・92・誓い
その明確な変化に、ミーは内心焦った。
以前、キムが心底怒った時も似たような表情になったからだ。
『人間』時のミーはキムにも判断がつかない、完全な人間の匂いを放つ。
かつ、ヘキサアイズは人間を食し、ミーは格別に美味な香りだった。
ミーを守り導いていたキムにとってもそれは同様で、ミーに対する食欲と理性の葛藤は、たぶん、キムが最も知られたくない事だったと思われる。
だからこそ、キムはミーにそのあたりに関する事を隠していた。
それをミー本人に真正面から言い当てられれば、確かにとてつもなく不快かもしれない。
で、でも、そんなに怒る事かなぁ……っ、とミーは慄く。
いつもの微笑みによって柔らかい印象を受けるが、元よりキムの美しさはどちらかと言えばシャープな輪郭によってなっている。
感情の浮かばないその顔は、いまや冷たい氷の彫像のどこき鋭さで、ミーを貫いていた。
思わずひくりと体が跳ね、じわりと涙が滲んでくる。
ミーだって何も考えずに言ったわけではないのだ。
キムの苦しみをどうにかしたくて、理解したくて、和らげたかったのだ。
その対象であるミーが受け入れる事で、キムの悩みがわずかでも解消されるなら、との思いからの発言だった、のだが。
「……………」
さながら時が止まったかのごとく。
しばし、両者は見つめあったまま、動きを見せなかった。
◆◆◆
先に耐えきれなくなったのは、 ミーだった。
……うっ、とわずかにうめき声をもらして、ついに涙腺が決壊した。
一気に視界が滲み、くしゃりと顔が歪む。
力の抜けた両手がキムの頬を滑り落ちてーーぐ、と熱い手に掴まれた。
ハッとして顔を上げるも、ぼやけた景色では色の違いさえ曖昧だ。
ふぅ……、と疲れたような吐息が聞こえた。
「…………ミー」
何かを抑え込むような、いつになく低いキムの声。
な、に、と問いかけるも、嗚咽に締まった喉は音を伴わず、掠れて消える。
「ミー……ヘキサ、に」
掴まれている手首に伝わる、キムの震え。
それがミーの胸を締めつける。
言葉の意味が分からず首を傾げれば、
「……ヘキサに、なって…ミー…っ…」
どこか切羽詰まった声音に、反射的に従った。
感覚的な変化がミーにはないため、ちゃんとヘキサになってるかなぁ……なってるはず、たぶん……、と心中不安になる。
「……ありがと」
わずかに柔らかくなったキムの声。
それにほっとしたものの、要求された理由が気になる。
瞬きを繰り返し、掴まれていない方の手で涙を拭う。
と、するりと手が離された。
そしてそっとミーの身体を持ち上げたキムは、ミーの下にあった足を抜き、立ち上がって距離をとった。
やっとはっきりした目で見上げれば、ほんとうに微かな笑みを刷いたキムが静かに見下ろしている。
その瞳は色素の薄い茶色で、その小さな事実にミーはひどく驚いた。
知らず目を見張ったミーが、無意識に口を開きかけて、しかし、キムの平坦な声が先に言葉を紡いだ。
「……オレが、ミーを食べることは……絶対に、ない」
ゆっくりと唇を結んで、ミーは真剣にキムを見つめる。
一語一句、聞き逃さないよう、耳を澄ませて。
「……ミーの甘さ、は…確かに、オレを惹きつける……けど」
ぎり、とキムは両手をきつく握りしめる。
「でも……どんなに、ミーがおいしそう、だとしても……
オレは絶対に、ミーを食べたりしない。
……オレは、ミーを守る…から」
ーー静かで、低く、強い決意のこもった声だった。
とうに涙は止まっていたのに、伝わってきた想いに、肌が粟立った。
再び潤んだ目を両手でおさえながら、……うん、と大きく一度、ミーは頷いた。