静かな線引き
変化は、音を立てて起きるものではなかった。
朝の談話室。
いつもなら、リリアの周囲は自然と空白ができる。
誰も近寄らず、誰とも目を合わせない。
だがこの日、その距離が、わずかに変わっていた。
(……近い)
隣の席に座る候補者が、いつもより半歩近い。
話しかけてはこない。
ただ、意識しているのが分かる。
線が引き直されている。
講義は、外交史。
過去の条約失敗例をもとに、なぜ破綻したかを分析する内容だった。
発言を求められ、数人が順に答える。
「相手国を軽視したためです」
「軍事力を背景にした強圧的交渉が原因です」
どれも正しい。
模範解答だ。
リリアは、今日もすぐには手を挙げなかった。
老女官の視線が一巡し、最後にこちらを向く。
「あなたは?」
逃げ道は、もうない。
「破綻した原因は、条約そのものより、
履行後の監視体制がなかった点だと思います」
室内が、静かになる。
「約束は結ぶだけでは意味がありません。
守らせる仕組みがなければ、時間の問題です」
「王妃が、そこまで関与すべきと?」
別の候補者が、刺すように言った。
「王妃でなくても」
リリアは、穏やかに返した。
「誰かが気づくべきだった。
それだけの話です」
老女官は、何も言わず、書き留めた。
それだけで十分だった。
昼食後。
回廊を歩いていると、背後から声がかかる。
「リリア・エルノア」
振り返ると、同じ講義班の候補者、セレナだった。
常に上位評価を維持している、有力候補の一人。
「少し、話せる?」
「……構いません」
二人は、人の少ない小庭に移動した。
「あなた、わざとやってる?」
単刀直入だった。
「何を、ですか」
「目立たない位置で、正論だけ言うところ」
リリアは、少し考えた。
「そう見えますか」
「ええ。正直」
セレナは、ため息をついた。
「敵に回すには厄介。
味方にするには、掴みどころがない」
「……評価、上げたいわけじゃないんです」
「知ってる」
即答だった。
「だから余計に厄介なの」
セレナは、苦笑した。
「王妃になりたい人間は、分かりやすい。
でもあなたは、違う」
沈黙が落ちる。
「忠告よ」
セレナは、声を落とした。
「中途半端な位置は、踏まれる」
「最下位も、踏まれます」
「ええ。でも」
彼女は、真っ直ぐ見た。
「あなたは、もう最下位じゃない」
それは、宣告に近かった。
その日の夕方、共同課題の組み分けが発表される。
今度は、露骨だった。
リリアは、中位から下位の候補と組まされていた。
上位陣は、別の組。
(分断か)
試しでもあり、隔離でもある。
作業は、予想通り難航した。
意見は散らばり、結論が出ない。
「もう、適当にまとめません?」
「減点されなきゃいいでしょ」
その言葉に、リリアは首を横に振った。
「それだと、全員が減点されます」
「じゃあどうすればいいのよ」
「役割を分けましょう」
静かに、淡々と。
誰が主導するかではない。
誰が何をするかを決める。
結果、報告書は及第点だった。
突出しない。
だが、破綻もない。
評価表には、こう記された。
「安定」
「調整役として有効」
(調整、ね)
十三番目。
また、この言葉に戻ってくる。
夜、自室で灯りを落とし、リリアは天井を見つめた。
誰かの味方になるつもりはない。
誰かの敵になる気もない。
けれど。
(線は、向こうが引く)
無害ではないと示した以上、
相手は、分類を始める。
使えるか。
危険か。
切れるか。
そのどれにも、簡単には当てはまらない位置。
それが、今のリリアだった。
王妃になる気は、やはりない。
けれど、
王妃候補の盤上から、静かに外される気もなかった。
線は引かれた。
そして彼女は、その線の上に立っている。




