・91・雫
唐突に意識が浮上して初めに目に入ったのは、儚げな紫の光。
「……っ……」
かち合ったそれは一瞬大きく広がって、次の瞬間、その瞳はみるみる潤んだ。
「ミーっ……!!!」
がばり、と抱え込むように抱きついてきたキムに、状況が全く読めないミーは混乱した。
え、な、なに、どういうことっ?と。
驚きに硬直していれば、顔を上げたキムが額を合わせてくる。
至近距離でミーを見る紫は、雫に濡れ、今までにない強い感情をたたえているように見えた。
なぜか、ぞわりとした、鳥肌にも似た痺れがミーの身体の芯を走る。
はくはくと、急に息苦しくなって空気を吸い込もうと口が動き、ミーはキムから離れようとした。
と、そこで初めて、ミーは自分がどんな体勢にいるのか気づく。
どうやら、キムはあぐらをかいて座り、片膝を立てて、そこで仰向けのミーの背中を支え、さらに左腕でミーの頭を支えていたらしい。
それでさらに抱き込むようにしたため、二人はぴったりとくっついて、離れようにも離れられなかった。
さらに、ミーは自分の服装の変化にも気づく。
なぜか全身が濡れており、肌着の上に何枚かバスタオルを巻いた格好になっている。
いや、そもそも、自分はどこにいるのだろう、とミーは考える。
橙色の柔らかい光。
湿った空気にツルツルした素材の壁や床。
なんで、お風呂場……?とミーはひどく不思議に思った。
そんな数秒の思考に沈んだミーの頬を、優しく包む感触。
ハッとして視線を目の前に戻せば、音もなく涙を流すキムが、じっとミーを見つめていた。
胸の苦しさが増して、思わずミーは、……泣かないで、と言った。
ゆっくりと瞬いたキムの目元から、一粒、しっとりと雫がこぼれる。
それがキムをひどく儚く見せて、今にも壊れてしまいそうに見えた。
「……目を…………覚まさない、かと……」
震えた声で、かすかに言葉を出すキム。
促すように頷くと、
「……ミーが、血まみれで…。……いきなり、倒れ…たから……」
囁きのようなそれに、ミーの息苦しさは加速して、はぁ……と息がもれた。
ミーは左手でキムの頭を撫で、大丈夫だよ、と告げる。
何が大丈夫なのかも分からないし、なんの根拠もないが、だだキムを慰めたかった。
キムは目を閉じ、何かを堪えるようにしばし息を押し殺した。
そして次に瞼を開けると、身体を離し、あのいつもの柔らかな笑みを浮かべる。
それに合わせて、ミーも左手をおろした。
改めてキムを見れば、その服にはところどころ赤い色が滲み、そこはかとなく、"いい匂い"がした。
それを反射的に吸い込んで、瞬間、ミーの脳裏に目まぐるしく記憶が再生される。
ーーーーリリとの待ち合わせ。
リリがヘキサアイズであった事。
キムもそうである事。
ヘキサアイズが人を食べる事。
ミーは『人間』の香りがする故に、リリから狙われていた事。
血を啜られた事。
ミーもヘキサであると明かした事。
敵意を向けられたために、ミーもテールで応戦した事。
そして、最後にリリに噛みつかれーーそこで意識が途切れたのだ。
ミーは目を見張って、リリちゃんは!?と叫んだ。
なぜ自分はお風呂場にいて、なぜキムにこうされているのか。
その過程の記憶が全くない。
いつ公園から移動したのだろう。
いや、その前に、キムはいつ現れたのだろう。
リリはどうなっているのか。
ミーはリリのテールを切り落とし、左足も切り飛ばしていた。
あのような状態をもし普通の人間に見られたら、大事件になってしまう。
その場は血の海になっていた上、自分もかなりの血を被った。
あぁ、そっか、とミーは唐突に理解する。
キムが先ほど言っていた。
『……ミーが、血まみれで…。……いきなり、倒れ…たから……』
おそらく、ミーが意識を失う寸前くらいにキムは来たのだろう。
リリの事をどうしたのかは分からないが、ミーがお風呂場にいるのは、その血を流そうとしてくれたから、かもしれない。
服が脱がされ、バスタオルを巻かれているのも、そのためだろう。
「……あいつ……なら、もういないよ……」
わずかに嫌悪のこもった声音で、キムはそう教える。
どういうこと?とミーが問えば、
「……灰原に、通報した…。……誰かの、キープした……人間を…〈狩る〉、のは……規約違反……」
そして規約違反者は、《協会》が持つ警察のような組織に罰せられる、とキムは言った。
……そう、なんだ。とミーは目を伏せた。
確かにミーはリリに食べ物として狙われて、〈狩られ〉かけたのだろう。
その結果リリが罰を受けるのは、殺人未遂をして有罪になるのと同じだ。
とっさにそう考えたが、なんだかすっきりしないような、後味の悪い感覚を覚えた。
ミーが接したリリは、明るく少しシャイな女の子の姿が大半だった。
ヘキサとしての姿を目の当たりにしたのはほんのわずかな時間で、殺意を向けられても、ミーは悲しさしか感じなかった。
そんな人物がいきなり警察に捕まって、刑務所に入ったと聞いても、あまり現実感が湧かないのだ。
「……ごめんね」
ぽつりと落ちた言葉に、ミーは、え?と顔を上げた。
微笑みながらも眉が寄り、自嘲するような表情のキム。
「……オレが、守るって……言ったの、に…」
後悔の滲むそれに、ミーは一瞬考えて、慌てて首を横に振った。
キムが謝る事なんてない、あれは私の自業自得だから!と。
キムが言いたいのは、ミーがリリに血を吸われ、さらに襲われた事だろう。
再三のキムの注意があったにもかかわらず、リリに警戒する事もせず、今でさえリリに大した嫌悪も恐怖も感じない自分が悪いのだ、とミーは思う。
実際、血を啜るリリは怖かったが、自分を食べ物としてか見ていないのだ、と悟った瞬間、ミーは急速に冷静になった。
そういえば、それはいつもヘキサアイズである時で、それも自分の特異点なのかもしれない、とミーは頭の片隅で考える。
否定するミーに、しかし、キムはますます笑みを深める。
「……それでも、それは……オレ、が教えなかった…せい、だから……」
視線を落とすキムに、ミーも言葉に詰まる。
確かにミーは何も知らなかったし、何も分かっていなかった。
それを言ってしまえば、キムの責任になるのかもしれない。
でも、とミーは主張する。
キムは、私のためにそうしてくれたんでしょう?……ずっと、苦しんでたんでしょ……?と。
両手を伸ばし、キムの顔に添える。
おずおずと上げられた紫の瞳は、いまだ涙に潤んだまま。
「…… 違う。……オレ、が…」
言いかけたキムに首を振り、ミーは優しく笑う。
ーーキムは、私を食べたいんでしょ?
愕然と目を見張って、キムの顔から感情が抜け落ちた。