オレンジ色の夢
ここはどこだろう。
ミルク色の、天も地もない空間。ぼくは逆さまなのか、横向きなのかさえ分からない。何かを踏みしめている感覚はあるのだけれど。
ひたひた。誰かが近付いてくる。
ひたひた。誰だろう。
ひたひた。オレンジ色がぼくの方に伸びてくる。これは影だろうか?
ひた。足が見えた。象牙のようにつるりとした細い足が。桜貝のような足の爪が可愛らしい。オレンジ色の影が、その足と繋がっていた。
影が形作るのは、長い髪の女の子。ふわふわの髪の毛が揺れ、膨らんだスカートが弾む。顔が見たくて、足の上を見ようとした。だけど視線がどうしても上がらない。どうしてだろう。
「うふふ」
女の子は笑った。
――君は誰?
女の子の影は後ろ手に手を組み、左右に体を揺らした。
「あたしはれんげ。さっきそう言ったじゃない」
女の子は不満そうだ。
――れんげ?
「そう。れんげ。忘れたの?」
女の子の声は少し不機嫌になった。
――えーと、何となく覚えてるよ。れんげ、れんげ……。
「あなたって、何様よ」
女の子はついに怒った。ぼくはうろたえる。
――何様だなんて……。だって今日は忙しかったんだ。いろんなことが起こってさ。いろんなみつばちに出会ってさ。
「だから?」
白い足はパタパタ床を叩いた。オレンジ色の影は、片手を腰に当てていて、手と腰に巻き付いた大きなリボンの影は一つに合わさっていた。
――だからさ、いろんなみつばちに会ったもんだから、きみがどのみつばちなんだか思い出せなくて。
白い足がどん、と踏み下ろされた。
「あたしがみつばちに見えるわけ?」
そういえば、女の子は人間の形をしていた。それも、極めて美しい形の女の。今まで見たこともないくらい細くて、髪の毛が柔らかな。
――人間だ。ごめん。何でだろう。ぼく、今頭がぼんやりしてて。
「うふふ。そうね。だってこれは夢だもの」
女の子の機嫌は元に戻った。ぼくはほっとした。
――夢なんだ。道理で……。
ありとあらゆる状況が不可思議で、夢でなければ説明がつかなかった。
――でもさ、夢ならきみだって現実にはいない人なんじゃないの?
どん。また女の子は足を踏み鳴らした。
「あたしはいるわ。ただあなたの夢の中にやってきただけ。だってさっき呼んだのに、あなた来てくれなかったから」
――さっき?
「さっき!」
女の子はまたどん、とやった。するとふっと感覚が体に蘇った。冷たい空気、巨大なものの群れ、よそよそしい無人の部屋。
――はちみつ酒貯蔵室。
「うふふ」
女の子の声はまた元に戻った。とんでもなく気分屋だ。
――ぼくの他にも人間はいたんだね。何をしてるの? この潜水艦で。
「明日、会いに来て」
女の子は質問を無視して命令口調で言った。ぼくの目の下にあるオレンジ色の影は、威張ったように腕を組んでいる。好きなタイプの女の子じゃないな。嫌いなわけじゃないけどさ。それに、とてもきれいな形の女の子だけどさ。
「明日、来て」
女の子はまた言った。
――ええと、いいよ。どこで?
「もちろん、あの場所に決まってるじゃない。はちみつ酒貯蔵室で待ってる」
――分かった。明日、一緒に遊ぼう。
「おしゃべりするのよ。あたし暇なの。絶対来てね」
女の子は思いきり念を押した。ぼくは頷いた。断ったら怖そうだったから。
ミルク色の霧が晴れてきた。辺りはだんだん暗くなってくる。ざらついた何かがぼくの手に触れる。体が痛い。
「朝が来たわ。もう夢はおしまい。じゃあね」
女の子は急に足の向きを変えてさっさと行ってしまった。オレンジ色のかわいらしい影がそれに従う。ミルク色の霧は女の子を追って、ぼくを暗闇に置いて行く。
「起きろ」
突然ドスの効いた低い声が頭にガンガンと響き出した。驚いて辺りを見回すと――。
「朝飯だ」
ぼくがうずくまる穴を覗いているのはブギーで、起きがけだとは思えないほど爽やかに笑っていた。ここはぼくの巣穴だった。昨日ここで眠ったんだっけ。
「お、すすきの綱をつけたんだな。しっかり出来てるよ」
――手伝ってもらったんだ、隣のみつばちに……。
「おう、あいつか」
――ねえブギー。
「何だ?」
ぼくはちくちくするすすきの綱に手をかけ、力の入らない腕に気合いを入れながら登り始めた。朝登るのは辛い。ブギーはよろよろと出口に手をかけたぼくを引っ張りあげてくれた。
――ぼくの他に人間はいるの?
「いねえよ。何でそんなこと言うんだ?」
ぼくは黙りこんだ。じゃああれはただの夢だったのか? でも、それじゃあ昨日はちみつ酒貯蔵室で聞いた声は何だったんだろう。ぼくはぼんやりと考え込みながら、ブギーの背中に乗って、昨日と同じような食事どきの喧騒に飛込んでいった。