・95・夢幻の紫
数秒、キムはミーに気がついていないかのように、ふるふると瞳を震わせた。
そして我に返ったように目を丸くすると、一瞬で瞳は薄い茶色に色を変える。
さらに、波が引くようにその表情は、いつもの微笑みを描いた。
……今のは、一体なに?とミーは呆然と思った。
まるで一瞬の幻のような。
目を見張って固まるミーに、キムは首を傾げて、
「……どう、かした?」
と、心底不思議そうに聞いてくる。
どうって……、と言葉が見つからないミーに、キムはそばにあったビニール袋を掴んで近寄ってくる。
「……これ」
と、差し出されたのは、昨日ミーが着ていた服で、あ、ありがとう、とミーはまごつきながらも言った。
そこでハッと固まり、そろそろと袋の中を探る。
そこにばっちりと肌着が入っていて、ミーの心は様々な感情が吹き荒れた。
主に羞恥心とか、羞恥心とか、羞恥心とか。
それを平然と渡してくるキムってどうなの?とか、いや、そもそもなんで洗ったんだろうとか、あぁでも、洗ってくれたんだよね……、などとごちゃまぜになった思考。
知らず赤面してきたミーの様子に何を言うでもなく、キムはミーを玄関へと導いた。
されるがままについていったミーだったが、扉を開けようとしたキムに、ちょ、ちょっと待って!と静止をかける。
どこに行くのかと尋ねたミーに、
「……ミーを、家に送ろう……と思ったんだけど…?」
至極当然のように返されて、あ、なるほど、と納得した。
確かにいつまでも人の家に邪魔しているわけにもいかない。
夜にはバイトがあるし、明日は普通に大学があるのだ。
それに借りた服も洗って返さないと、と新たに考え始めたミーを連れてキムは扉を抜け、鍵をかける。
アパート近くの駐車場でバイクに乗った二人は、ミーの家へと向かった。
◆◆◆
家に着いて、ミーは大学が休みだが、キムはいつも通り仕事があるため、キムとはすぐに別れると思っていた。
しかし、キムはバイクを道路の端に止めると、ミーの家に上がってきた。
仕事大丈夫なの?と聞けば、キムはわずかに黙った後、頷く。
それを不思議に思ったものの、ミーはそうなんだ、と受け入れてお茶の準備をする事にした。
さすがにココアではなく、あったかい麦茶を出す。
そして、そそくさとビニールに入っていた昨日の服を片付け、新しい服を用意すると、トイレに入って着替える。
着ていたキムの服を丁寧に畳んで、洗面所下にあるランドリーボックスにいれておいた。
トイレから出ると、キムはいつものクッションに座り、出されたマグカップに口をつけている。
ミーは今日二度目の驚きとともに、小さく息をのんだ。
まただ、と思う。
どこを見るでもなく、ただぼんやりと前方を向くキムの瞳が、あの儚い紫に染まっていた。
その様があまりにも静かで、息もしてないように見える。
急速に不安になって、ミーはキムに駆け寄った。
すぐ隣で膝をつき、顔に手を当てて覗き込む。
キムっ、と強く呼びかければ、焦点の会わない瞳が揺れて、ふいにピタリ、と目が合った。
その視線があまりにも強く、底のない透明さで、ミーは思わず身を引く。
そんなミーに、キムはゆっくりと目を細めると、ミーの手に自分の手を重ねた。
キム……?と、ポツリとミーが呟く。
キムはにっこりと美しい微笑を浮かべた後、ミーの左手の平に、音を立てて口づけた。
………………、ミーの思考は真っ白になった。
チュ、と軽ろやかな音が耳を通り抜け、手の平に触れた温かくて柔らかな感触が肘を伝い、背中を登って、全身に痺れが走る。
はっ…、と息が詰まり、ミーは目を見張った。
ーーーー甘い。
そんな言葉が、一つだけ脳裏に浮かびあがった。