無害でない女
翌朝、リリアはいつもより早く目を覚ました。
まだ空は薄暗く、王宮の回廊には足音も少ない。
身支度を整えながら、昨夜の言葉を反芻していた。
無害ではないと示せ。
(害になる、とは違う)
誰かを蹴落とす必要はない。
目立つ必要もない。
ただ、「切っても問題ない存在」から外れればいい。
講義室に入ると、候補者たちはすでに数人集まっていた。
昨日までと変わらない視線。
興味と警戒が混じった、遠巻きの空気。
リリアは、あえて後方の席を選ばなかった。
中央よりやや前。
目立たないが、見えない位置でもない。
(ここ)
今日の講義は、王妃候補による模擬諮問。
架空の地方領主からの訴えに対し、どう裁定を下すか。
「今回は、発言を記録します」
老女官の言葉に、場がざわついた。
記録。
それは評価に直結する。
候補者たちは、競うように手を挙げた。
「財政再建を優先すべきです」
「感情論を排し、法に基づく判断を」
模範的な意見が並ぶ。
リリアは、手を挙げなかった。
(今は、まだ)
議論が一巡し、老女官が問いかける。
「他に意見は?」
沈黙。
その瞬間、リリアは手を挙げた。
「……発言、よろしいでしょうか」
視線が集まる。
ざわめきが、ほんの一瞬止まった。
「どうぞ」
「私は、判断を保留するべきだと思います」
空気が、微妙に変わる。
「理由は?」
「情報が足りません。
領主側の訴えしか提示されていない。
現地の民の声、過去の経緯、第三者の記録が欠けています」
誰かが、鼻で笑った。
「それでは、何も決められないでしょう」
「はい。だからこそ」
リリアは、視線を逸らさずに続けた。
「今ここで決めるべきではないと思います」
講義室が、静まり返る。
「王妃は、迅速な判断が求められます」
老女官の声は、試すようだった。
「迅速と、拙速は違います」
一瞬、老女官の目が細くなった。
「判断を遅らせることは、責任逃れでは?」
「違います」
リリアは、はっきり言った。
「不十分な情報で下した判断の責任を、
後から取る方が、無責任です」
沈黙が、数秒続いた。
老女官は、ゆっくりと頷いた。
「……記録します」
それだけだった。
講義後、談話室の空気は、昨日までと微妙に違っていた。
話しかけてくる者はいない。
だが、無視もされていない。
視線が、探るものに変わっている。
(これでいい)
昼過ぎ、イーサが声をかけてきた。
「今日の発言」
「まずかったですか」
「いいえ。むしろ」
彼は、小さく息を吐いた。
「覚えられました」
それは、警告でもあった。
「無害ではなくなった、ということです」
「それで十分です」
リリアは、淡く笑った。
夕方、別の課題が出された。
複数候補による共同報告書の作成。
組み分けが発表される。
リリアの名前が呼ばれたとき、
周囲に小さなどよめきが起きた。
組には、上位評価の候補が二人含まれていた。
(意図的だ)
試されている。
報告書作成中、リリアは主導しなかった。
だが、流れが滞ると、静かに指摘した。
「その表現だと、責任の所在が曖昧になります」
「数字、ここ合ってますか」
淡々と。
感情を乗せず。
結果、報告書は高評価だった。
名指しの称賛はない。
だが、最後に老女官が言った。
「今回の構成は、安定していました」
夜、自室に戻ったリリアは、椅子に座り込んだ。
(疲れた……)
だが、不思議と心は軽かった。
評価を上げたいわけじゃない。
目立ちたいわけでもない。
ただ。
(簡単に切れない存在になる)
それだけ。
王妃になる気は、今もさらさらない。
けれど、
王妃候補として“扱われない存在”でいるつもりもない。
無害でない女。
それが、第3章の始まりだった。




