、ミーがヘキサである事や、人間瞳状態では全くの『人間』の匂いがする事などを知ったのだろう。
ミーはあの誘拐されたメンバーの中で、唯一注射をされずになぜかヘキサになっており、本能もない。
実験をされる前に脱出したため、ヘキサアイズの事はほとんど知らなかったーーいや今でさえ、何も知らないと言っても過言ではないだろう。
そんな時にとられたあのウォーの態度は、確かにミーの心にトラウマを植え付けていた。
ゆっくりと、頭を撫でるキムの温度に勇気付けられて、ミーも真正面からウォーを見つめ返す。
笑おうとしてちょっと失敗したが、もう、気にしてません…、と返した。
ウォーはわずかに目を細めたが、もう一度「本当に申し訳ありませんでした」と言うと、すっと表情を真剣なものに変えた。
と、キムの手もミーの頭を離れていく。
それを残念に思いながら、ミーも気持ちを切り替えて、背筋を伸ばした。