1.公爵子息は買われました。
「マーティン・ディーヴィス。おまえを、公爵家から勘当する」
父の口からその言葉が飛び出したのは、公爵家で開かれた夜会でのことだった。
多くの人で賑わう大広間に、その声はよく響いた。
目の前にいるのは、険しい顔をした父親――ディーヴィス公爵。
向けられた眼差しには憐憫も、または軽蔑する感情もない。
ただ静かに、目の前にいる愚かな息子を見つめているのみ。
「な、なぜですか、父上」
「それはおまえがよくわかっているだろう。公爵家の面汚しが」
父の手には借用書が握られている。そこには、身に覚えのないマーティンのサインまであった。
マーティンは悟ってしまった。
公爵家の次男が、毎夜違法賭博場に出入りしているという噂だけでも貴族にとっては不名誉なことだ。その上、莫大な借金を抱えているとなると、その噂が真実だと思われてしまう。
だから、自分はとうとう父親から捨てられてしまうのだ。
絶望するが、仕方ないとも思う。
愚かなのは自分だった。
「わかったなら早く出て行くがいい」
俯きながらも、父から言われるがまま、マーティンは大広間を出て行こうとした。
その時だった。
夜会の会場に、静かだが張りのある声が響いたのは。
「いらないのであれば、私がその人を買ってあげるわ」
その言葉を発したのは、濡羽色の髪を結うことなく背中にたらしている、美しい令嬢だった。
どこかきつく見える眼差しをしているが、その瞳はしっかりと目の前に立つ人物を見据えている。
令嬢は黒髪に映える赤いドレスを着ている。
本来、赤一色のドレスを着る人はいない。赤はどちらかというと差し色に使われるのが一般的で、赤一色のドレスは派手すぎて落ち着いた礼節を重んじる貴族社会では忌避されている色だ。
それでも、彼女はその赤い派手なドレスを不思議と着こなしていた。
まるで彼女のために存在しているかのようでもある。
妖艶な姿に眉を顰めていた貴族たちも、彼女の堂々とした佇まいに思わず嘆息を洩らす。
マーティンもその一人だった。
自分に向けられる紫の瞳とその佇まいの美しさに魅入られて、つい息をするのも忘れてしまっていた。
ずいっと、目の前に紫が近づいてくる。
「あなたはどう思うの? マーティン・ディーヴィス」
まるで宝石のアメジストのような……いや、違う。宝石なんかではない。
彼女の瞳を表すのに何よりも相応しいのは、厳かに咲き、圧倒的な存在感を誇る、紫の胡蝶蘭。
うっとりと魅せられたマーティンは、口を開くこともままならなかった。
「私が、あなたを買ってあげると言っているのよ」
そして、彼女は唖然とする周囲の視線をものともせずに、手を差し出してきた。
「私のもとにいらっしゃい、マーティン・ディーヴィス」
その暗闇でも輝くように咲く紫の胡蝶蘭に魅せられ、優しい声に誘われるように、マーティンはその手を取っていた。
成金令嬢と呼ばれる伯爵――ヴァネッサ・スパングルの手を。
◇
王国で人身売買は違法だ。
だから、実際に人を買うことはできない。貴族だろうが、厳しく取り締まられることになる。
公の場での発言は取り消せないが、ヴァネッサは何も本当にマーティンをお金で買ったわけではない。
ヴァネッサが講じた手は、愚かにもマーティンがこしらえてしまった借金を代わりに返済したことだった。
ディーヴィス公爵家の次男として生まれたマーティンは、常に心に決めていたことがある。
他人に優しく。傷ついている人や困っている人がいたら寄り添い、力になってあげる。
それは亡くなった母の影響もあるが、マーティンの中で消すことのできない信条でもある。
その信条を胸に、マーティンは常に他人のために自分のできる手を使ってきた。
怪我をしている人がいれば汚れることを厭わないで膝を地面につけたこともある。公爵子息がと後ろ指をさされたこともあるが、マーティンはたいして気にしなかった。
それを、すごいと褒めてくれた友人もいた。
友人はマーティンの行動を父や兄のように咎めることなく、他人の手助けをする姿を常に称賛してくれた。
マーティンにとって、友人は生涯の友で、彼もそう思っているのだと信じていた。
そんな友人から「お金を貸してほしい」と言われたのは、いまから何年前のことだっただろうか。
どうしても困っていることがあって貸してほしいとお願いされて、マーティンは自分の自由にできるお金を貸してあげた。
それが、一年に数回あったが、たいして大きい金額でもなく、頻度もたいして多くはなかったのでマーティンは気にしていなかった。
他人に優しくするのは当たり前だ。頼りにしてくれる友人に手を貸すのも。
マーティンは、自分の自由にできるお金でよく寄付をした。主に救貧院や孤児院などだったが、そんな姿を父や兄は面白くないと思っていたのも知っている。
貴族の子息としてもっとしっかりとしなさいと父からは怒られ、兄からは情けない弟という態度を向けられていた。
貴族の寄付は珍しいことではないけれど、マーティンのそれはいささかやりすぎだった。
家族には友人にお金を貸していることを言ったことはなかった。
その友人から、貸したお金が返ってきたことも、一度もない。
もともと返してもらうために貸したお金ではなかったためマーティンは気にしていなかったが、友人からはいつもすぐ返すと言われていたので、そのたびに苦笑を洩らしたものだ。
だが、友人はある日突然、莫大な借金をマーティンに押し付けるようにして交友を絶ってしまった。
その借金はマーティンの名義が勝手に使われていて、なおかつマーティンが賭博場で毎夜遊び呆けていたという不名誉な噂まで上乗せされて、社交界を騒がせた。
それが父である公爵の耳に届いてしまい、噂を鎮めるために公爵家はマーティンを切り捨てることを選んだのだった。
まさか公爵家主催の夜会で勘当を言い渡されることになるとは、思いもしなかったけれど。
しかもその上、ヴァネッサ・スパングルにこの身を売られるなんて、全く想像もできなかったのだけれど。
夜会でヴァネッサが口にした衝撃的な言葉に、公爵はすぐ頷かなかった。
だけど後日、公爵と伯爵との話し合いにより、マーティンの身は名実ともに伯爵家に引き取られることになる。
ヴァネッサ・スパングルの婚約者として。




