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みつばち潜水艦  作者: 酒田青
ぼくがみつばち潜水艦に乗ったわけ
2/8

みつばちパーティー

 ぼくは甘い香りのしみついた六角形の滑り台を足からするすると滑り落ちた。ぼくの周りは金色で、キラキラとまぶしい光が勢いよくぼくの周りを通りすぎていく。

 本当に良い香り。滑り心地も悪くない。ややざらついた壁は僕のTシャツをこすり、背中を熱くした。でこぼこがぼくの体を持ち上げては落ちる。と、ぼくの体は急にぐるんとひっくりかえった。頭が下で、お腹が滑り台をこすり――大丈夫だろうか? 着地はどうしよう?

 そう思った時突然、視界が開け、ブンブン声がワンワンと耳に響くほど大きくなった。ぼくは周りを見渡した。ぼくは、宙に浮いていた。ぼくの顔は下を向いている。だからわかる。ぼくはこのまま落ちたら死ぬ。

 だって、ぼくが出てきた穴は、僕の体の何十倍、何百倍もの高さにあったんだ。これは危ないぞ。どうしよう。落ちていくぼくは、勢いよくすれ違っていく景色を眺めた。それだけ落ちるのに時間がかかったんだ。

 金色の壁が輝いていた。それを輝かせるのは巨大なホールの中央にある穴の中の光だ。

 煌々と輝く光は液体だった。普通のはちみつとは少し違う、甘い香りがそこから立ち上っている。何故香りが分かるかというと、その穴からは光だけでなく、僅かな温もりが湯気という目に見える形でぼくを包んでいるからだ。まさか、あれもはちみつなのかな?

 金色の反射を受けるのは、無数のみつばち。マグカップのはちみつ酒をそれぞれ手に持ったみつばちたちは、空中のあちこちで乾杯をし、ふらふらと飛んでいる。ブンブン声は最高潮だ。ぼくがいきおいよく落ちていくというのに、酔っぱらったみつばちたちは気付きもしない。ぼくが起こす風に体を揺らめかせたみつばちもいたのに、そのみつばちは、

「女王陛下、ばんざい!」

 なんて叫んでいる。

 飛んでるみつばちの誰かが気付いてくれなきゃ、ぼくは困るんだけどなあ。

 そんなことを思っていると、

 どん!

 と何かにぶつかった。

 そして、ぼくはちょっとだけ下に沈むと、落ちるのは止まったようだった。

 ぼくは何が何だか分からないがほっとした。ぺしゃんこにならずに止まれたんだから。

「てめえ、何しやがる」

 しばしの沈黙と安心の後、恐い声が下から聞こえた。するとぼくは自分が今どういう状況にいるのかやっと分かった。大きなみつばちの背中に、ぼくはぶざまにうつぶせて乗っかっていたのだ。

「何しやがる、って言ってんだ!」

 恐ろしいだみ声を張り上げて、首だけぼくに振り向いたみつばちは怒っていた。

 ――ごめんなさい。

 ぼくは素直に謝る。

「ごめんなさい、じゃない! 早く降りやがれ!」

 怒ったみつばちは飛びながら体を斜めにしてぼくを空中に放り投げようとする。冗談じゃない。この高さから落ちたって、ぼくはぺちゃんこだ。ぼくは必死にみつばちのふわふわの首周りの毛にしがみついた。

 ――お願いです。許してください。

「何だとう?」

 ――ぼくは酔っぱらったみつばちに、何も知らされずここに放り込まれた飛べない人間なんです。

 みつばちはぼくをじっと見た。

「本当だ。気付かなかった」

 みつばちの目の色が落ち着いた。ぼくはおとなしくなったみつばちに力説する。

 ――あなたに今振り落とされたら、ぼくはあの素敵な金色の床を血で汚すでしょう。ぼくの体はあなたがたほど固くないのです。それでもいいのですか?

 みつばちはぼくを振り落とそうとするのをやっとやめた。

「そうかい。それなら仕方ねえ。悪かったな」

 みつばちは真顔になって謝る。怒っていなければ、愛嬌のある優しい顔だ。

 ――いえいえ良いのです。ぼくはここから安全に降りて、はちみつ酒さえ飲めればそれで結構なのですから。

「何、はちみつ酒が飲みたいのかい。まさかお前さん、おれたちの出航パーティーを祝いに来てくれたのか?」

 ――まあ、そんなもんです。

「何だ。なら早く言え。はちみつ酒いっちょう!」

 みつばちは年寄りみつばちのように叫んだ。

「ハイハーイ!」

 遠くからブーンの声が聞こえる。

「俺の名前はブギー。お前さん、飛べないんならこのパーティーでやってくのは難儀だぜ。このまま俺の背中に乗っていな」

 ブギーはニヒルに笑った。ぼくも笑った。なかなかいいやつだ。飛ぶみつばちの背中に乗っかる経験も悪くない。と、この時はそう思ったものの、この後もずっとブギーに乗りっぱなしになるとは、ぼくは思いもしなかった。

 みつばちたちのパーティーはめちゃくちゃだった。

「ゆくぞ! 突撃ー!」

 と叫びながら、酔っぱらいみつばちがすごい勢いでぼくとブギーのすぐ横を飛んで行く。

 別のみつばちは、流行りだしたらしい新しい八の字ダンスを大勢で踊っている。へべれけだからへろへろで、どうしても八の字にならない。お尻の小刻みな震えが大事らしいと、ぼくにも何となく分かるのだけど。

 ぼくはブギーの背中にあぐらをかいて、そういったみつばちたちを観察しながら、ブーンが持ってきてくれた生暖かいはちみつ酒をごくりと飲んだ。喉が焼けつくような甘い、不思議な味。

 ぼくはブギーを見下ろして、ブーンの言ったことを思い出した。飛んでやって来たブーンは、ブギーの背中に乗ったぼくを見て、

「わあ! あなた、いいみつばちと友達になりましたね」

 と言ったのだった。

 ――ねえブギーさん、あなたは全く酔わないのですね。

 ぼくは上から覗き込むようにしてブギーに語りかけた。ブギーがへへっと笑った。

「もっと気軽なしゃべり方をしろよ。堅苦しくてなんねえや」

 ――おっと、そうだね。そうしよう。

「そう、それがいい。あのな、おれはそこらへんのみつばちに比べてタフなのさ。だから酒なんかに飲まれたりしねえ」

 確かにブギーは他のみつばちよりも大きかった。はばたきも力強い。

 ――どれくらいタフなの。何かすごい話とかあるの。

「うーん。聞きたいなら話してやるぜ」

 ブギーは機嫌よく話しだす。ぼくはいつのまにか大きなブギーの背中にごろんとうつぶせて、ブギーの話を聞いていた。

 聞けば聞くほど、ブギーがタフなんだということがよく分かった。

 ブギーよりももっと大きいくまんばちと、見事なチューリップのみつを巡って戦った話。

 怪我をした仲間のみつばちを、激しい雨の中巣まで運んでいった話。

 ぼくはひどく感心して、溜め息を何度もこぼした。これがタフガイというものだろうか。人間では物語以外では見たことがない。

「この巣の天井の辺り。あの辺の金色は大体おれが仕上げたんだぜ」

 ブギーが指す方を見ると、荒々しく固められた天井が、均等で細やかな輝きを放っていた。

 ぼくは歓声を上げた。ブギーは万能だ。

 ――すごいや。

「俺の自慢話ばっかりしてるのも馬鹿馬鹿しい。お前さんのことも聞かせろよ」

 ぼくがあんまり感心するので、ブギーが照れたように言う。

 ――うーん、大して話す事はないよ。例えば、ぼくはボロ家におばあさんと二人暮らしをしている。

「へえ、どんなばあさんだ?」

 ――鬼さ。山姥さ。

「そんなに恐ろしいのか?」

 ――うん。でもぼくは好きさ。

「そいつは何よりだ」

 ――そして、ぼくははちみつが好きだよ。

「へえ!」

 ――みつばちの巣も好きだよ。

「へええ!」

 ――みつばちはもっと好きだ。

「そりゃあいい! お前さん、きっとみつばちと気が合うぜ」

 ――うん、ぼくもそう思う。

「そうかそうか。俺もお前さんが気に入ったぜ」

 ――本当に? ありがとう。

 ぼくたちはげらげらと馬鹿のように笑いあった。はちみつ酒の酔いが、半分は手伝っていただろう。その時だ。

「野郎ども、注目!」

 ざわめきを切るように、よく通る、きれいなアルトの声が、金色の巨大ホール全体に響きわたった。

 途端にへべれけの、てんやわんやの騒ぎは収まった。音というと、宙に浮かぶみつばちたちの立てるブンブンという羽音だけ。みつばちたちは、下の方を見ていた。ブギーもぼくから目を離し、下を見た。なのでぼくも、ブギーの背中から体を乗り出して下を覗きこんだ。

 びっくりした。

 丸みを帯びた広大な金の床の真ん中には、さっきも言った通り、黄金の光る液体で満たされた井戸のようなものがある。ぼくらはそこから放たれる金色の光を浴びて、らんちき騒ぎをしていたわけだ。

 光は井戸の向こうに立つ、あるみつばちを煌々と照らしていた。

「女王様!」

 ぼくの下のブギーが心酔しきった声で叫ぶ。すると、他のみつばちたちもせきをきったように、

「女王様!」

「女王様!」

 と合唱を始めた。

 ぼくはただポカンと口を開けてそれを見た。

 女王様?

 それは、どでかいみつばちだった。周りに小さなみつばちが数匹付き従っているけど、本当に小さいんじゃない。そのみつばちがでかいんだ。普通のみつばちの三、四倍はある。頭の上には飴色の王冠を被り、首周りにはふさふさの白い襟巻きをつけていた。もっとも、金色の光でえりまきは黄色く輝いていたけれど。

 ――でっかいなあ。

「何言いやがる。この無礼者!」

 ブギーが小声でぼくを叱り、わざと少し背中を傾けた。ぼくは慌ててブギーの襟巻きを掴む。周りでは相変わらず「女王様」の声が鳴り響いている。

 ――あれは、女王ばちなの? ぼく図鑑で見たことあるよ。

「そうだ。あの方はみつばちの女王様だ。くれぐれも口を慎め」

 ――あんなに大きいとは思わなかった。

「だから、黙れってば!」

「お前は、人間だな?」

 アルトの声が響く。途端にこの場が再び静まりかえった。ぼくとブギーは硬直した。女王ばちが、あの大きな黒く輝く目をぼくに向けていた。

 ――はい、そうです。初めまして、女王様。

 ぼくはブギーの上で出来るだけ真っ直ぐな姿勢に正して、ぺこりと挨拶をした。

「我々みつばちの、出港パーティーに参加しに来てくれたんだね」

 女王ばちは柔らかな声で話す。とても感じがよかった。

 ――まあ、そんなところです。

「ありがとう。パーティーはもうすぐお開きだ。それまで楽しんでいきな」

 女王ばちはにっこりと微笑んだ。それがもう、本当に素敵な笑顔なのだ。

 ――ありがとうございます。

 ぼくは女王ばちがとても好きになった。みつばちたちがあんなに輝いた目で彼女を見るのも当然だ。ぼくは何でも好きになる。でもこの好きの気持ちは特別だ。

「それじゃあ野郎共!」

 女王が再び声を張り上げた。みつばちたちは酔いも忘れて、背中と触覚をしゃきんと伸ばした。どうも女王の声には、周りをしゃきんとさせる効果があるらしい。

「今言った通り、パーティはもうすぐお開きだ。はちみつ酒の樽はもう開けない。最後の一杯が飲み干された時、我々は出港する!」

 みつばちたちは、一斉にブンブン声の雄叫びを挙げた。辺りの空気がぶるぶる震える。

「最後の一杯を、一緒に飲もう!」

 またも雄叫びだ。ブギーは人一倍女王蜂の言葉に反応するので、ぼくをのせた背中はぐらぐら揺れて仕方がない。

 下の方から順々に、ボーイ役の若いみつばちたちが、新しいカップを皆に配り始める。女王蜂の方を見ると、ブーンが大きな白く輝くカップを捧げ持ち、うやうやしく女王蜂に差し出していた。ぼくにもブギーにも新しいはちみつ酒が届けられ、空のカップが持ち去られていく。

「それじゃあ野郎共、乾杯!」

「乾杯!」

 ブンブン声は今までで最高に揃った、潜水艦全体を揺らすような合唱をした。ぼくも最高に高揚した気分で、乾杯! と叫んだ。

 困ったことが起きたのはその後だったんだ。

 すっかり祭りの後、といった感じのホールでは、酔っぱらったみつばちたちが次々に壁に開いた六角形の穴に吸い込まれて行った。皆潜水艦を動かす仕事に行くんだろう。

 どんどん寂しくなっていく。これはお祭り騒ぎにはつきものの寂しさだけど、やっぱり何か悲しいな。

 と、下のブギーがぼくに声をかけた。

「お前、もう帰る頃だろう。いつまでもここにいるわけには行かないぜ」

 ――そうだね。残念だけど。

「俺も持ち場に戻らなきゃならねえ。それに、このみつばち潜水艦はもう出港するんだ」

 ――どこに向かうの?

「良いことを聞いてくれたな。実は……」

「お前、何でそんなに小さくなってるんだい?」

 会話はふいのアルトの声で打ち切られた。

 ――え?

「え? じゃないだろう。どうして人間がそんなに小さくなってんだって聞いてるんだ」

 女王だった。女王はパーティが開けたあとも、その場で何匹かのみつばちたちと真面目な話し合いをしていたのだ。その時ふとぼくが目についたらしい。

 ――あの、えーっと。あれ? どうしてぼくはこんなに小さいんだろう?

「あれっ? そういえばそうだな」

 ブギーがぼくをまじまじと見る。

「どうして人間が、俺の背中に乗られるほど軽いんだ?」

 ――うーん。

「あっ」

 下から、小さな声がした。

「何だい? ブーン」

 女王がその声の元をちらりと見た。床の隅の方に、空っぽのカップの山があった。他の若いみつばちたちは凍りついたように山の陰を見つめている。

「まさか……」

 女王が表情を険しくした。ブギーも何かに思い当たったらしい。ぼくは頭がぼんやりして何もわからない。

「ブーン、お前まさか……」

 ブギーがわなわなと震えながら言った。山の陰からブウウンとすごい勢いで何かが飛び出してきた。

「その通りです! 特別ロイヤルゼリー酒をその方に飲ませました! すいません!」

 ブーンは女王蜂の前にひれ伏して、甲高い声で叫んだ。ぼくはまだぼんやりしている。特別ロイヤルゼリー酒?

「何てことを……」

 女王は呆れて溜め息をついた。

「ああ! 私は何てことを! 一滴だってはちみつ酒を飲んでいないのに、こんなヘマを!」

 ブーンがブンブンとその場を飛び回った。

「お前、知ってただろう? 特別ロイヤルゼリー酒は、女王ばちである私や赤ん坊以外が飲むと、体が縮んじまうってことを」

「知っておりました! それはもう重々承知しておりました!」

「それなら何で……」

「老ブカニロフ様が、この人間のお客様がはちみつ酒を飲めるように持ってこいと」

 女王の背後には、こそこそとその場を去ろうとする重臣の一人。

「お待ち! ブカニロフ」

 女王の声に、ビクリとそのみつばちは歩みを止めた。

「な、何ですかな? 女王様」

 振り向いた顔は、確かに外で一人酒を楽しんでいたあの年寄りみつばちだった。

「お前かい?」

「はて……」

「とぼけるんじゃない!」

 女王蜂が顔を険しくして怒鳴った。ブカニロフは観念したらしい。

「……私でございます。ええ」

「お前ともあろうものが、何でこんな馬鹿なことをやったんだ!」

「それは……」

「それは?」

「はちみつ酒で酔っぱらっていたのでございます。それで後先考えずにこのような」

「馬鹿野郎!」

「申し訳ございません、女王様!」

 ブカニロフは巨大な女王の前にひれ伏した。

「はちみつ酒が……わしを阿呆にするのでございます」

「はちみつ酒のせいにするんじゃない!」

「ははっ!」

 ブカニロフの頭はますます下がる。

「女王様! ブカニロフ様のせいだけではありません! 私の間抜けが悪いのです!」

 ブーンがブカニロフの横に飛び出した。

「両方悪い!」

 女王は怒鳴る。二匹は小さくなる。

 このやりとりは、どうやらぼくを巡ってのものらしい。何だかよく分からないけど。ブギーはさっきから気の毒そうにぼくを見ている。ぼくは気の毒なのか? まずいぞ。また嫌な予感がしてきた。

「そこの人間、こっちへ来な」

 やっとどぎまぎしはじめたぼくは、女王に呼ばれた。ブギーはゆっくりと女王の元に降りる。ぼくは、久しぶりに安定した床に足をつけた。

「すまないね。わたしの馬鹿な部下たちのせいで、こんなことになっちまって」

 ――あの、ぼくはどういうことになってしまったのでしょう。

「まだ分かってないのかい? はちみつ酒の酔いがまだ醒めてないんだね」

 ――はあ。

「お前は今、みつばちの大きさになってるんだよ」

 ――そうですね。

「そうですねじゃないよ。お前はもう、二度と普通の大きさに戻れないんだよ」

 ――えっ。

「かわいそうだけどね、人間や普通のみつばちは特別ロイヤルゼリー酒で小さくなることは出来ても、大きくなることは出来ないんだ」

 ――ええっ。

 ぼくは慌てた。そりゃあそうだ。今まではちみつ酒の酔いで頭がふわふわしていて、何もかも考えられなくなっていたのに、いきなりガーンと目が覚めるようなことをつきつけられたんだから。

 ぼくが、もう二度と大きくなれない?

 じゃあどうやって暮らしていくんだろう?

 小さいぼくは学校まで歩いて行けるだろうか?

 サッカーの仲間に入れてもらえるだろうか?

 いやいや、それよりも山ん婆に……。

 ――あっ!

「ん? どうした」

 女王はすっかり同情しきった顔で僕を見下ろした。それに対し、ぼくの目は輝いていたと思う。

 ――みつばちの方法ではぼくは大きくなれないのですね?

「そうだ。残念だけどね」

 ――ぼくのおばあさんならぼくを大きくする方法を知ってるかもしれません。

「本当かい?」

 女王の声がにわかに弾んだ。

 ――ええ、もしかしたら。ぼくのおばあさんは山姥みたいな人なんですが、本当に妙なことをたくさん知っているんです。野兎の捌き方とか、寿命を延ばす野草とか。もしかしたらぼくが陥ったこの状況をどうにかできるかもしれません。

 女王蜂はそれを聞いて安心したようだ。

「そうかい! それならお前のばあさんに会いに行きな。もしもの時のために、出港は待っといてやるよ」

 ――はい。ありがとうございます。

「俺が送ってやるよ」

 ブギーがずいと体を乗り出す。

 ――ありがとう。

「本当に、すまん」

 ブカニロフがぼくに頭を下げる。

 ――いえいえ、すぐに解決することですから。

 ぼくはまたブギーの背中に乗る。それから、にっこり笑ってしょぼくれたブーンに手を振った。

「本当に、うまく行くと良いけどねえ」

 女王が案じ顔で言った。だけどぼくはにこにことその場を飛び去った。

 ブギーの固くて冷たい背中に張り付き、その首の襟巻きに指を絡ませて、ぼくは高い高いホールの天井へとひとっ飛びした。床にいる大きな女王と周りの家臣たちがどんどん小さくなってゆく。

 ガランとなったこの場所を見下ろし、よくもまあぼくはこんなところを呑気に落ちてったもんだと呆れた。だって、ひしめき騒ぐみつばちたちがいなければ、ここは巨大ビルディングの最上階にもひとしい高さなんだから。

 ぼくがぽかんと下ばかり眺めていたら、ブギーがピタリと天井近くに並ぶ一つの六角形のドアの前に止まった。そういえばここから落ちてきたんだっけ。

「体を伏せろよ。この穴はみつばち一匹用の大きさなんだからな」

 ――わかった。

 ブギーがカポンとドアを押し開ける。金色の滑り台がキラキラと輝きながら、滑らかに伸びている。何だかやたらに懐かしい。あの時の甘い香りはもうしない。なんせぼくははちみつの香りに鼻が麻痺してしまったのだから。ぼくはみつばち潜水艦の中にすっかり馴染んでいた。

「じゃあ、行こう」

 ブギーが先の丸い触角をピクリと動かした。それを合図にぼくは体を伏せる。ブギーはブイインと羽を鳴らして、長いトンネルを勢いよく飛び進んだ。

 ――わあ、速い。

「当たり前だ」

 金色の世界は来たときよりも速く通りすぎていく。やがて、黒い穴が見えてきた。と思ったら、ぼくらは広いところに飛び出していた。

 ――あれっ、夜だ。

 辺りは真っ暗で、澄んだ空気が月の光をぼかすことなくぼくらに届けていた。

「夜だなあ。何かまずいことでもあるのか?」

 ブギーが首をくるりとこちらへ向けた。

 ――まずいどころじゃないよ。ぼくは夜まで外で遊んじゃいけないんだ。

「ほう」

 ――山姥に殺される!

「はあ?」

 震えるぼくを見て、ブギーは首を傾げた。

「山姥って誰だ」

 ――さっき言っただろう? ぼくのおばあさんさ。

「ああ、恐ろしいばあさんなんだっけ」

 ――恐ろしいどころじゃない! 殺されるよ!

「まあそんなに泡食ったって仕方ねえだろ。お前をもとに戻してくれる唯一の人なんだ。帰らなきゃあな。それに可愛い孫なんだ。ほんとに殺しはしねえだろ」

 ブギーはけらけらと笑った。確かに本当に殺しはしないさ。でも、ブギーは分かってない。絶対に、分かってない。

「行こうぜ、とにかく。出航遅らせてんだ。結果が吉だろうと凶だろうと、行かねえことにはどうにもならない」

 ぼくは口をギュッとつぐんで呑気なブギーを見下ろした。ブギー、きみが山姥と会うときが楽しみだよ。

「お前んち、どこだ?」

 ぼくは方向が思い出せなかったので、ブギーに高く上昇してもらった。森の木が足元で黒々とざわめいていた。広葉樹たちはさぞかし面白がっているだろうなあ。ざわめきが笑い声に聞こえる。

 ――たぶん、あっち。

 ぼくは木々の隙間が細く続いているところを見付けて、その先を指差す。

「あっちだな。で、ボロ家だな」

 ――まあね。

 ぼくが頷くと、ブギーはブイイインとすごい勢いで進み始めた。森はゆっくりと通りすぎる。そして。ああ、ボロ家が、見えてきた。

 ボロ家は微かな光を窓から漏らしている。ぼくは不安でいっぱいだ。

 ぼくは門限を破った。これは我が家では重罪だ。ああ、ぼくは恐ろしい罰を受ける。

 家のなかは静かだ。ピリピリというビニールを引き裂くような音が聞こえる。たぶんおばあさんはふきの筋を取ってるんだ。ふきはぼくの家の裏手の土手に生い茂っている。ぼくはよく大きく広がった緑の葉のついたふきの茎をおばあさんに集めさせられる。おばあさんが作るふきのお浸しはおいしい。ぼくはお腹がすいてきた。そういえばはちみつ酒以外は何もお腹に入っていない。そしたら、何だか無性に家に入りたくなってきた。

 重罪? 罰? きっと大丈夫さ。

 ぼくはブギーの背中をとんとんと叩き、開いた窓を指差す。あそこから入ろうというわけだ。

 窓を覗くと、おばあさんは案の定台所の床の上のふきの山の中に座り込んでいて、つんとするふきの臭いは辺りを満たしていた。ぼくの家はボロ家だ。だけど散らかってはいない。何故ならおばあさんがきれい好きだからだ。

 ブギーのブイインという羽音に、おばあさんは顔を上げた。口をへの字に結び、眉間にしわを寄せている。これはいつもの顔だ。何も恐れることはない。

「みつばちか」

 おばあさんは四角い顎を動かして、つぶやく。

「何の用だ」

「今晩は。夜分にすまねえな」

 ブギーがブイインとおばあさんに近付いた。

「今日は届け物をしにやってきたんだ」

 ブギーの声の調子は慎重そのものだった。ぼくはそのとき呑気に構えていた。

「届けものって、お前の背中に乗ってるそれか?」

「よく見えたな。こいつは」

「ならいらねえよ」

 おばあさんは、いや、山姥はあっさりと言ってのけた。ぼくは背中に冷たい汗が流れたことに気付く。ブギーも羽をブンブン羽ばたかせるのを一瞬やめて、危うく二人一緒に落ちそうになる。

「い、いや、こいつはあんたの孫だろう。いらないってことはないんじゃないか?」

 ブギーが慌てて言う。

「そのガキなんか知らねえよ。おい、お前」

 はい! とぼくは答えた。何だか今日は尋常じゃないほどにまずい状況に陥る日だ。どうやらぼくは呑気な考えを捨てるつもりで山姥に挑まなければならないらしい。

「お前、何で小さくなってんだ。ああ?」

 山姥の「ああ?」は非常にドスが効いている。

 ――みつばちの出航パーティに出くわしたんだ。そしたら、年よりみつばちのブカニロフさんが、お主もはちみつ酒を飲め、と勧めてくれて。

「ちょっと待て。酒だと?」

 しわがれた山姥の声はぼくの胃袋さえ震わせる。

「お前、酒食らったのか?」

 ――……その通りです。

「ちょっと待ってくれ、ばあさん」

 ブギーの助け舟が入り、ぼくはホッとする。

「はちみつ酒のどこがいけねえんだ?」

 駄目だ。ブギーがちぐはぐなことを言い出した。

「はちみつ酒はみつばちの誇りだぜ! それをけなすって言うなら……」

「お前、何言ってんだ。こいつは子どものくせに酒くらったんだぞ」

 山姥の顔がまさに鬼の形相になる。大きな目が更に開いて、ギョロギョロとぼくとブギーを見る。ブギーが急におとなしくなった。ぼくだって黙りたい。だけど山姥は話の続きを促す。

「それで、そのあとどうしたんだ」

 ――はちみつ酒のカップは小さくてぼくには間に合わないんだ。だからブカニロフさんはボーイのブーンに特別ロイヤルゼリー酒を持ってこさせて……。

「それで?」

 ――勧められるままに飲んだ。

「また酒をかっくらったわけだな」

 山姥の眉はピクピク動いている。

 ――で、頭がぼうっとなって。

「酔っぱらったのか」

 ――そう、そしたら体が小さくなって。それでみつばち潜水艦の中に入って、みつばちたちと浮かれ騒いだんだ

「で、気付いたときにはこの時間ってわけだな?」

 山姥は前掛けの上のふきをぼとりと床に落として、立ち上がる。ブギーがたじろぐのが分かった。

「貴様」

 山姥の額に青筋が浮いている。

「馬鹿野郎!」

 ああ、本日二度目だ。

「貴様は門限を破って、酒をかっくらって、妙ちくりんな体になって戻ってきやがった」――ごめんなさい。

「ごめんなさいじゃすまねえよ」

 山ん婆は体をぼくらにぐいと寄せて凄んだ。ぼくは目を閉じて瞑想をする。こうやると山姥の説教はそこまで恐ろしくない。ブギーがいやに静かだ。多分ぼくと同じことをやっているのだろう。

「で、どうすんだ?」

 ――どうするって?

「お前がやったことの落とし前は、どうつけるんだ?」

 ――ぼく、毎日おばあさんの手伝いをします。宿題もします。門限も守ります。酒も飲みません。

「そんな当たり前のことをやってもしょうがねえんだ」

 山姥の顔はお面になってしまったんじゃないだろうか。だってさっきから鬼の形相に変化がない。ぼくは黙りこむ。

「その小さい体、それどうするつもりだ」

 山姥が目を細めた。するとブギーが急に蘇る。

「それなんだけどよ、ばあさん。こいつが飲まされて体を小さくされた特別ロイヤルゼリー酒っての、さっき聞いただろう」

 山姥が怪訝な顔になる。

「あれを飲んで小さくなったら、二度と元には戻れねえんだ。かわいい孫をこんな目に合わせちまったのは、こっちの手違いなんだ。本当に済まねえ。女王様にも尽す手はねえんだ、そんで……」

 ブギーがまくしたてていると、山姥が更にこっちに近付いた。ブギーがぱたりと話をやめる。

「戻れない?」

「そうなんだ。飲ませた仲間も、酔っぱらって何も分からなかったんだ。ほんとに済まねえ。代わりに詫びるよ」

「戻れないって、じゃあどうするんだ」

 ――え?

「ばあさん、あんたがこいつを戻してくれるんじゃないかって、そう思って俺たちは頼みに来たんだ」

 ――そう、そうなんだ。

「ばあちゃんは何も知らねえよ。お前を大きくする方法なんて」

 山姥は顔を更に険しくした。

 ――ええっ。

「ええっ」

 ぼくとブギーは絶句する。

 ――だって、おばあさんは色んな事知ってるじゃないか。野兎を捌けたり、薬草をたくさん煎じたり、うぐいすを飼いならす力を持ってるじゃないか。

「ありゃあ魔法やなんかじゃねえよ。普通のことをやってるだけだ。小さくなったお前を大きくするなんて、でたらめなやり方なんか知らねえよ」

 山姥は当然のように言う。ぼくは愕然とした。あれは魔法ではなかったのか。じゃあ、どうすればいいんだろう? ぼくは、永遠に小さいままなのか?

「お前、それじゃあ学校にも行けねえじゃねえか」

 山姥は言う。

 ――そう、そうなんだ。

「当たり前の生活もできねえよ」

 ぼくは黙りこむ。

「そんな体で、どうして生きて行くんだ」

 ブギーの羽音が薄暗い家の中にブンブン響きわたる。何なんだ、この重たい空気は。

「お前、もう人間として暮らしていけねえじゃねえか」

 ――どうすればいいんだろう。

「ばあちゃんは分かんねえと言ったろう」

 山姥は顔中をぎゅっとしぼめて、しわだらけのいかつい顔でぼくを睨む。ぼくの将来は真っ暗だ。ぼくはがっくりと落ち込んだ。

「それよりお前」

 山姥の顔がまた険しくなった。

「何でもいいから出ていきやがれ」

 ――ええっ?

「門限破って、酒飲んで、こんなわけの分からねえことになったガキなんか、うちには置いておけねえよ」

 ――おばあさん。

「もうおばあさんと呼ぶな。お前は、その体を当たり前に戻すまで帰ってくるんじゃねえ」

 ――そんな。

「出てけ。そのみつばちと一緒に出ていけ!」

 おばあさんは筋を取り終ったふきをひっつかんで、ぼくらに投げつける。

 ふきがばらばらと床に散る。

 ――助けてよ、おばあさん。

「ばあちゃんにはどうしようもねえんだよ! お前が自分でどうにかしなきゃあどうにもなんねえだろう!」

 足をどん、と踏み鳴らして、山姥が怒鳴る。ブギーがいきなり勢いよく窓に向かって飛び始めた。ぼくはガクンと後ろに倒れこみそうになった。

「もうどうしようもねえよ。女王様の所にいったん戻ろうぜ!」

 ブギーが叫ぶ。ぼくは何か考える暇もなく、ブギーと共に真っ暗な外に飛び出した。後ろを振り返る。山姥は鬼の形相でぼくらを見送っていた。ぼくと山姥の上には、ぼくが生きてきた中でも最重量の空気がのしかかってきている。何なんだこれは。

 ああ、ぼくはどうすればいいんだ。


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