れんげの森
春が好き。ぼくはつつましやかで可愛らしい、れんげの花が咲く春が好き。
ぼくは、草っ原を歩いて一面のれんげの森を抜ける。ここではぼくは巨人だ。ピンク色の小さなれんげの花を踏み潰さないように、そうっと歩く。
みつばちは身体中を光に暖められながらブンブンと飛ぶ。陽気なタンポポや気取ったヒメジョオン、くす玉みたいなおっとりのシロツメグサにブンブンと集まる。
れんげの花は一番人気だ。とまったみつばちは可愛い花びらを慈しむように優しく開き、蜜を少し飲む。
ぼくもれんげの蜜が飲みたいな。コップにたっぷりと注ぎ、ぐいっと飲み干したい。ぼくはコハク色の、強い甘い香りを放つ、れんげの蜜の味を想像した。舌を浸して、喉を通り抜けて。何て、優しい味なんだろう。
そう考えたとき、みつばちがブーンとぼくの目の前を飛んで行った。目で追いながら振り向くと、れんげ畑の向こうへと飛びたっていった。
みつばちは羨ましいな。れんげの蜜ばかり飲むことが出来る。ぼくはれんげに微笑みかけながら、れんげの森を抜け、本当の森に入った。
若い葉を繁らせた木々が、ぼくの顔に隙間だらけの陰を落とす。ここでは日の光も恥ずかしそうに、地面の上に控え目な足跡を残す。
木がぼくのために道を開けてくれているような気がする。長く曲がりくねった道は、ぼくが歩くのに十分な広さだ。
ぼくの家はこの先にある。ぼくは変わり者のおばあさんと二人で暮らしている。
れんげの森にそそぐ、柔らかい日射しが好きだ。でも、この森を抜けるときの、冷たい風も好きだ。ぼくは獣道のように細い、踏み固められた道を歩く。緑に葉を透き通らせた広葉樹がささやきかける。
「今日はとてもいい天気」
――うん、そうだね。
「みつばちもご機嫌だ」
――そうだろうね。
「今日はきっと、れんげのみつに酔ったみつばちが何かやらかすぞ」
――えっ、それはどういうこと?
それきり、広葉樹は黙ってしまった。さわさわと、楽しそうに葉を揺らしている。見渡すと、周りの木は皆さわさわと笑っている。一体何が起こるというんだろう。ぼくは少しもやもやしながら石のように固い地面を汚れたスニーカーで踏みしめる。ぼくのスニーカーはどれもボロボロだ。だっていつもこの植物たちが息づく森を歩いているから。
急に道が広くなった。四角く真っ直ぐにうねを作る広い畑が見えてきた。
「じゃあね」
広葉樹は歩くぼくの背中にそう言った。
森を抜けると、ぼくが住む一軒家がある。おんぼろのあばら屋だ。あちこちが軋むししょっちゅう雨漏りする。屋根瓦もほとんど欠けている。
でもぼくは好きだよ。山姥が出そうな家だけどね。
さて、そこに山姥がやってきた。凶器を持って、家の横の畑から出てきた。
「帰ったか」
――うん、ただいま。
ぼくはにっこりと挨拶をした。山ん婆はじろりとぼくを見る。
「学校ではちゃんと先生の言うことを聞いただろうな」
――うーん、れんげの花のことを考えていたら、先生が言ってることが耳に入らなかったよ。それで。
「馬鹿野郎!」
山姥が草刈り鎌を振り回して怒った。僕はランドセルをその場にほっぽって、回れ右をした。そのまま道を逆戻りに走る。
危ない危ない。
脇道にそれて、森の、本当の獣道に入り込む。山姥の怒鳴り声は背中に響いている。
「逃げるな! 戻ってこい! ばあちゃんの言うことが聞けんのか!」
知るもんか。ぼくはがさごそ木をたぐり、草を踏んで森の奥へ奥へと急ぐ。草はぼくの足のすねをくすぐり、辺りの広葉樹はくすくす笑う。
「また逃げたのかい」
――そうさ。
ぼくは年よりのカシワの木に手をかけて、道ならぬ道のどんづまりを越えた。この先にはまだ道がある。
「気を付けないと、いけないよ」
――分かってるさ。
広葉樹達の面白がるようなおせっかいな声が増えるにつれて、道のりはどんどん厄介になっていく。
そうやってしばらく歩くと、甘い香りがし始めた。これは、多分れんげの蜜の香り。
「おや、気付いたかい」
広葉樹は楽しそうに言う。
――うん。あれは何なの。
「ふふふ。行ってみなよ。本当にすてきだよ」
ぼくは嬉しくなって、香りの源へと走った。後ろから「気を付けてね」という広葉樹の声がした。
みつばちの巣かもな。僕はみつばちの巣も好きなんだ。甘い甘いはちみつと、黄色く可愛いらしいみつばちの群。とても楽しそうで、陽気に見えるんだ。まだみつばちと言葉を交したことはないのだけど。だっていつも忙しそうだから。
次第に匂いが近くなってきた。巣はあるだろうか。あるといいな。
でも、その期待は正しかったし、間違いでもあった。何故だか分かる? すぐに分かるよ。
ぼくは広い草原に出た。れんげの花咲き乱れる草原だ。驚いた。こんな広い草っ原、初めて見た。シロツメクサとれんげが混ざりあって、緑色のじゅうたんの上に、とても美しい白とピンクの模様を作っている。
でも、もっともっとびっくりするようなものがあったんだ。
ぼくは、みつばちの巣があるんだなと思ってただろう?
そう、みつばちの巣はあったんだ。
でも、それは間違いだとも言っただろう?
ぼくは当たり前のみつばちの巣のことを言ってたんだ。だから間違い。
なんと、そこにあったのは、巨大なみつばちの巣だったんだ。高さはぼくの二倍はある。ぼくは呆気にとられて巨大みつばちの巣を眺めた。驚くべきは巨大だってことだけじゃない。そのみつばちの巣は変なところだらけだったんだ。
だって、丸いんだ。普通みつばちの巣は、半球体で、蜜のつまった六角形の穴が見えるもんだろう? それが無いんだ。全部塞がれている。
それに、窓があるんだ。円い小さな窓がぽつぽつと、直線を描いている。
おまけにスクリューまである。大きなスクリューが側面に一つ、巣の下側にもいくつか小さいのが見える。
ぼくは首をひねった。変なものを見付けちゃったなあ。何だか、嫌な予感がする。
その時、ふいに後ろから陽気なブンブン声が聞こえた。
「お主、我々の出航を見に来てくれたのかね」
振り向くと、一匹のみつばちがぼくの真ん前を飛んでいた。
――いいえ、ぼくは、偶然迷いこんでしまったのです。
言っていることは分からないけれど、ぼくは出来るだけ礼儀正しく話した。山姥に厳しくしつけられているのだ。
みつばちは機嫌よく笑い、話を続けた。
「そうかね。まあ構わない。一緒にはちみつ酒を飲もうじゃないか」
わけがわからなくてぼんやりしているぼくをよそに、みつばちがブーンと巣に向かって怒鳴った。
「はちみつ酒いっちょう!」
「ハーイ!」
巨大な巣の上の辺りに小さな六角形の穴がカポンと空いて、中から黄色と黒が薄い、ひときわ小さなみつばちが出てきた。手には小さなマグカップ。
「こんにちは、人間のお客様。私は新米みつばちのブーンと申します。ささ、一杯」
――ありがとう。
ぼくは小指の爪より小さなマグカップを受け取った。
ニコニコ笑う二人の前で、口を開いて小さなカップを引っくり返した。一滴、甘い水が落ちた。
――ごちそうさま。
「あら? もう飲んでしまったの?」
ブーンは困り顔だ。
――ごめんなさい。
ぼくは何となく申し訳なくて謝った。最初のみつばちが手を軽く振る。
「いいんだ、いいんだ。人間のお客様は大きいからな。おい、あれを持ってこい」
最初のみつばちがまた怒鳴った。
「あっ、あれですね」
小さなブーンは頷くと、すぐに巣に戻っていった。少しすると、今度は少し重そうな瓶を抱えて来た。
「ささ、これを飲んで。そしたらはちみつ酒を飲めますよ」
小指サイズの瓶が指の間に挟められた。それをまじまじと見つめる。なんだろう? 白い液体がタプタプ動いている。
「ささ、一気にお飲みなさい」
ブーンがうながす。年寄りみつばちもうんうんと頷いている。
――それでは、いただきます。
ぼくは、瓶の栓を爪でスポンと抜き、逆さまにして一気に飲んだ。ドロッとしたものが舌に落ちた。何だか、すごく苦い。液体はぼくの舌の上を滑り、喉を滑り、とうとうお腹のなかに収まった。ぼくはふうっと息をついた。あんまりおいしくはない。
次の瞬間、変なことが起こり始めた。
周りがどんどん大きくなっていく。木が東京タワーみたいになって、草が木になる。みつばちの巣はまるきり山だ。
――何だ何だ?
ぼくは、ぱちくりと瞬きをして、辺りを見回した。
「さあどうぞ。はちみつ酒を飲みなさい」
目の前には普通サイズのマグカップ。ぼくはブーンからそれを素直に受けとり、飲み干した。
うーん、喉が熱くなって、頭がぼんやりして……、これはまずいぞ。ぼくは未成年なのにお酒を飲んでもいいのかな。
でも、おいしい。
「おいしいでしょう」
ぼくは、目の前の巨大ブーンにニコニコと頷いた。
「はちみつ酒は最高だ」
巨大年寄りみつばちが叫んだ。ぼくは酔っぱらって、ぐびぐびはちみつ酒を飲んだ。
――おかわりが欲しいな。
「それなら、我々と共にみつばち潜水艦の中に行きましょう。
中では出航記念パーティが催されていますよ」
ブーンが超特大のみつばちの巣を指差した。ぼくはまた頷いた。ご機嫌な二匹のみつばちはすぐさまぼくの両手をつかんで持ち上げる。空気を踏みしめながらほくはみつばち潜水艦の六角形の入り口に飛んで行く。
穴からはひどいブンブン声が聞こえる。
――楽しそうだね。
ぼくはブーンを振り返った。ブーンはうんうんと首を振った。
「そうですね。実は今日やっとはちみつの積み荷が揃ったんですよ。今までの苦労を思うと、喜ばずにはいられません」
――そうなの。おめでとう。
「ありがとう。では、みつばちパーティにいってらっしゃい! 私はボーイをしていますから、すぐに呼んで下さいね」
――うん、ありがとう。
「わしもパーティに戻ろう。一人酒は寂しい」
年寄りみつばちが言った。そして勢いをつけると、二匹はせーの、と僕を六角形の穴に放り込んだ。