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みつばち潜水艦  作者: 酒田青
みつばち潜水艦ってこんなところ
3/8

みつばち潜水艦

「すまないね。まさかこんなことになっちまうとは」

 アルトの声が諦めの感情ををおびて響きわたる。大きな大きな女王蜂は、ぼくをじっと見つめる。ブギーはがちがちに緊張してぼくの後ろに控えている。ぼくは今、女王の部屋にいる。

 パーティーが催された荒っぽいでこぼこだらけの大ホールとは違って、女王の部屋はどこもかしこもきれいに整っている。女王にも十分すぎるくらい広い六角形の部屋には、やはり金色のきらめきが満ちていた。六枚の壁の一つ一つの上部に窪みがあり、そこには女王の王冠と同じ飴色の透明な瓶がおかれていて、光はその中の液体から発している。床も壁も金色で、飴色の巨大な書き物机や、壁に彫り込まれた棚にある酒瓶や本や珍妙なものが目につく。奥には六角形の穴が一つ空いている。何に使うのだろうか。とにかく全てが不思議な部屋だ。

 ――ぼくは途方に暮れています。女王様、ぼくはおばあさんに自分で何とかしろ、と言われました。しかし何をすればいいのか分からないのです。

「ふーん、そうだね」

 女王は溜め息をつく。ぼくらは同じ床の上にいる。みつばちの世界には椅子がないらしい。ぼくは足が疲れてきたんだけれど、我慢だ。

「じ、女王様。一言よろしいでしょうか」

 ブギーが震え声でしゃべった。

「うん、何だい?」

「こ、こいつが戻る方法はありません。しかしおれは、これからの旅の中で、それを見付けることが出来るかもしれないと思うんです」

「わたしもそれを考えていた」

 ブギーが話し終えてすぐに、女王はゆっくりと言った。

「こっちが悪いんだ。責任をとって、みつばち潜水艦に住まわせてやって、元に戻る方法を見付けてやるのもいいと思ってはいるんだよ」

 ――本当ですか。

 ぼくは嬉しくなって女王に抱きつきたくなった。

「だけどねえ」

 ――え?

「あんたは飛べないだろう。だから鑑内では生活していけないんじゃないかと思うんだ」

 ――ああ……。

 ぼくはまたがっくりとうなだれた。するとブギーがずい、と身を乗り出す。

「いや、女王様。おれが面倒見ますよ」

 ――え?

「あんたがかい?」

「ええ。おれは力があるからこいつを担ぐことなんか何でもねえ。それにおれはこいつを気に入ってるんです。力になってやりたいんだ」

 ブギー、ぼくは君のことが一番好きだ。無論ぼくはこんなこと口に出して言わない。心の中で思っただけだ。だって恥ずかしいから。だけど本当に嬉しかった。

「良かった。じゃあ、あんたをこのみつばち潜水艦に乗せることにしよう」

 女王が優雅に微笑んだ。みつばちに表情があるもんか、と思うなら間違いだ。この女王も、ブギーも、確かに微笑んでいる。

「あんたはお客様だ。のんびり構えてていいよ。たまに暇の空いたみつばちの話し相手になってくれればそれでいい」

 ――ぼくは仕事をしなくていいのですか?

「ああ、ゆっくりしな。飛べないあんたには出来ることは少ない。みつばち潜水艦の中をうろうろして、わたし達があんたを大きくする何かを待っていればいいよ」

 素敵だ。とぼくは思った。何もしなくていいなんて。宿題も、おばあさんの手伝いも、何もしなくていいなんて。

「それじゃあ、改めて挨拶しよう」

 女王が首を少し傾けた。

「わたしはこのみつばち潜水艦の艦長だ。私の部下のみつばちたちは私に絶対服従」

 ブギーがははーっと床にひれ伏す。

「みつばちにも色んな奴がいるし、色んな役職を持ってる。そこにいるブギーは鑑内整備係だ」

 ブギーがぼくに笑いかける。艦内整備って、何をするのだろう。

「あんたが会った、ブーンは新米みつばちだから雑用だ。ブカニロフは燃料大臣」

 みつばちの潜水艦にも燃料がいるのだろうか。

「仲良くしてやってくれ。わたしとも、気軽に話しに来い。あんたはお客だからね」

 ――ありがとうございます。

「部屋はどこがいいかねえ」

 女王は考え込む。

「おれと同室でいいでしょう。一つ穴が空いてるし」

 ブギーが元気よく身を乗り出す。穴?

「もっと上等の部屋が良かないか?」

 ――いえ、ぼくはブギーと一緒がいいです。

「そうかい。ならそうしよう。ブギー、案内は頼むよ」

「はい!」

 ブギーの返事をしおに、ぼくらの会談は終わった。女王が手をふり、ぼくとブギーは女王におじぎをした。

「乗れ」

 ブギーがぼくを背中に乗せてくれる。ブイイイン。ぼくらは女王の部屋の大きな六角形の扉をガッポンと押し開けて、大ホールに飛び出した。

 金色の巨大穴蔵には何匹かのみつばちが忙しくとびかっている。床にある光る井戸の周りにはブカニロフと見知らぬみつばち。ブカニロフがすまなそうな顔でぼくにおじぎをする。

 ぼくはホールを上昇していく。金色の、六角形のドアが無数に取りつけられた壁を見て思った。ああ、ぼくはみつばち潜水艦の一員になったんだ、と。

 ブイイインとブギーは急旋回して、ホールの壁の真ん中辺りに突進した。感慨に浸っていたぼくはブギーの背中から落ちそうになり、夢の中から連れ戻される。

 ガッコン。

 壁にぶつかったかのように錯覚して驚いた。だけどそうじゃなかった。ぼくらは金色の壁にある、少し大きめの六角形のドアをつき抜けたのだ。ドアの内側を見て驚いた。だって、そこは女王の部屋ほどではないけれど広い部屋で、ああ、いやいやそこは重要じゃない。そこは壁も天井も床も、みつばちの巣の穴だらけだった。ほら、テレビや本でみつばちの巣を見たとき、六角形の小さな穴が行儀よく並んでいて、その中にさなぎがいたり、はちみつが蓄えられていたりするだろう? あの穴が、無限と言ってもいいくらいにずらりと並んでいるんだ。床にもだ。信じられない。床まで穴だらけならどうやって歩くんだろう、と思ったけれど、すぐ気付いた。みつばちは飛ぶんだった。ぼくはブギーに言おうとしたことをやめた。馬鹿にされたらたまらない。

「よう、ここがお前の新しい部屋だよ。大部屋だけど気にすんな。すぐ慣れる」

 ブギーが振り向いてにかっと笑った。大部屋って、まさかここが寝室だって言うんだろうか? ぼくは多分怪訝な顔をしていたと思う。

「お前は下の穴がいいな。落っこちたら大変だもんな」

 ブギーがブイインと下に降りた。この部屋の入り口は、壁の真ん中についていた。

「ここにしな」

 ブギーは壁寄りの床にある、一つの穴を指差した。それがまあ、見事ながらんどうだ。それに底が見えない。おまけに隣の穴との間にある壁の薄いことといったら。

「少し降りたら広いところに出る。そこで寝るんだ」

 ――どうやって降りるの?

「這って降りるのさ。簡単だろ?」

 ブギーは平気な顔だ。どうもはちみつ潜水艦でのぼくの睡眠生活は前途多難なようだ。こんな固そうな縦穴で、どうやって眠るっていうんだろう。しかも大部屋も大部屋、何百匹のみつばちと一緒に眠るわけで。

 女王はもっといい部屋を、と言っていた。承諾すれば良かったなあ。ぼくはちょっと後悔した。

 でもまあいいや。どうにかなるさ。住めば都っていうし。

 深く悩まないのはぼくのいいところだ。ぼくはブギーに笑いかけて、

 ――気に入ったよ。

 と言った。そしたらブギーも笑った。うん。多分大丈夫だ。

「今はしんとしてるけどな、夕食が済む頃にはすげえ騒がしくなるぜ」

 ブギーはそのままの笑顔で言った。ぼくの笑顔は凍りつく。

「おっと、俺もそろそろ仕事に戻らねえと。お前どうする? ここにいるか?」

 ――ホールの床に連れてってくれないかな。ここだと何もしようがないよ。

 ぼくは道も階段もない部屋を見渡した。

「分かった。じゃあそのまま掴まってな。連れてってやるから」

 ブギーはブイインと部屋を飛び出す。金の床には、前にも言ったとおり光る液体の入った井戸がある。ぼくはそれがずっと気になっていた。忙しく飛び交うみつばちたちの中をブギーはブンブンと通り抜け、静かに床に降り立つ。床にはブカニロフがまだいた。部下に何か指示をしている。

「じゃあな。俺は仕事に行く」

 ――ありがとう、ブギー。手間をかけさせてごめん。

「いいんだよ。ま、好きに遊んでろよ」

 ブギーはそれだけ言うと、ぱっと飛び立ち、あっと言うまに見えないほど上の方へと行ってしまった。

 ブギーが見えなくなると、ぼくはまずあてどもなく床をコツコツと歩いた。どうもみつばちは床というものに気を使わないようだ。でこぼこしていて、けばがあって、歩きにくい。床を確認すると、ぼくは転ばないように注意しながらブカニロフと井戸の方へと向かう。

 ブカニロフは忙しそうだった。周りを囲む三匹のみつばちに何か細かい命令を出している。ぼくはブカニロフに話しかけたかったが、ぼくにだって常識はあるから、忙しいブカニロフを遠くから見て見ないふりをしていた。

「それではお主らは光はちみつと、熱はちみつの製造を絶やさずするのだ。そしてお主は機関室の燃料穴とこの光り穴にはちみつを絶やさないようにするように。決して二つを間違えてはならんぞ」

 ブカニロフは威厳たっぷりにしゃべっている。もう酔いはすっかり覚めたようだ。部下たちは、はい! と答えると、別々に飛んで行った。ブカニロフだけが井戸というか、光り穴をじっと眺めている。

「この量ならあと一ヶ月は持つな。問題は熱はちみつだ。製造が間に合うかどうか……」

 ブカニロフは独り言を言っている。

「おや、お主は」

 ブカニロフはぼくに気が付いて、こっちを見た。ぼくは礼儀正しくおじぎをした。

 ――お忙しいのでしょう。ぼくに構わず、どうぞお仕事を続けてください。

「いやいや、お主にはすまんことをした。詫びねばならん」

 ――いえ。構いませんよ。

「そんなことはないだろう。聞くところによるとお主、家を追い出されたそうではないか。それでこのみつばち潜水艦に乗って、大きくなる方法を探しているとか」

 ――まあ、そうです。でも大して気にしていません。

「本当に、すまん」

 ――謝らないで下さい。本当にぼくは気にしていないのです。

「いやいや」

 ――いや、だから……。

 何度許してもブカニロフは謝るのをやめそうになかった。大人がよくやるやつだ。ぼくは少し困ってしまった。大人っていうのはよくこういう果てしない「ごめんなさい」と「ありがとう」をやり続けるけれど、相手がもういいよって言ったらやめてもいいもんだとぼくは思うんだ。ブカニロフももっといい加減になってもいいと思うんだけどなあ。

 そんなとき、急に後ろでガッポンという大きな音が鳴った。振り向いたら、そこにいるのは女王ばち。ぼくはちょっと驚いてしまった。女王のあの巨大さと立派さには慣れようにも慣れようがない。

「ブカニロフ」

 女王が優雅な声で重臣を呼んだ。ブカニロフはしゃきんと背中を伸ばす。

「熱はちみつの準備はどうだい?」

 ブカニロフは答える。

「準備万端でございます、女王様」

「それでは」

 女王はいきなり声を張り上げた。

「みつばち潜水艦はもう準備万端だ。野郎共、出航だ!」

 上空のみつばちたちがブンブン声で雄叫びを上げた。ホールにはいないみつばちたちも、壁越しに雄叫びを上げた。船が、ガコンと揺れる。ぼくはよろめいて、尻餅をつく。

「大丈夫かね」

 ブカニロフが手を貸して立たせてくれる。ぼくはお礼を言う。みつばち潜水艦が、段々斜めになっていく。体が上へ上へと引っ張られるような気がする。慣性の法則だ。みつばち潜水艦は下に向かって進んでいるのだ。

 ――これは一体……。

「土に潜るのさ」

 女王は当たり前のように答えた。

 ――土!

「そうさ。まず土に潜り、それから海を目指すんだ」

 ――へえ。

 ぼくは感心した。それに、潜水艦の傾斜は次第に元に戻ってきた。進む方向が決まったんだろう。

「なあ人間。みつばち潜水艦の旅は過酷だよ」

 女王がぼくを見下ろしてにやりと笑った。

「どんな気分だ? 怖いか?」

 ――うーん、楽しみです。

 ぼくはちょっと考えて、そう答えた。ブカニロフは目を丸くする。女王は大きな声でアッハッハ、と笑った。

「あんたはいい乗組員になれるよ。ただ飛べないから残念だね」

 女王はぼくに顔を寄せた。ぼくは女王ににっこり笑いかける。

「みつばち潜水艦の旅は、あんたが期待するとおり楽しいものになると断言してやるよ」

 女王はぼくの頭に大きな固い手を載せた。

 潜水艦はがたがたと一定の方向に進み始めていた。上のほうにいくつか並ぶ、大きな丸い窓を見ると、茶色や黒の土が、窓に直にすりつけられて流れていくのが見える。

 ――本当に土の中を泳いでる。

「見事なもんだろ。土の中なのに、もう揺れないんだよ」

 女王が誇らしげに笑う。確かにそうだ。さっきからとまった地面に立っているような気分だ。みつばち潜水艦はそれでも進み続けているのだけれど。

 ――ハイテクだなあ。人間の技術じゃ、水陸両用マシンはここまで進歩してないのに。

「人間の潜水艦はどうなのかよく知らないが、みつばち潜水艦はただ頑丈なだけだよ。それに乗組員たちが真面目で、働き者なのさ。それだけだ」

 女王は微笑んだ。

 ――そうなんだ。みつばちってすごいな。

「私の部下たちは優秀だ」

 ――本当に。

 ぼくの背中を誰かがつんつんとつついていた。振り向くと、ブカニロフ。

「お主、女王様に対しては礼儀正しく話せ!」

 女王に聞こえないよう、ひそひそと言う。ぼくはぎくりとした。と、そこに穏やかな声が割り込んできた。

「いいんだよ、ブカニロフ。そいつはお客さんなんだから、私との立場の違いなんてないんだ」

 女王は全部聞こえていたようだ。ぼくの頭をポンと叩いて、

「お前も私に気軽に話しかけなよ。私はお前が気に入った」

 と言ってくれた。ぼくは女王がますます好きになった。

「では私は艦長室に行くよ。ブカニロフ、熱はちみつを絶やさないように」

 はっ! とブカニロフが言うと、女王は大きな羽を広げて、ブオオオンと重そうな体を持ち上げて飛んだ。風圧が凄まじい。女王は、呆気にとられたぼくを残して、少し上にある大きなドアをガッコンと押して入っていった。

 ――女王ばちも飛ぶんだなあ。

 ぼくが感心していると、ブカニロフが無礼だぞ! と叱る。どうもブカニロフは義理や年功序列や階級なんかに囚われやすいタイプみたいだ。

 ――もう少し、気軽にやらせてほしいのですが。

「駄目だ。女王様は絶対権力。対等など、我々一般みつばちとはありえないのだ」

 ブカニロフが胸を張る。

 ――ぼくはみつばちじゃありません。

「そんなことは知らんよ」

 理不尽だ。

「あー、しかしお主、どうしても女王様と親しい言葉で話すのなら、わしともそういう話し方になさい。仕方ない」

 ブカニロフはむすっとした顔でそういうと、ぷいっと最下層にある六角型の扉の一つに入っていった。熱はちみつの準備をしなければならないらしい。

 なんだ。ブカニロフは結構話が分かるんだな。でも、ああ、暇になってしまった。みつばちたちは皆忙しそうだっていうのに。

 頭上は働くみつばちの羽音に満ちている。びゅんびゅん飛び、ブンブンと音を立てる。みつばちは働き者だ。天井に張り付いてずっと何かをやっているみつばちが何匹かいる。何をしているのか気になってじっとみていたら、天井近くの一匹がブギーだということに気付いた。

 ――おおい、ブギー。

 ぼくは目一杯というわけではないけれど、腹から出したよく響く声でブギーに呼び掛ける。声はかき消された。仕方がない。ぼくは床。ブギーははるか高い天井。それにブンブン声が間に挟まる。聞こえるはずがない。

 ブカニロフのところにでも行こうかな。熱はちみつとか光はちみつとか、何だか面白そうな言葉が飛び交っていた。何だろうなあ、熱はちみつって。だいたい想像はついている。熱と光。これってぼくの人間生活でも必要なものだから。だけどはちみつとはどういうことなんだろう。

 ぼくはきんきら光る光り穴を迂回して、ブカニロフが入っていった扉に向かって歩く。

「あれっ。こんにちは!」

 金色の扉に手をかけようとしたとき、少し離れたところから不意に甲高い声が聞こえた。そっちに首を回すと、扉の一つからブーンが顔を出して手を振っている。

 ――こんにちは、ブーン。

「わあっ、嬉しいな。私の名前をちゃんと覚えていてくれてるなんて。始めにちょっと自己紹介しただけなのに」

 ブーンは何か光る大きな荷物を持って、扉の陰からふらふら出て来る。

 ――きみのこと、忘れようにも忘れられないと思うけどね。

 ニヤニヤ笑った僕がそう言うと、ブーンは物を抱えていたはずの両手で顔を隠して小さな悲鳴を上げた。ということは。どんがらがっしゃんと派手な音がして、ブーンの持っていた荷物は落ちてしまった。

 ――ごめんごめん。冗談だよ。ぼくは小さくなったこと、ちっとも後悔してない。それより、何の荷物なの?

 ブーンはあわあわと体中で動揺し、はいつくばって落ちた荷物を拾い始める。

「私ときたら、本当におっちょこちょい。どうしようもありません」

 ブーンは心底落ち込んだようだ。悪いことをしてしまったな。

 ――ごめん。きみを落ち込ませるなんて思わなくて。

 ぼくはブーンを手伝った。何だかこの落ちている物体は、人間の使う哺乳瓶に似ているような気がする。中には黄色い液体が満タンに入っている。

 ――赤ちゃんがいるの?

 ぼくがそう尋ねたとたん、ブーンの顔はぱあっと明るくなった。

「そうなんです! 女王様の初めてのお子様がたで、とっても可愛いんですよ」

 ――へえ、会ってみたいな。

「会わせて差し上げます。本当に、とってもかわいいんです」

 ブーンは最後の哺乳瓶を拾い上げると、わたわた走り始めた。

 ――ちょっと待って。ぼく、飛べないよ。

「大丈夫。育児室は際下層にもあります」

 ブーンは満タンの哺乳瓶を重そうに抱えて走った。ぼくもいくつか持って走る。

「育児室はいくつかあるんですが、女王様のお部屋がある最下層の育児室のお子様がたは特別なんです」

 ――特別?

「着いたら教えます」

 ぼくらは六角形のホールの上をグルッと回って、ブカニロフが入った部屋の納まった壁から二面分走った。上の方に空いた丸い窓は、黒い土、茶色い土を次々に写し出す。このみつばち潜水艦は見えない動力でどんどん進んでいる。上や、壁の扉の向こうにある部屋で働いているみつばちたちは、その為に、ぼくにはよく分からないような色んな仕事をしているのだ。何だか信じられないような気がするなあ。

 ぼんやり走っているうちに、ぼくらは女王の部屋の大きな扉がある面、その手前にある扉の前にたどり着いた。

 ――きれいな扉だね。

「何たって特別室だから」

 扉は他の殺風景な扉と違い、細かい細工が施されている。みつばち的な見方をした花だと思う。くねくねとした変わった模様が彫りこまれていた。よく見ると、周りには一回り大きい切れ目がある。多分女王が中に入るための大きな扉になっているんだ。

「これ、ブギーさんが彫られたんですよ」

 ――へえ。ブギーってこういうことをやってるの。

「ブギーさんは整備係ですよ。こうやって飾りの彫り物をしたり、壁をはちみつで塗って金色に光らせたり、みつばち潜水艦の内装に関わることなら何でもやってるんです」

 ――じゃ、あれは壁を塗ってるの?

 ぼくが指差す天井に張り付いたブギーを見上げて、ブーンはうなずいた。

「そうですよ。手元をようく見てください」

 ブギーの右手は何度も何度も壁の一ヶ所を行ったり来たりしていた。その他の五本の手足にはバケツのようなものが持たれている。

「はちみつを塗って壁を輝かせるんです。毎日やるんです。大変ですよ」

 ブギーは一心に壁を塗っていた。その六角形の天井だけが、キラキラと輝いていた。光り穴の光が天井にそれほど多く届くはずがないのに、ブギーの天井はおじさんみつばちが塗る壁の1面よりも光を反射しているように見えた。

 ――ブギーってすごいね。

「そうですね。すごく強いし、心も強いんです。憧れます」

 どうやらブーンはブギーを尊敬しているらしい。目がキラキラと輝いている。

「わたしは見習いみつばちでまだ専門職は決まっていないんですけど、ブギーさんと同じ担当の仕事は無理だなあ」

 ブーンは笑った。

 ――じゃあ何になりたいの。

「育児係! この哺乳瓶を運ぶだけでも私は楽しいんです。赤ちゃんが、とってもとっても可愛いんですよ」

 ――きみは赤ちゃんが大好きなんだね。

「ええ。白くて、ぷにぷにしていて」

「ブーン!」

 急に扉が開いた。ぼくらは面食らってそっちを見る。

「扉の前でぺちゃくちゃぺちゃくちゃ……。赤ちゃんたちがお腹をすかしてるっていうのに!」

 出てきたのはどっしりとしたおばさんみつばちだった。小さいのに太っていて、貫禄がある。

「ごめんなさい、ビイギイさん!」

 ブーンがぺこぺこと頭を下げた。手に持った哺乳瓶がかちゃかちゃ鳴る。

「さあさあ、赤ちゃんたちにはちみつとローヤルゼリーを飲ませてあげましょう。あら、お客さん」

 ビイギイはぼくを困った顔で見た。ブーンはにっこり笑う。

「人間のお客様なら大丈夫でしょう?」

 ビイギイはしばらく考え込んだ。やがて小さくうなずく。

「そうね。どうぞ入って。どうせなら赤ちゃんたちにはちみつをあげるのを手伝ってよ」

 ビイギイはぼくに笑いかけた。お母さんみたいな、柔らかい笑顔だ。この人のことも、ぼくはいっぺんで好きになった。本当に、みつばちはすてきなひとが多い。

 扉をくぐると、赤ちゃんの部屋らしい乳白色の壁が目に飛び込んできた。みつばち潜水艦はどこもかしこも金色だから、変な感じだ。赤ちゃんたちは部屋の中央から盛り上がった丘の中にいるらしかった。ぶうぶうと、赤ちゃんらしいわめき声が聞こえる。

「お待たせ、赤ちゃんたち!」

 ビイギイは哺乳瓶を二、三本僕から受け取り、丘を登った。ぼくも上る。そこは僕の寝室同様六角形の穴が無数に隣り合って、それぞれベッドになっている。白いものがもぞもぞ動いている。ぼくは目を丸くしてそれを見た。

「この子たちが赤ちゃんですよ!」

 ブーンがにこにこと自分の哺乳瓶を白い赤ちゃんの口元に差し出した。柔らかそうな口は、すぐさま哺乳瓶の乳首に吸い付く。みつばちの赤ちゃんは人間にとっての赤ちゃんのイメージを軽く覆す存在だな、とぼくは思ったもんだ。何て大きな赤ちゃんだろう。赤ちゃんはばぶばぶと何も出来ない乳児らしく振る舞うが、ひとりひとりが大きいことこの上ない。もしかして大人のみつばちよりも大きいかもしれない。

 でも、柔らかな白い幼虫は、確かにとても可愛いとぼくは思った。ぷにぷにしている。ぼくは手近な赤ちゃんのひとりのほっぺのあたりをつついた。赤ちゃんは金色のベッドの中からつぶらな黒い瞳でぼくを見返し、足のような無数の突起をごにょごにょ動かして哺乳瓶を欲しがった。ぼくは赤ちゃんに、ぼくの腕に最後に残った哺乳瓶をつきだした。赤ちゃんはにっこりと笑って、黄色い液体を飲み始める。

 骨や軟骨なんてないんだろうなあ。むにゃむにゃと口元が動く。ぼくは赤ちゃんを触った。冷たい。だけど柔らかくて気持いい。何かに似ているなあ、と思ったら、白パンだ。この赤ちゃんは、時々おばあさんが街で買ってくる、柔らかい白パンに似ていた。

 懐かしいなあ。最後に食べたのはいつだっけ。今日までの生活を思い出してしまった。山姥は、大抵山姥だったけれど、時々は普通のおばあさんになった。ぼくのためにおいしいものを買ってきてくれた。

 おばあさん、今も怒ってるかなあ。早く体を元に戻さなきゃなあ。

 お腹がすいているせいか、ちょっとしたホームシックになってしまった。まだ家を追い出されて少ししかたっていないのに。これもすべて、白パンを思い出させるこの赤ちゃんのせいだ。

 ――ねえ、ブーン。

「何ですかあ?」

 丘のてっぺんで、六本の足で六本の哺乳瓶を赤ちゃんの口元で支えているブーンが振り向いた。

 ――この赤ちゃん、名前ある?

「いいえ。ありません」

 ――じゃあ、ぼくはこの子を「白パン」って呼ぶことにするよ。

 ぼくがそう言うと、ブーンは急に慌て出した。

「だめ! だめですよ」

 ――どうして?

「特別な赤ちゃんなんです。もしものために、命名は後にとっておかなきゃいけないんです」

 ――ねえ、気になってたんだけどさ、特別な赤ちゃんって、どういうこと?

 ぼくが尋ねると、ブーンは六本の手足に六本の哺乳瓶を持つまぬけな格好ながら、真面目な顔で語り始めた。

「特別室の赤ちゃんは、女王ばち候補なんですよ。こうして毎回飲ませるはちみつにローヤルゼリーを混ぜて、女王ばちにするんです。ローヤルゼリーには、赤ちゃんに女王ばちの機能と体格を与える力があるので」

 ――へえ。この子たち、お姫さまなの。

「ええ、そうです。未来の女王様なんです」

 ――こんなにたくさん?

「一番特別じゃなきゃ、女王ばちにはなれないんですよ。この子たちの中で、最終的に選ばれた者以外は、働きばちの一員になるか、もしくは……」

 ――もしくは?

「……まあ、よほどの問題にならなきゃ、働き蜂として活躍できます。でも、どの子が選ばれるのか、本当に分からないんですよ。育っていくうち、見込みの無いものから早めにローヤルゼリーを与えるのを止めて、厳選していくんです。成長期はそれぞれだし、わかりませんねえ」

 ブーンが不自然なまでににこにこするので、ぼくは不安になった。働き蜂になれないほどに女王蜂に近付きすぎたお姫さまたちは、どうなってしまうんだろう。それに、初めはお姫さまだったのに、途中から働き蜂にされてしまう中途半端なみつばちは、成長後、どんな気持ちでいるんだろう。

 ――ねえ、ブーンは初めから働き蜂だった?

 ぼくはブーンの表情がぴくりとひきつるのを見た。

「もちろん、初めから働き蜂ですよ! もし女王蜂候補だったんなら、もっと立派なみつばちになってます」

 ブーンはけらけらと笑った。最後の赤ちゃんたちにローヤルゼリー入りはちみつを飲ませているビイキイは、ちょっと暗い顔をしていた。

 何だか、切ないな。ぼくはこのかわいいお姫さまたちがいとおしくなった。ぼくがはちみつを飲ませた赤ちゃんは、空っぽの哺乳瓶をお腹の上で転がして喜んでいる。

 ――ねえ、ブーン。

「何です?」

 空の哺乳瓶を抱えて、網目上になったベッドの縁をよろよろ歩きながら、ブーンは答えた。足元の赤ちゃんたちはすでに眠り込んでいる。

 ――ぼく、やっぱりこの子を白パンと呼ぶよ。あだ名ならいいだろう?

 ブーンは考え込んだ。

「うーん、正式名じゃないんならいいですよ。よほどその子が気に入ったんですね」

 ――うん。懐かしい白パンを思い出すんだ。すごくおいしかった。

「赤ちゃんを食べちゃだめですよ!」

 ブーンが慌てた。ぼくがわざとニヤニヤ笑ってみせる。その時だ。

「野郎共、夜食の時間だよ!」

 女王の怒鳴り声だ。何だか現実に引き戻された気がする。

「あんたたち、ここはいいからご飯を食べておいで。あたしが赤ちゃんを見てるから」

 ビイキイが、ぐずつく赤ちゃんのひとりを撫でながら微笑んだ。

 ――夜食、食べないの?

「赤ちゃんは一時も目を離せないから、育児係は交代時間まで自由はないの。

 さあ。お客さん、初めてのみつばち料理を楽しんでいって」

 ――大変だね。

 と言いつつも、ぼくは夜食が楽しみなのでお言葉に甘えた。とてもお腹がすいている。みつばちの食事は朝食、昼食、夕食、夜食の四食。太らないか心配だ。

 ぼくとブーンがホールに出ようとすると、白パンが名残惜しそうに僕を見つめていた。うん。白パンはかわいい。きっと女王蜂になれる。

「おうい、元気だったか?」

 ぼくとブーンがホールに出ると、ブギーが団子をかじりながらブイインとやって来た。

 ――さっき別れたばかりじゃないか。それよりさ、ぼくら出遅れてご飯を取りにいけないんだ。参ったな。

 ホールの床は、笹の葉の上に積み上げられた白い団子の山と、はちみつ酒の入ったカップの群れに埋め尽されていた。働きばちたちは、上の方や壁の中からわっと飛んで来て、思い思いに団子とはちみつ酒を取って行く。これが思いの外乱暴な作業だ。列を作って順番に、なんて考えはみつばちの頭にはない。体当たり、横取り、小競り合い、何でもありだ。

 小さな新人みつばちブーンは、はね飛ばされないよう最後まで待ってから食べ物を取りに行くことにしているらしい。飛べるブーンがそうなんだから、飛べないぼくにはなお厄介な作業だ。はちみつ酒パーティーの時には酔っぱらっていい気分だったから気付かなかった。みつばちって案外乱暴だ。

「待てばいいんですよ」

 慣れているブーンは涼しい顔だ。だけどぼくは腹ペコだ。

「ちょっと待ってろ。俺が取って来てやる」

 ポイッと自分の食べかけ団子を放り出し、カップをぼくに預けると、ブギーはすごい勢いで食べ物に群がるみつばちの群れに突っ込んだ。

「お前ら、どきやがれ!」

 押し合いへしあいするみつばちたちを無理矢理押し退け、ブギーはあっと言う間に団子を三つ、はちみつ酒を二つ手にした。本当にすごい。普通より一回り大きいブギーには、誰も敵わない。五回も六回もブギーと同じことを繰り返しては撥ね返され、すきっ腹を更に減らしながらも団子一つ手にすることが出来ないみつばちもいるというのに。勇ましく帰ってきたブギーは、英雄だった。

「私、こんなに早くご飯を食べるのは初めてです! ありがとうございます」

 ブーンがぺこぺこ頭を下げる。ぼくもお礼を言う。

 ――本当に、ありがとう。これは花粉の団子かな。いい香り。

 ぼくたちに感謝したおされたブギーは、照れ臭そうに団子をほおばった。

「おうよ。大したことじゃないけどな」

 ぼくらはぼくらの寝室の、穴同士の間にある枠に座って夕飯を食べた。ここはホールに比べれば静かだ。何匹かのみつばちがいて、多少騒がしいけれど、学校の給食だってこんなものだもの。ぼくは気にしない。

「で、今まで何やってた?」

 ブギーがぼくに聞いた。ブーンは憧れのブギーとこんなに親しく振る舞われるのは初めてらしく、がちがちに緊張している。

 ――赤ちゃんの世話をしてたよ。

「赤ちゃん?」

 ――うん、特別室の、お姫さまたち。

 ブギーの目が、ふいに曇る。ぼくは花粉団子をかじった。外側は甘いはちみつが塗ってあるけれど、苦いしぱさぱさしている。

 ――どうしたの?

「いや、何でもない」

 ブギーはにっこり笑った。何となく気になる笑顔だ。ブーンも縮こまっている。ぼくとブギーは別の話を始めた。特別室のお姫さまたちの話題は、意図的にそらされてしまった。どうやらまずい話題らしい。

「あれ、女王様がお食事をされてますよ」

 ブーンが突然立ち上がった。ぼくとブギーがそっちを見たら、列をなして入ってくるみつばちたちがバタバタと開く扉の向こうに、女王の姿が見えた。ホールの向かい側の壁に開いた指令室の入り口に腰掛けて、あの大きなカップでぐいぐいはちみつ酒を飲んでいる。

 ――優雅だね。女王様は。

「まあな。かっこいいみつばちだよ、あの方は」

 ブギーははちみつ酒をぐいっと飲んだ。ブーンはもう閉じた扉を一心に見つめ続けている。ぼくは二人の視線をなぞりながら、白パンのことを思い出した。特別室の哀れなお姫様たちの噂話というものは、心優しいブギーとブーンを切なくさせるらしい。

 ――そういえば、熱はちみつ、光はちみつって何?

 ぼくが何気なく尋ねると、何だそんなこと、と言わんばかりにブギーが、

「熱を出すはちみつと光を出すはちみつのことだよ」

 と簡単に言う。

 ――それは分かるよ。はちみつが熱や光を持つものなの?

「ええ。はちみつはそのままだと熱も光も持たないんですが、れんげの焼いた花粉を混ぜると、はちみつが熱性質と光性質で上下に分離するんです。熱はちみつはこのみつばち潜水艦の動力や体や部屋を暖めるのに使い、光はちみつは光り穴やランプなんかに入れられて辺りを照らすのに使うんです」

 ブーンはブギーより詳しく教えてくれた。

「何だ、人間って、光はちみつも熱はちみつもなしに暮らしてるのか?」

 ブギーが心底呆れたように言うので、ぼくは少しむっとした。

 ――いや、似たものがあるよ。失礼な。でも凄いね。みつばちの世界では全てがはちみつなんだね。

 ブギーが胸をそらす。

「はちみつは俺たちの命だ」

「ですね」

 ブーンもにっこり同意する。うーん、さすがはみつばちだ。

「でも何でそんなこと聞いたんだ?」

 ―うん。ブカニロフ大臣がね……。

「野郎共! 食事は終りだ! とっとと仕事を始めやがれ!」

 突然聞こえてきたのは、やはり女王のアルトの怒鳴り声だ。ぼくはぎょっとしてはちみつ酒でむせた。

「おい、大丈夫か」

 ――あ、あの、夜食は始まったばかりじゃないの? それに、まだ働くの?

 むせながらぼくが言うと、

「当たり前だろ。寝る時間と食事の時間以外は仕事の時間だ」

 とブギー。ブーンなどは早くもぼくらのカップを片付け、持って行こうとしている。一応言うが、ぼくは団子を半分しか食べてないし、はちみつ酒は二口しか飲んでない。ブギーとブーンの食事のスピードが普通ではないと思ってはいたけれど。みつばちってすごい。ストイックだ。

「お前、もう寝ろよ。疲れただろう? 鬼のようなばあさんと喧嘩して、人生のピンチに出くわしたとんでもない日だからな。寝ろ寝ろ」

 ブギーたちはもう外に出る準備をしようとしている。ぼくは慌ててブギーにとりすがった。

 ――まだ寝ないよ。寝るには障害があるんだよ。ちょっと下まで連れていってよ。仕事が終わったら迎えに来てさ。

「しょうがねえな」

 ブギーは面倒臭そうな顔もせずうなずいてくれた。

 

 ブギーがぼくを降ろしたホールの床は、さっきとは打って変わって静かになっている。ぼくは、ブカニロフがさっき入っていった扉を押し開けた。ガッコンとうるさい音がした。何だか、薄暗い。さわさわと、何かがささやく声がする。空気が冷たい。

『ああ、それならはちみつ加工・貯蔵室にありますよ。はちみつ保存の瓶の口をしばるのに使う綱があるはずです』

 と、ブーンは言った。そう、ぼくは綱が欲しい。

 ここは、ホールより更に足場が悪い。おまけにホールや女王の部屋のようにはちみつを壁や床に塗らないらしい。ざらざらした感触。何だろう。不透明なガラスのような素材だ。靴で踏むときちきち鳴る。薄暗い部屋には、大きなガラス瓶がいくつもいくつも並んでいて、中にはいろんな色の液体が入っている。

 いやだなあ。理科室のいろんな死体のホルマリン漬けを思い出す。

 中身はただのはちみつだと分かってはいる。だけど、この雰囲気が堪らない。みつばちはいないのだろうか? ブカニロフも。ここは普通のはちみつの貯蔵庫のようだ。驚くほど広い部屋に、驚くほどギッシリとはちみつが詰め込まれている。

 多分、このスペースははちみつ潜水艦の三分の一くらいある。でかいはちみつ入りの瓶は高い天井付近まで積み上げられ、どうやら床下にもそれはあるらしいから。

 床には切れ目が見える。はちみつは本当にみつばち潜水艦の命なんだな。

 ぬめりを帯びた黄色い液体は、光のないところではそんなにおいしそうにも美しくも見えない。むんむんと鼻の奥に迫るはちみつの香り。他の部屋でも強かったけれど、この部屋のはちみつの香りの強さは意識せずにはいられないほどだ。なんだか気持ち悪くなった。早く綱を見付けよう。瓶の隙間に六角形の扉が見えたから、ぼくはそこをカポンと開けて次の部屋に入った。

 ――何だ。はちみつ酒の部屋か。

 香りで分かる。甘さの増したはちみつの匂い。アルコール。さっきの部屋ほどではないけれど、ゆっくり見回すと、たくさんのはちみつ酒の瓶が並んでいる。

 細い道を碁盤目状に作って、あの部屋と同じく大きな瓶が積み上げられている。ぼくは夜食で満足に飲めなかったはちみつ酒の香りを楽しみながら、一つの高さが僕の二倍あるはちみつ酒の瓶の間を歩いた。

 ――いい香り。

「ホント、ホント」

 女の子の声がぼくに同意した。

 ――誰?

 ぼくは誰もいないと思っていた。いや、そのはずだ。気配は無かったから。

「私はれんげ」

 ――れんげ? みつばちにしては変わった名前だね。ねえ、どこにいるの?

「ここよ」

 ――ここ?

「ここだってば」

 ――わからない。

「鈍感ね」

 不機嫌な声を最後に、声は止んだ。

 ――ねえ、どこ? ぼくは綱が欲しいんだけど、余ってない?

 返事はない。気まぐれな女の子だな。そう思いながら歩いていたら、とぐろを巻いた太いすすき編みの綱を見つけた。これで満足だ。

 ――じゃあね。綱はあったからぼくは帰るよ。

 返事はなかった。ぼくは黙って静櫃なはちみつ酒貯蔵庫を出た。

「おっ、お前、こんなところに用があったのか?」

 最初の部屋に、ブギーがいた。積み上げた空っぽのバケツを抱えていたので、何をしにきたのかすぐに分かった。

 ――このはちみつは壁を塗るのに使うの?

 ぼくははちみつの群れを指差した。

 ――たくさんあるよね。なかなか減らないんじゃない?

「ところが、あの森から海に到着するまでに結構消費するんだよな。土堀りってやっかいなんだよ」

 ――そんなものかなあ。

「まあな。じゃ、俺ははちみつ調達してくるから、お前は寝るときまで好きに遊んでろよ」

 ブギーは扉の一つを押した。

 ――あれ? ここのは使わないの?

「何を言ってやがる。ここのはちみつはなんの手も加えてない原はちみつだよ。はちみつ加工室で熱はちみつだの光はちみつだのはちみつ酒なんかの飲食物への加工が済んで、そのカスを壁塗りに使うんだ。そうじゃなきゃ、もったいないだろ?」

 ――なるほど。

「この部屋にはカスはちみつがある。で、お前がいたのははちみつ酒、あっちが熱はちみつ、あっちが光はちみつ、はちみつ食品はそっちだな。ちなみにはちみつ加工室はあそこ」

 最後にブギーは原はちみつ室の通路の床の真ん中を指差した。怪しげな白いロウのような扉があった。もちろん六角形。

 ――うーん。やっぱり、研究ってこういううさんくさい所でやるものなのかな。

「何だ?」

 ――いや、何でもないよ。でも、ガラスの瓶がこんなに高く積み上げられてると、何だかゾッとするね。

「何でだ? みつロウの瓶は滅多に壊れないよ。大丈夫だよ」

 ――みつロウ?

「そう、みつロウ。はちみつを加工して、固い壁やこういう瓶にするんだ。みつばち潜水艦が土の中をガアガア行っても壊れないのはこのお陰だよ。ちなみに俺たちの寝床もみつロウ製だ」

 ぼくは改めてみつばちのはちみつ文化に感嘆した。ガラス並の透明度のみつロウかあ。人間とどっこいどっこいじゃないか。いや、ひょっとして負けているかもしれない。

「何ポカンとしてるんだ? やっぱりお前変わってるなあ」

 ブギーは笑いながら扉の向こうに消えた。ぼくは相変わらずポカンとしていた。みつばち文化に驚かされるのは、これで何度目だろう。これがカルチャーショックというやつかな。

 

「じゃあな」

 ――おやすみ。

 ぼくとブギーは夜になるとやっと別れた。ブギーは仕事の疲れも見せず、元気よくブンブンと天井の穴に潜り込んだ。静かになりつつある大部屋で、ブギーの羽音はひときわ目立つ。

 深夜になって静かになっても、ぼくは東京ドームのようにだだっぴろい大部屋で一人、起きていた。綱を結び付けて、ぼくの寝る深い穴に潜るための綱を結び付けようと奮闘していたのだ。カツカツ音を鳴らして壁に穴を掘っていると、隣のみつばちが怒り出した。

「人が寝ようとしてるのに、うるさくしないでくれ」

 ひょろりとした神経質そうなみつばちで、隣人には向かなそうなタイプだ。と、こんなことを言うのは失礼だ。なんせ、本当にぼくは近所迷惑なことをしている。

「道と寝床の間に穴を開けてどうするんだ」

 隣人はじっとぼくの穴を見た。

 ――お騒がせしてすみません。登り降りの綱を結ぶんです。ぼく、このままこの中で寝たら一生上がってこられないんです。

 ははは、と隣人は笑った。

「そんなら、私がやってあげる。貸してごらん」

 彼はぼくがブギーから借りた杭とトンカチを取りあげた。

「おや、これはブギーのじゃないか。あいつ、これを貸すんなら最後まで手伝ってやればいいのに」

 隣人はぶつくさといいながらカツカツやりはじめた。

 ――ブギーにはいつもお世話になっていて申し訳ないから、ぼくが自分でやるって言ったんです。

「そうか。君はいい子だな。だけど自分の力量を見極めてからにしろよ。これじゃあいつまでも終らないし、隣人も眠れない」

 隣人は杭をぼくの開けた穴に当て、トンカチでコココン! と叩くと、みつロウの壁にはいとも簡単に穴が開いた。

 ――すごい。

「これでもブギーと同じ鑑内整備係なんだよ」

 ――そうなんですか。本当に、ありがとうございました。

「いや。ああ、これでやっと眠れる。おやすみ」

 隣人は隣の穴に引っ込んだ。本当に申し訳ない気がした。

 ぼくは綱を穴に結び付けた。背中を狭い穴の壁に押し付け、結び目に手足をかけながらスルスルと縦穴に降りる。冷たいみつロウの壁で、うずくまる広さしか無かった。隣人の穴からはもうからいびきが聞こえてきた。案の定、壁は薄い。まあ、住めば都だ。

 ぼくは、すすきの綱の余りの部分を床で大雑把に巻いて壁に寄りかかった。すすきの毛は中々に暖かく、思ったより柔らかく体を受けとめてくれた。

 ぼくはうとうとする。今日は大変な一日だった。

 みつばち潜水艦に会い、ブカニロフに会い、ブーンに会い、変な物を飲まされて小さくなって山姥に勘当された。

 それからブギーに会い、はちみつ酒で酔っぱらって白パンに会って、金色の六角形の吹き抜けホールで遊び、女王ばちに出会った。とても素敵な女王で……。

 あれ? なんだか順番がメチャクチャだ。

 まあいいや。それから、みつばち潜水艦のいろんな所に行ったんだ。どこもかしこも六角形で面白かったな。みつばち潜水艦は今土の中をゴオゴオ進んでいる。こんなこと、人間ではぼくしか知らない。今はどのあたりを進んでいるのかな。

 みつばち潜水艦の中のブンブンというみつばちたちの羽音。はちみつの香り。はちみつ酒の瓶。女王蜂。白パン。れんげ。れんげって誰だっけ。

 ああ、眠くて仕方がない。いろんなことがありすぎた。この寝床は案外いいなあ。体がぴったり収まる。眠い、眠い。…………。


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