プロローグ
それは、6か月も早い陣痛だった。
一目には太っている為か、妊娠している為か分からない程度の腹の膨らみ。子供が出来たことは、まだ誰にも何も言っていない最中の出来事。
二人暮らしの静かなアパートに、鳥を絞めたように窮屈な叫びが糸を引く。
――救急車を呼ばなければ。
恐らく、胎児はまだ形を成していないだろう。
それでも関係ない。
このままでは、妻まで死んでしまうかもしれない。
僕が見たものは、その当然の思考をも分かつ。
一際痛烈な悲鳴が部屋にある全てのものを震わせた。
力尽きた妻が動かなくなる。
徐々に面積を広げていく羊水。その中に、
「た……たまご…? 」
大きさにして、大の大人のこぶし2つ分くらいの卵。
茶色い殻のソレが、物言わず転がっていた。
(……これは、どこから…?)
唖然と口を開けて呆ける僕。
でもすぐに、妻の弱々しい息づかいが僕を現実に引き戻す。
羽毛のように柔らかな妻の長い黒髪が、死にかけの雛を彷彿とさせるほどに汗で濡れていた。
頭の中が一気に熱を持って弾け飛ぶ。
僕はスリッパを脱ぎ捨て、そこらじゅうの角に足をぶつけながら洗面所に飛び込んだ。タオルを強奪するように収納棚から引き抜き、水で素早く濡らし、そして投げつけるようにレンジに放りこんで温タオルを作る。
僕はベッドの中で気を失う彼女に、いつまでも声をかけ続けていた。
内心泣きそうだった。
或いはもう泣いていたかもしれない。
妻のか細い寝息は、冷蔵庫等の家電製品の唸りにすら負けてしまっていたから。僕は本当に、病院に連れていきたくて仕方がなかった。
だけど。
眉間に皺が寄る。
そのときやっと、僕はずっとほったらかしだったソレを、まじまじと見つめたんだ。
卵……だなぁ、うん。どうみても卵だ。
「沙耶……大丈夫? 」
「う、うん……」
意識を取り戻した妻が、ゆっくりと上体を起こした。僕は不安から解放された安堵に、彼女の手を握り微笑む。
でも、彼女は僕を見てくれなかった。
妻は卵を凝視している。それも決して顔は動かすことなく、大きな黒目だけを忙しなく泳がして。
顔色が真っ青なのは、疲労のせいだろうか。
それとも――
「……人間って、卵生だったんだね。知らなかったよ」
「うっ、うん……私も、知らなかった……」
……。
「とりあえず、温めてみる? 」
「うん」
彼女の顔に花が咲いた。
微かに抱いた疑問と違和感。
僕は自らそれを伏せる。
そうして僕達は、卵を温めてみることにした。