平穏
……やっぱり、凝固していない。
僕は卵をくるくる回しながら、眉を顰めた。
人体の構成成分の70パーセントは水だ。
その次に多いのはタンパク質で、それも約15%を占める。確か、他の哺乳類も似たようなものだったはず。
タンパクは筋組織を始め、髪やら血液やらを作っているものだから、卵が何らかの生物であることはあり得ない。
うーん…… もしかして、中身はただの水なんじゃないかな?
少し、心の枷が軽くなる。
水なら――永遠に中身を見ずに済む。
ずっとずっと、彼女は僕の隣にいた。彼女が何だろうと、今更別れるなど考えられない。
あの日から一度も病院を勧めた事がないのだってそうだ。極端な話、卵を産む彼女が実験動物になったり、マスコミの格好の標的にされたりするのから守りたかったからに他ならない。
ただ、隣にいてくれればいい。
息子や娘は欲しかったけど、高望みはしない。
「ただいま陽君! 」
「あっ、お帰り沙耶」
絶対に孵らない卵を、二人で大切に大切に育てる。
約束された平穏を享受しながら、これからも平和に――
「あれっ、陽君…… 何か作ったの? 」
沙耶が、真っ直ぐにキッチンを見つめる。
「……いや、少し部屋に湿度が欲しかっただけさ。そろそろ冬も近づいてくるし、加湿器欲しいよね」
僕は卵を見つめたまま微笑む。
台所へと歩み出す沙耶。シンクに置きっぱなしにしていた大鍋をすすぐ、豪雨にも似た轟きが……そのまま僕の心音へと代わる。
「えーっ、そんなお金ないよぉ! 」
「……沙耶は本当にいい奥さんだな」
「何よう、ケチって言いたいの? 」
「ま、それもある」
「バカー! 」
僕は、アハハと笑う。
卵の中身を知りたくない。
彼女の中身を知りたくない。
万が一、それを知って――僕が受け入れられなかったなら。
それが本心だったのに、「彼女を守りたいから」と、無理矢理方向性をねじ曲げた。
そんな罪悪感を、必死で必死で覆い隠すように。
僕は安堵する。
だってほら……沙耶の顔は、いつも通り桜色だったから。
数日後。
「ねぇ、どうやったら孵るのかなぁ……」
「きっと焦りは禁物なんだよ。大きい卵なんだから、雛と違って時間がいるんだ」
「えーっ、でもなぁ……」
まずい。
このまま平和に現状維持作戦が、早くも瓦解しかかっている。焦った僕は、結構適当な事を言う。
なーに、どうせ孵りやしないんだ。
「確かさ、ホケットモンスターの卵は、常に持ち歩くことで孵るんだよね。肌身離さず一緒っていう」
「それだ! 」
「……え? 」
「ずっと一緒に居てあげるんだよ! 今日は私、明日は陽君! ね、交代ごうたい? いいでしょ? 」
けろっとした黒目で首を傾げる。一度も染めた事のない傷みの無い髪の毛が、雪原を下るようにサラサラと肩を滑る。その様はまさに、穏やかに押し寄せるさざ波。シャンプーの香りが優しく漂う。
……ああ、やっぱ可愛いよ沙耶。
「うん、じゃあ交代ね」
あっ、しまっ……
僕は顔を覆った。
なんてことだ。僕としたことが簡単に悩殺されてしまった。
早速、卵が割れないように、毛糸で卵の服を作り始める妻。もう止めろとは言えない。幸せそうな鼻歌がそれに更に拍車をかける。
会社に持っていく、のか? これを…?
……他人に見つかったら、どうなるだろう。
まさか妻が産んだとは誰も思わないだろうが、直径15センチ程の茶色の卵。説明の仕方が分からない。
うーん、流石に人の鞄を勝手に開ける人間は居やしないしなぁ。
大丈夫……だよな、たぶん。
たぶん。
……ダメだ、不安しか残らない。
僕は両手で頭を抱えた。
第一、あんな冗談を本気にするなんて、沙耶の危機管理能力はどうなっているんだろう。
内心、呆れながら。
それでも、幸せそうな鼻歌に耳を寄せ、緩やかに流れる幸せな時間に入り浸る。
――僕は、ちゃんと疑問に思ったのに。
ああ、その先を考えもしなかった。
僕が卵を茹でたように…… どんなに突拍子のない言動にも、必ず理由があることを。