妻の正体
――この卵さえ割れなけれは、僕たちは幸せなまんまなんだ…
フライパンが降り下ろされる。
勢いよく卵が割れる。
卵を掲げるようにして顔の盾に使っていた綿尾は、卵の白濁とした半透明な液体を全身に浴びる形で倒れ込んだ。
僕は目を見開く。
だって、卵の中には――僕が思っていたような化物は、入っていなかったから。
体が、カタカタと震える。
「……やってくれたじゃな~いねぇーっ? たーかーはーしーちゃあああああーん!? 」
体が、カタカタと震える。
「どうしてくれるのかしら、この顔中の火傷!? ねぇ知ってる?……女の顔に一生傷って慰謝料1000万円取れるのよ!? 」
体が、カタカタと震える。
「あっははははっ! アナタ人生お仕舞いね!? 刑務所を出ても一生ワタシに金を払い続けるの! それだけの人生! 職も失い嫁にも子供にも逃げられ、孤立した上に前科持ちの枷を嵌めながらろくな仕事にもありつけずに破滅するのよ! あははははっ、何ソレすごく面白い! ざまぁないわねこの根暗!? あははははは!! 」
この人は、本当に何も気がついていないのだろうか……
「……え 」
……その半透明な液体が、動いていることに。
「な…んん?! んんんんんんんん!? 」
液体は、まるで自分の意思を持ったかの様に綿尾の全身を覆い尽くしていく。あたかもシャボン玉の中にでもいるかのようになった綿尾。顔が、どんどん青紫色に変色する。
どうやら息ができてないみたいだ……掻いても掻いても出ることの出来ない水中の中で、空気を求めてもがき続けている。
そして。
「ぃあっ…あっ、アギェ…」
……溶かし、始め…た?
な…
なんだこれ。
なんだこれ。
なんだ……これ?!
目の前でどんどん液状化していく綿尾。
蝋人形のように肌色の汁を流した下から、真っ赤に爛れた筋繊維が剥き出しになっていく。
「あ…ああ……」
そうだ…人間の目玉は、球体だったんだ……
皮膚が溶ける
目蓋が無くなる。
剥き出しになった目玉は痛みのままにギョロギョロと動き回り、憎悪すらもがれた苦痛を顔中に張り付けながら僕をみてくる。
やめろよ…そんな目で僕を見るなよ……
だが願いはすぐに、叶う。
目玉も溶けた。
最後に残すのは、骨。
それすらも、卵は蹂躙し始める。
い、いやだ
僕も…僕も喰われるのか?
綿尾を溶かし終わったら、次は……つぎは、
僕 の 番 な の か ?
「うっ、ぅああ…ぅぁああああああッ!! 」
いいいやだ?!
あんな死に方絶対嫌だ!!
僕は真っ先に駆け出した。
駆け出そうとした。
待ち受けていたのは転倒。
腰が抜けて動かない。
僕は強引にコンクリートの上を泳ぐ。
体中が擦り傷だらけだ。
でも痛くない。
痛みなんて感じない。
僕は死に物狂いで厨房から這い出した。
――バタン!
「…はぁ、は、はっ……」
なんだ…なんなんだあれ?!
妻は一体何なんだ?!
今になって嘔吐した。
まだ安全な訳ではないのに、体はもう、動いてくれない。
僕はずるずると崩れ落ち、そのまま一時間が経過した。
徐々に冷静になるとともに、自分のやらかしたことの重大さに震え始める。
僕は綿尾の話を思い出す。
前科持ちなんてたまったもんじゃない。
せめて凶器のフライパンも洗わなきゃなきゃ…
でも……中に入っていいのか…?
……入らなきゃならない。
だって、明日もここは使うんだ。
掃除…しなきゃ……
僕は扉に耳を当てる。
厨房の中は、静かだ。
覚悟を決める。
僕はゴクリと喉をならすと、今一度、厨房の扉をゆっくり開く――
静かすぎて……気持ち悪い。
それは異常な光景だった。
床には、卵の液体も何も残っていない。
血の一滴すら見当たらず、まるで綿尾という人間が最初からいなかったかのように。
でも、綿尾は確かに、死んだんだ――
「……もう…いやだ…」
みつけた。
痕跡が、一つだけ…… 残っている。