ボイル
……やっぱり君、何か知ってるんだね。
どうして隠すの?
そんなにやましいことがあるのかな?
妻はあからさまに言葉を選んでいる素振りを見せる。
話を逸らす気だ。
させないよ、何言われても、今日ばかりは――
「そうだ! ごはんにしようよ、今日は陽君の好きなオムライスなんだぁ! 」
「………オム…ライス…」
卵――僕は胃酸が込み上げてくるのを感じた。
圧倒的言葉の暴力を前に、僕はトイレへ駆け込むことを余儀なくされる。吐いて吐いて、吐きまくって。ようやく嘔吐感から解放された時にはもう、僕には何の力も残っていなかった。
「ごめん……僕、もう寝るよ……」
「あっ、うん……おやすみ」
分からないことがかえって増えた。
ストレスが増えた。
不安がどんどん膨れ上がっていく。
明日から卵はどうしようか……これ以上、卵にエサを与えるのはマズい。多分、次何か一つでも食べれば、この卵は孵化する。たまったもんじゃない、一体何が生まれてくるんだ 僕には対処できる気がしない……
とにかく、卵を守らないと……
絶対に、絶対に割れないように。
「陽君……それ、何? 」
「何って、【PROTEX】の精密機器輸送トランクFA-6Nだよ? 例の最強のキャリーには劣るかもだけど、30,450円とお値段もとってもリーズナブル。これで卵も安心だよ」
「ぜっ、全然リーズナブルじゃないよ!? どうして何も相――」
「うるさい!? 」
近くにあった花瓶が飛んだ。
手から血が出ていたけど、別にどうでもよかった。
「何それ。じゃあ沙耶は子供のチャイルドシートを買うのも渋るのかな? 子供の命よりも金なの? ……ああ、もう出勤時間だし行かなきゃ。それと、卵は今日から僕が毎日面倒見るから。沙耶は卵に触らないで。……行ってくる」
卵は凶器だ。
相手にぶつけるだけで、どんな証拠も残らない。そんな簡単に完全犯罪が行えてしまうほどの、凶器だ。そんなものを、自分以外の人間に持たせるなんて考えられない。
それに、沙耶の隠し事。
僕には何かわからないけど、もし沙耶が卵を孵化させる気で、僕の知らないところで最後の第一手を加えたらと思うと―― うかうかと仕事なんかしていられない。
卵は、僕が守るんだ。
誰にも触らせない。
「館主さん、今日飲みに行きませんか? 」
「おお! なんだ、陽くんから誘ってくれるなんてっ、俺って慕われてるー!」
「あはは、正にその通りですよ」
僕は沙耶にメールを送る。
『ごめん、上司が酒に付き合えってうるさいから、今日は晩ご飯いらない。先食べてて』
2日、4日…10日……
上司が友人になったりを繰り返し、僕は家に帰らない。ご飯なんか食べられないし、あの家で安眠なんて出来たもんじゃない。
魘されるんだ……あの鍵つきの机の中に、卵がびっしり埋まってる気がして仕方がないんだ…
もちろん、たまには家には帰る。
そしたら気まずい朝食が僕を待っている。
誰だ……朝食に卵焼きか目玉焼きを定番化させたのは。
「よ、陽くん……はい、これ。お弁当」
「……ありがとう、行ってきます」
その日のお弁当は、弁当と水筒の他に、もうひとつ筒が入っていた。蓋を開けると掻き玉汁。僕は100%嫌がらせだと思ってシンクに棄てた。
「どう? 今日のお弁当、喜んでくれた?」
「……ああ、清々しいほどの嫌味をありがとう」
妻は流石にやり過ぎたと思ったのか、弁当を作らなくなった。助かる。人目を盗んで棄てるのって、結構難しいんだ。
僕はそのまま酔いつぶれて眠る。
そして目を醒ました時、恐ろしいことが起こった。
卵が…また少し……大きくなってる……
体がガタガタ震えた。
限りなく黒に近い茶色。
ギリギリ境界線を越えなかった、そんな色。
僕は妻を張り倒した。
「……たまご…割ったの……? 」
「ごご…ごめんなさっ……」
「触るなって言っただろ!? どうして触った!? そんなにこの化物を孵化させたいのか!? 」
喉が裂けるまで叫ぶ。
僕は狼狽しながら、卵をトランクに入れ、作業着と財布だけ持って逃げるように家を出た。
その日の、ことだった。
いつも通り、12時を跨ぐ深夜の帰宅。
鍵の開いた家。
灯る光。
無音の部屋。
訝しげに眉を潜め、僕は家中を歩き回る。
生活感があるのに、誰もいない。
居間を通り過ぎ、キッチンを覗く。
そこには、異様な光景が広がっていた。
(……なんで、寸銅鍋がこんなに…)
寸銅鍋―― 最初僕が卵を茹でるのにも使った、鍋径と高さが同じサイズの鍋。茹でるのに100グラムあたり1リットルのお湯を必要とするパスタを作るのに、10リットルも入るソレは、大変重宝される。
……のだが。
その寸銅鍋が、キッチンに6つもある。
妻は、買ったのか?
こんなパスタ茹でるしか脳のない鍋を?
新たに5つも?
しかも、よく見ればコンセントをさせば使える簡易のIHも、3つも増えている。ちなみに、我が家の台所には既に、コンロは3つもついている。
一体何の為に……
鍋を覗き込むと、何も入っていない。
でも使用済みなのは分かる。
水が、沸騰した跡が残っている。
その時…
「なんだ、この臭い……」
鼻をツンと突く、腐臭がする。
風呂場から……?
風呂場……
浴槽……
湯……
うそだっ…… そんな、まさかっ…
僕は風呂場の戸を弾いた。
刹那に襲いかかる熱風。
外気との温度差に巻き起こる水蒸気が僕の視界を真っ白に覆い尽くし…… そして、僕の頭も真っ白になった。
水膨れだらけの、焼け爛れた何かの塊。
ソレを人と示すのは、あの真っ黒な髪だけで。
あの、真っ黒な…髪だけで……
「うっ、あ…あ、ささ、沙耶……」
この日、妻は自殺した。
万が一自殺するとしても、首を吊るとか、もっと楽な方法があったはずなのに…… わざわざ鍋を買い、電磁調理器を買い、熱湯を作り、その中に飛び込んで。
どうして……こんな…痛くて苦しい死に方を…
化物だと思っていた妻の、呆気ない死。
僕は、ゆるゆると崩れ落ちる。
そのまま視線を落とした先には、あの鍵つきの机の鍵が落ちていた。