旦那は不要です。息子の描いた絵がすべての答えでした
朝食を作る間だけが旦那と話せるタイミングだった。
私は、一度ゴクリと喉を鳴らし。
子どもの事を話題にした。
「あのね、昨日あの子が喧嘩して帰ってきて……。もしかしたらなにかトラブルでも……」
「本人に聞いたのか?」
ポケットから取り出した懐中時計をチラリと確認する。
パチリと蓋を閉じる音。
「何も言ってくれないのよ」
「じゃあ、解決しようがないな」
「あなたからも聞いてみてあげてくれない?」
「最近は、新人の教育で忙しいんだ。そういう事は友人に聞いたらどうだ?」
また、時計を確認する旦那。
彼が早く話題を切り上げたがっている。
それがプレッシャーになり、声が小さく窄んでいく。
「そうね……。でも、あの子――」
「俺にはどうしようもできないな。とにかく今は様子をみるしかないんじゃないか?」
「……ええ」
ガタリ、と音を立てて立ち上がった。
その姿は、毎日見る旦那と全く同じだった。
――今の会話に何か意味があったんだろうか。
「じゃあ、仕事に行ってくる」
「ええ。いってらっしゃい」
◇◇◇
――息子視点。
近所の友達がお父さんに肩車してもらっていた。楽しそうだった。
最後に、お父さんの笑顔を見たのはいつだっけ……。
教会の学校で、みんなで絵を描いた。
――家族の絵を描きましょう。先生が言った。
僕は。
お父さんの隣に、どうしても自分を描きたくなかった。
僕が家へ帰る途中、いつも絡んでくる奴が話しかけてきた。
「うちの母ちゃんが言ってたけど、お前の父ちゃん、よそに『あいじん』ってやつがいるんじゃないかって」
それって、あれだろう?
僕たちが捨てられたって言いたいんだ。
「……なんだよ、それ。そんなことない」
「でも、相手にされてないって言って――」
「そんなことない!!」
許せない言葉に、反射的に体が動いた。
周りに止められても、暴れた。
そいつの家に、お母さんと挨拶に行った。
正直、謝りたくなかった。
でも、お母さんが傷つくと思って原因は言えない。
何度理由を聞かれても、答えられなかった。
でも、お母さんに謝らせてしまったことに胸がギュッと痛くなった。
◇◇◇
息子は声を詰まらせて泣いていた。
そんなあの子に、それ以上問い詰められなくて。
私は、また旦那に話を振った。
答えが欲しかったわけじゃない。
同じ悩みを共有したかっただけだ。
「またあの子、近所の子と喧嘩したみたいで……」
「頼むから。これ以上俺を煩わせないでくれ。疲れているんだ」
――ああ。あなたにとっては。
私たちは、ただの厄介な問題なのね。
「子ども同士の喧嘩だろう。気にする必要もない」
旦那には、言葉が通じない。
決定的に、何かが間違っている気がした。
◇◇◇
買い物をしている途中。
息子の同級生が話しかけてきた。
エプロンドレスが可愛らしい女の子だ。
「あのね、この前の喧嘩……」
目撃していた近所の子が教えてくれる事実に、私は涙を堪えることが出来なかった。
幼い子の前で泣いては駄目だ。
「教えてくれてありがとう」
でも。声の震えも、潤んだ瞳も。
誤魔化せていない気がした。
◇◇◇
「おかえりなさい」
「ああ」
「食事はいつもの所にあります。お邪魔しないので、一人でどうぞ」
上着を脱いでいる、旦那に声をかけた。
「あの子ね、教会で家族の絵を描いたのよ。どんな絵か見てみない?」
「たかが子どもの絵だろう?」
「ええ。だから……本物なのよ」
「子どもが描いた落書きだろう。見る意味がわからないな」
――これで答えが出た。
そして、私は静かに目を閉じた。
◇◇◇
トランクに二人分の荷物を詰めて、息子に話しかけた。
荷物は最小限だ。
「おじいちゃんの家に行こうか」
「なんで?」
息子が首を傾げる。
まだ、幼い息子のあどけない様子に自然と手が伸びる。
「大きな海があってね。見せてあげたくなったからかな?」
頭を撫でながら、自分が育った街の話を沢山してあげた。
その話を、嬉しそうに聞いてくれる息子。
大丈夫。
何があっても、この瞳の輝きを守ってみせる。
その日は、息子が寝てしまうまで二人で沢山の話をした。
◇◇◇
「うわぁ!本当だ!すごいすごい!」
初めて見た海に感動して、乗合馬車で身を乗り出して声をあげる。
周りの乗客は笑って許してくれた。
そう。この空気だった。
時計なんて一人も見ていない。
下らない世間話を延々としている女性。
いびきをかいて人前で寝ている男性。
私が育った風景だった。
「お母さん、海には入れるの!?」
「危ないからなぁ。おじいちゃんに聞いてみようか?」
「うん!」
満面の笑みで笑う息子。
本当に久しぶりに見た気がした。
「うん。キラキラしててお母さんも嬉しくなっちゃったな」
「そうだね!こんなに綺麗だなんて知らなかった!」
「お母さんも、忘れちゃってたな〜」
◇◇◇
カチャリ。
時計を確認する。
いつも通りの時間だった。
この時間なら、妻が食事の用意をしてくれているはずだ。
しかし――。
家の中は、明かり一つ付いていない。
そして、耳が痛いほどの静寂が支配していた。
◇◇◇
乗合馬車を降りたら、父がベンチに座って待っているのが見えた。
昔から不器用な人だった。
こちらから家に出向くと連絡していたのに。
「久しぶり。元気そうでよかったわ。いきなりごめんね」
「嫁に行ったって俺の娘だ。遠慮するな」
驚いたのか、息子は、私の服の影から少しだけ顔を出している。
「……おじいちゃん?」
その声には、少しだけ警戒心が滲んでいた。
「あぁ、だいぶ大きくなったなぁ!」
父は、息子を抱き上げて笑った。
その笑顔に安心したのか、息子はすぐに心を開いたようだ。
「ねぇねぇ!僕、先に海の方に行ってもいい?近くで見たいんだ」
「ああ。ただ、見える範囲にいる事。約束を守れないやつは――」
父が拳を握り、振り下ろす仕草をする。
「大丈夫、僕は約束守るよ!行ってくる!」
海の方へ元気よく走り出す。
あっという間だった。
「あの、お父さん――」
私は説明しようと、父を見あげたが、既にこちらを見ていなかった。
そのかわりに、ぽんぽんと頭を撫でられた。
大きな手で、力強く。
そのまま、父は息子を追いかけていった。
最後まで私を見なかった。
でも。
それで良かった。
それが、優しさだったから。
私の涙に気づかないふりをしてくれる、最大限の思いやりだったから――。
「お母さん、みてみて!これね、おじいちゃん!肩車してくれた時のやつ!すごいでしょ?物凄く大きくなったように感じたんだよ!」
息子がクレヨンを、握って私に説明しながら絵を描いてくれる。
その隣に、新たな人物が描かれていく。
「それでね、これがお母さん!最近はいつも笑顔でしょう?だから、こう!……あ!海も描かないと!」
「うん。素敵な絵だね」
私は、海を描き加えている息子に微笑みかけた。
その絵は、とても鮮やかな色で、伸びやかに描かれていた。




