仕返しは済んでいるようです。
クリスティアーナは深刻な顔をする二人を目の前にしてとても嫌な空気を感じ取った。
婚約者であるエラルドとその父親であるバルディー伯爵、彼らは二人して、深刻そうな顔をしてクリスティアーナにどちらが話を切り出すかと目線だけで会話をしている。
言いづらい事があるのだろうということはすぐに察せられる。
しかし、クリスティアーナにはもう結婚を目前にした今の時期で彼らが何か深刻な問題を抱えていたとしても、今更、身の振り方を変えることはできない。
だからこそ、難しい問題なら、きちんと共有してほしい。
もちろん、婚約する前に言って欲しかったが、そんなことを言っても後の祭りだ。
「折り入っての相談というのは、どういった物でしょうか。話しづらい内容なのかもしれませんがそう深刻な顔をして沈黙されると私も不安な気持ちになります」
「……」
「……」
「私もこのバルディー伯爵家を支えていく人間、その立場を信用して話をしてはくださいませんか」
促すように彼らに言うと、やはりバツが悪そうに二人は視線を交わす。
このバルディー伯爵家はいろいろとほかの領地に比べて、優遇されることの多いとてもよい領地だ。
社交界での立場も安定している、クリスティアーナは誰から見てもよい旦那を捕まえたと言われるだろうし、実際に彼らの羽振りもいい。
しかし、その分、特殊な事情がある。クリスティアーナのような常人には理解できない事象が起こったりする可能性だって十二分にある。なればこそ知っていくしかない。
真剣に見つめていると、彼らはやっと目線だけで話をするのをやめて、婚約者のエラルドの方が苦し気にクリスティアーナに言った。
「……ありがとうクリスティアーナ、君がそういってくれたことで決心がついたよ。……実は、どうやら精霊……カルロッタ様を怒らせてしまったようでね」
「……カルロッタ様ですか」
「ああ、そうだ。かの精霊様は我々がこの土地の……バルディー伯爵家の森を守ることを条件に、我々に神の力をつかさどる神力を扱える子供を与えてくださった」
エラルドが話し出すと補足のようにバルディー伯爵が付け加えて、本当に精霊に関する事象だったのかとクリスティアーナは少し驚いた。
この領地がほかの領地と違って特別視されているのは精霊の祝福を受けているからだ。精霊を祀ることによって、直系の血筋に必ず一人、神力を宿す子供を授けてくださる。
今の世代では、それはエラルドの弟であるエミリオという少年だ。
彼は立派に仕事をこなしていて、バルディー伯爵家の役に立ってくれている。
そんな彼が健康で元気に過ごしているからこそ、精霊の祝福は正常に機能していると周りの貴族もクリスティアーナも思っていたが、祝福を与えてくださっている精霊カルロッタと問題が起こっているらしい。
……それに祝福といっても、バルディー伯爵家の祝福は条件付きの祝福、それが打ち切られたら、たちまちこの家は立ち行かなくなるでしょうし、とても難しい問題です。
「偉大な精霊様の祝福を損なわないように私たちバルディー伯爵家も大いに努力してきた。しかし、ああ……ただほんの少し彼らの住む森を犯しただけで、神力を宿した子供を返せとまで言ってきおった」
「俺たちは、森の整備を行おうとしただけだったんだよ。クリスティアーナ決して精霊様に害をなそうとなどしていないし、条件をたがえてなんかいないはずなのに……」
二人とも思い悩んでいる様子で、クリスティアーナは少し納得する。
精霊と人間とは違ったことわりで生きている、生物でもない自然現象のような存在だ。
そんな彼らとやり取りをするとなると多少の行き違いや人間の常識とは違った考えにすれ違いが生まれることだってあるだろう。
……だからもちろん、この二人の言い分は正しいものだと思います。それに婚約者がいうのですから信じないわけにもいきません。
すれ違いが起こりえると理解しているし、何の違和感もない、それはわかっている。
「……」
しかし、クリスティアーナは少しだけ、引っかかりを感じて見極めるために黙り込んだ。
「それなのにたった一度、条件を破っただけで神力を宿したエミリオを返せなど、たまったものではない。あれはバルディー伯爵家の要だ。それに精霊の元に人間を送るなど何をされるかわかったものではない!」
「そうだ。エミリオは繊細で、まだ幼い。カルロッタ様は条件が満たされていると確認が出来ればエミリオを返すといったけれどその間に何が起こるか……」
引っかかると思った気持ちは少し大きくなり、彼らが苦し気に言っている言葉が本物かという疑念が生まれる。
もちろん信頼していないわけではない、嫁に入る自分が彼らを疑ってばかりでは彼らだって気も休まらないし、嫌な気持ちになるだろう。
だからこそ、信頼関係を築けるように努力してきた。
しかしその結果、クリスティアーナが知っている事実は彼らはエミリオに少々……いや、大分無理をさせているという事実だ。
「君だって、このバルディー伯爵家からエミリオの力が消えたらどうなるかわかるよな。クリスティアーナそれに、君は、あれと仲もいい」
「……もちろん、そんな理不尽に子供を巻き込むべきではないと思います」
「ああ! そうだろう。そうだろうとも。よく言ってくれたクリスティアーナ」
クリスティアーナの言葉に、バルディー伯爵は食いつくようにそういって、あまりきれいではない笑みを浮かべた。
そう見えるのは、その笑みにこもっている感情が美しいものではないからだろうか。
……エミリオはもちろんバルディー伯爵家に必要です。ただ同時に、守るべき存在でもあるはずです。
神力を宿した子供を産んだ母親は、早くに亡くなる。必然的に彼は母の愛も守られることも知らずに育った。そんな彼をエラルドと共に守り支えて、父と母のように、家族仲良く土地を守っていくそう思っていました。
しかし現実は、そう綺麗な事ばかりではない。
神力を宿しているせいで、髪の色が妖精のように透き通った銀髪をして、神秘的な容姿をしている彼を家族であるエラルドとバルディー伯爵は、守るべきものとして認識していない。
「幸い、精霊は人間の細かな区別などつかない。魔力の宿った似た背格好の子供ならば、エミリオだと思い込んで自らの懐に入れるだろう!」
「頼む、クリスティアーナ、俺たちは必ずカルロッタ様と話をつけて君を迎えに行くことを誓う。だからどうか一時でいい、エミリオの代わりを務めてはくれないか」
……そういう話になるのですか……。
出された結論にクリスティアーナは、なんだか少しそんな気もしていたし、彼らが何かを企んでいるのだろうなということもなんとなく察しがついた。
十中八九、この申し出はクリスティアーナに取ってよい結果をもたらさない。
婚約者のエラルドの事はそれなりに愛しているし信頼している、しかし正式に婚姻する前のこの時期に、こんな申し出をされてあなたの為ならと言ってしまうほど盲目ではないのだ。
「……私は……」
「クリスティアーナ、どうか俺を助けると思って、受け入れてはくれないか」
「……」
「愛している、必ず君を迎えに行くから」
「……」
クリスティアーナの実家であるラフォレーゼ男爵家は女性ばかりが生まれることで有名であり、結婚の持参金を長女から持っていくので、末の妹であるクリスティアーナには財産がない。
実家に戻ってクリスティアーナを養えるだけの貯えもない。
両親はクリスティアーナを守らないだろう。だったらクリスティアーナは自分の身は自分で守らなければならない。
たとえ未来の旦那と、バルディー伯爵という身分ある人からの申し出だとしても、流されてはいけない。
クリスティアーナは精霊カルロッタに会った事すらないのだ。その誤解はどの程度で解けるのか、精霊の元に向かったら何が起こるのか。
彼らはそれをする気があるのか、それを問いかけて険悪になるのだとしても自分の為にはそうすることがベストだろう。
「……そのお話━━━━
窓辺にあるソファーに座って、クリスティアーナとエミリオは手をつないでいた。
午後の温かな陽光が差し込んで背中が少し温かい。
隣にいるエミリオは少し戸惑っている様子で、クリスティアーナの手を両手で握ってじわじわと神力を流している。
普通の人間に宿って流れているものは魔力と言って、魔法を使うためにも生命を維持するためにもとても重要な役割を持っているものだ。
しかしそれが流れていない彼は、平民同様に魔法道具が使えないし、領地の運営にはあまり役に立たない。
その代わり、魔法道具に神力を込めることによって普通の魔法とは比べ物にならない威力の魔法道具を作ることが出来る。
その力を金銭に変えることによってバルディー伯爵家は成り立っている。
だからこそ、この家にはエミリオが必要だと彼らも言ったし、クリスティアーナもそう思う。
「ね、ねぇ、本当に苦しくないの? クリスティアーナ、こんなふうに神力を人間に注ぐなんて聞いたこともないし、やった事だってないんだよ」
「……大丈夫です。エミリオ、もしかしたらこうして続けていれば、私の魔力も神力に置き換わるかもしれないですから、続けてください」
「でも、そんなことになったらクリスティアーナも普通の貴族じゃないって気味悪がられるし何より、それって苦しくないの?」
「……そうなったら私の髪もあなたのような銀髪になるかもしれません、私はその髪が好きです、綺麗な色だと思いますから」
「……」
彼の問いには意図的に答えることをせずに、クリスティアーナは少し的外れなことを言って、普段とは違って優しく笑みを浮かべる。
するとエミリオはとても心配そうな顔をするけれど、引くつもりのないクリスティアーナに観念して神力を強める。
ぐっと体が重くなる感覚に、すぐ隣にいる彼に気がつかれないように細く息を吐きだした。
今話をしたら、声が震えてしまいそうで、口を閉ざして心配そうなエミリオを安心させるために笑みを深める。
「……僕は、クリスティアーナのその髪、好きだよ。綺麗だし、キラキラだし……」
つぶやくように言う彼はなんだか落ち込んでいる様子で、ちらりとクリスティアーナをみる。
「でも、どうしてそんなに短く切っちゃったの? それじゃあまるで男の子みたいだ」
言われて自分の髪に触れてみる。いうほど短いというわけでもない、平民の女の子でこのぐらいの髪の子は普通にいる。
しかし、貴族の令嬢としては品性を疑われるような短さをしていることは確かだろう。
成人後には綺麗に髪結いをして夜会に参加したり、様々な髪型の流行を追うことだって貴族女性には必要なことだ。
これでは、常識知らずのはねっかえりだと思われてもおかしくない。
「……」
「それに最近、午後のお茶会の時もあなたはずぅっとお茶を飲んでいるばかりでお菓子を口にしないし、お父さまたちは僕にほんの少しの外出も許してくれなくなった。……ねぇ、クリスティアーナ、なんか僕に隠しているの?」
……まぁ、その通りですし、いい加減、察するだろうとは思っていました。
しかしもう、準備は整いました。今日をごまかしてしまえばあとは、それなりに日々が過ぎるでしょう。
「それより、エミリオ。あなたに私が言いつけていたこと、きちんと覚えていますか?」
「……覚えてるけど、なんで僕の質問に答えてくれないの?」
声が震えないように、少し声を張って気さくに聞いてみる。
すると彼は、疑問に思いながらもクリスティアーナの言葉にそう返す。
「あなたは本来ならば、母を失う代わりに力を得て、だからこそ他の家族に支えられてしかるべき存在です。体は……もうそれなりに大きくなりましたけど、まだまだ私よりも小さな子供です」
「クリスティアーナって話逸らすの下手なの?」
「はい、多分」
「そうなんだ……分かったよ。それで?」
「はい。力も弱く、大人に抗うのには少々、心もとない。ですからあの時言いつけましたね」
「……ちゃんと毎日、神力を使って強くなるように頑張ってるよ、体も……剣術を習わせてもらっているし」
話す気がないので、まったく動じずに彼の質問に平然と返すと、彼は困った顔のまま、クリスティアーナの言わんとしていることを先回りして報告してくれる。
出逢った頃はあんなに小さく不健康そうで引っ込み思案だった彼だが、あともう少しできっと身の振り方を自分で考えられるほどに立派な大人になれる。
あと数年程度だ。たったそれだけ。
「ええ。いい事です。本来は守られるべき人間でも、利用するだけして使い捨てる様な人もいるものです。そういう人間が自分のそばにいたとしても抗えるよう、きちんと力を持つことがとても大切です。特に、利用価値が大きいあなたのような存在は」
「……うん」
「強く賢くなってください。きっともう少しです。あなたに私はとても期待していますから」
当てもある、バルディー伯爵家の親戚筋ともクリスティアーナはきちんと伝手を作って彼の後ろ盾になってくれるように頼んである。
きっと彼は大丈夫だし、今までクリスティアーナがやってきたことはそれで無駄ではなかったということになる。
「……うん。……それはうれしいけど、そしたら……僕は今度はクリスティアーナにちゃんと恩返しするよ」
……。
クリスティアーナはエミリオとエラルドの間に入ってエミリオの負担を減らすために動いてきた。
彼はクリスティアーナが来るまでの間酷使されすぎていた。
だからこそ、いろいろな方法でエラルドとバルディー伯爵を言いくるめ、少しずつ仕事を減らして本人とも交流を続けていた。
しかしそれは彼が自立出来て、二人と対等になる時まで助ければ、クリスティアーナが嫁に入った時きっと心強い味方になってくれるし、後ろ盾のないクリスティアーナの助けになるだろう。
……そういう打算で助けただけにすぎません。
「いりません。私、今日、ここを発つことになっているんです。ですから、最後に試してみたいことをしてみたり、後は今まで手を貸していた手間暇が無駄にならないように、あなたに最後の助言をしているだけです」
「……発つって……え。僕、そんな話聞いてない」
「隠し事があるんだろうと聞いてきたでしょう。それです。言ってませんでしたが、行くべき場所があるのでこの屋敷から出ていきます」
驚いて彼の神力が大きく揺らぐ、揺らいで、激しくなったり重たくなったり彼の心そのもののような動きを感じながらそっと手を離す。
「戻ってくるかもしれませんし、戻ってこないかもしれません。ですが、どうか無駄にしないでくださいね。あなたはあなたの未来を選び取るだけの力を手に入れられる。努力あるのみです」
「……まって、わかんないよ。クリスティアーナ、わかんないっ」
彼は最終的に、とても傷ついたような顔をしてさりげなく立ち上がろうとしたクリスティアーナに、縋りつくようにそのドレスを掴んだ。
まだまだ子供っぽいその駄々をこねたような反応に、クリスティアーナはちょっとばかり母性が働いて笑みをこぼす。
「甘えてはいけませんよ。エミリオ」
「っ、せめてどこに行くのか、説明してよっ。希望を持てって、僕の手を引いてくれたのはあなたじゃんか!」
「それは私の結婚生活で利用できるだけの価値があると思ったからです。他意はありません、エミリオ」
「な、なんで。そんなこと言いながら、っ、頭撫でてくれるの? このまま引き留めていたらあなたはどこにもいかない?」
「これは、最後の情けというやつです。あなたが駄々をこねていつまでたっても引き留めてくるようなら、今すぐにでも、この部屋からいなくなります」
「じゃ、じゃあ、きちんとあなたを送り出すからっ、ちゃんと言う事を聞くから! それならもう少し、あと少しだけでもここにいてくれる?」
クリスティアーナは自分より一回り小さな彼のサラサラの銀髪を撫でて、縋るような瞳を向けてくるエミリオに小さく頷いて、彼も大人になったなぁと少し感慨深い気持ちになった。
腕力も、魔力ももうすぐ大人に近くなってくる、そうすればエミリオは自分の事を自分で守ることが出来るだろう。
「いいですよ。ただ、そうして他の女性にもすがるようなことをしてはいけませんよ。弱みを握られてしまいます。貴族たるもの、常に人には警戒心を持って、弱みを見せてはいけません」
「っ、いっつも、あなたは僕に説教ばかり。いつも、いつも……」
「お説教というのは、よくなってほしいからしているものです思いやりなんですよ。あなたに立派で健康に長生きしてほしいという思いやりです」
「っ、クリスティアーナ……いかないでよ……あなたがいなくなったら僕……」
声を震わせてしがみついてくるエミリオに合わせてクリスティアーナはソファーに戻ってまた背中に温かい日の光を浴びて、子供らしい熱い体温がひしっと抱き着いているのを感じた。
「私がいなくなってもしっかり自分を守って、立派になってください。エミリオ。自分を守れるのは自分だけです。真摯に生きていればいいことなど山のようにあるのですから」
それに、まぁ……弱点を知られた私の落ち度でもあるんです。エラルドもバルディー伯爵もエミリオの為なら、話を呑むと知っていたから、引き合いに出したんです。
「思っても、ない。癖にっ」
適当に希望を持たせることを言うと彼は、呟くようにそういって、心の中でその通りだと肯定したが、決して口では肯定しない。
……でも、言われた言葉というのは残るでしょう? 呪いのように付きまとって忘れられない、そんなふうになったらいいんです。
「エミリオ、いつか立派になってくださいね。あなたならばできるはずです。きっと……絶対に」
そういうと彼はたまらず泣き出して、クリスティアーナの膝の上で小さくなって涙をこぼす。
彼の背中を愛おしく思いながらもゆっくりと摩ったのだった。
ドレスを脱いで、貴族令息らしい衣装に着替えてさらに、ローブをかぶれば変装は完璧だった。
バルディー伯爵と、エラルドに連れられて屋敷の最奥へと進んでいく。
男装などしたのも初めてで、ヒールのない靴を履いたのなどいつぶりだろう。
体の線で身代わりだとばれないようにおお急ぎでダイエットをしたせいかなんだか頭がくらくらしていて、うまくものが考えられない。
屋敷の地下にある、祭壇のある部屋へと入ると、すでにそこには光る何かの存在が見て取れる。
そしてその様子を見て、二人は急ぎ足でその場に向かって膝まづいた。
「お待たせいたしました、カルロッタ様。すでにいらしていたとは、お待たせして申し訳ない!」
『━━━━』
「ええ、そのとおり、こちらがカルロッタ様から授かった神力を宿す子供です」
その場所はクリスティアーナが一度も入ったことがない場所であり、すべて白の大理石で作られた厳粛な雰囲気のある部屋だった。
部屋の空気全体が重たいような気がして、カルロッタと二人は話をしている様子だ。
しかし、いくら目を凝らしてみても、クリスティアーナの瞳にはその精霊をうつすこともできないし、声を聞き取ることもできない。
それでも彼らの言葉を聞いて眼前に何かが移動してきたことは気配でわかる。ハッとしてローブを深くかぶり膝まずこうと足を引くと、それと同時に、体の力が抜けてその場に倒れこんだ。
……え? なにが起こっているんでしょうか……。
「おおっ、なんと。これで契約は一時無効ですと? これはどういった状態に……」
『━━━━』
「ああ、なんてことだ。可哀想にまるで人形みたいじゃないか……」
まったく体のどの部分にも力が入らず、エラルドが近づいてきてクリスティアーナの上半身を抱き上げた。瞼を手で閉じて、それから彼はひしっとクリスティアーナを抱きしめる。
……まさか、条件が満たされるまで、私はずっとこのままなんでしょうか。
「呪いがかかっているのですか? なるほど、では、約束通りこれでしばらくは精霊の住まう森に対する不可侵の契約は適応されないのですな? ならば……とてもありがたい」
『!━━━━、━━━━』
「……くくっ、ああ、これでやっと精霊どもに縛られるこの土地を解放できる。……それもこれも全部、クリスティアーナ君のおかけだよ」
側にいるエラルドは、呟くような声でそう言った。
クリスティアーナは何を言っているのかわからずにただ意識が落ちることもなく体の感覚もなく彼の声に耳を傾けていた。
「これで我々はすべてを手に入れることができる、神力も森の莫大な資源も」
彼らの話では意図せずに、精霊をあがめることを約束しているのに、その住処である森を犯してしまったと言っていた。
もちろん、その不可侵の契約を破ったからには契約の報酬を返すことによってその間の契約は適応されなくなる。
だからこそ森を元状態に戻し、その期間が終わればクリスティアーナは普通の生活に戻ることができる。
そういう話だったはずだ。
しかしやっぱりこれはそういうだけの話ではないのだろう。
……予感はしていました。わかってはいました。
けれどやっぱり実際にそうなるととても悲しい、しかしもう文字通り手も足も出ないのだ。クリスティアーナの人生は終わってしまった。自分は情けなくて誰も救えず自分も何物にもなれずに終わる間抜けだった。
そして彼らは、非道な人間だ。
……いつか仕返しが出来たら、とエミリオの事があってから思っていましたが、それももう敵わない夢ですね。
なんだか眠たくなってきました。
それから随分な月日が流れたように思う。
クリスティアーナは意識があったりなかったり、何やらベットに寝かされていて、自分の周りはずっと静かだった。
しかし時折、あざけるようなエラルドの声がして、クリスティアーナに対する恨み言を履いては出ていくことがあった。
昔から嫌いだったとか、エミリオをかばう所だとか、バルディー伯爵にも嫌われているだとか。
そういう話をとうとうと眠っているクリスティアーナに語るものだから悲しくなったけれども、ぼんやりとした意識の中で目を開くこともなくずっとずっと長い間、眠りの海を漂っていた。
数ヶ月経ったのかはたまた、数十年かのかもうその時間間隔すら失った時、ふと目が覚めてクリスティアーナはひどい肩こりと頭痛がするなと思った。
というか全身が凝り固まっていて自分の体ではないようだったし、頭がぼんやりしていて、今まで何をしていたのかも思いだせない。
ただ喉が渇いていて視線を挙げると、無機質で風通しのいい綺麗な部屋の中で自分は寝かされていたのだと思う。
窓の外にはさんさんと降り注ぐ日差しと美しい庭園が見える。その光景に見覚えがあって、やっとクリスティアーナは、はっと自分の状況を思い出して、はぁっと空気の塊を吐き出して窓とは反対側を見る。
するとそこにいるのは、まったく知らない……いや、バルディー伯爵家の血筋だということは銀髪の髪でわかるのだが、エミリオとは年齢が違いすぎる男性がとても驚いた様子で立っていた。
「っ、ごほっ……っ」
喉が痛くて、すぐには声が出せない。
なんと問いかけたらいいのかもわからないし、クリスティアーナをだましたバルディー伯爵とエラルドはどうなって彼らはどこにいるのか。
まさか、彼らが順風満帆な日々を過ごして、穏やかな余生を過ごしきり、世代が変わって、新しい神力を持った人間が生まれて大人になるまでの間、クリスティアーナは眠っていたとでもいうのだろうか。
それでは途方もない時間が流れてしまっていることになる。
眠っている最中に文句を言ってきたエラルドに一言言ってやりたかったし、結局何がどうなってクリスティアーナは騙されたのかという話だって聞きたかった。
なんだかそう思うと色々な感情があふれ出してきて、目の前の男を見たまま、声も出せずに、視線を逸らして俯いた。
……取り返しのつかない事をした自覚がありましたが、流石に、ここまでとは。というか目が覚めるものなんですね。てっきりそのまま死ぬのかと……。
ということは、これからどうしたらいいのかということにまでまったく頭が回らない。困って、困り果ててしまって、クリスティアーナは思考が停止してそのまま硬直した。
「ク……クリスティアーナ!」
けれども、硬直したクリスティアーナに、思い切り入口付近にいた男性が抱き着いてきて。
思わず驚いてクリスティアーナは体を固くして彼の行動を凝視した。
「やっと、やっと目が覚めた! よかった! この子が頑なに、あなたの呪いを解かなかったから、こんなに時間がかかっちゃって本当にごめんね」
「……っ……」
『━━━━!』
「うるさいよ。カルロッタ。そもそもあなた達が、父さまや兄さまに騙されるのが悪いんだって、俺言ったじゃん」
『━━━━、━━━━』
「だとしてもクリスティアーナには罪はないよ。いいから、森に戻っていいよ、俺たち久しぶりの再会を二人きりで楽しみたいんだ」
『━━━━』
「じゃあまたね。あの人たちにまだ意識があるようだったらあの人たちで憂さ晴らしでもしておいて、あんまり怒ってるカルロッタをクリスティアーナに紹介したくないから」
彼は何やら精霊と話をしているようで、それにしても馴れ馴れしい。
そして話をしながらもクリスティアーナの事を離すことはなく、たくましい男らしい腕にぐっと抱かれているままだった。
「…………」
「ごめんねうるさい子がいて、クリスティアーナ、俺はずっとずっとあなたを目覚めさせられる日を夢見ていたんだ。遅くなってごめん。恩返しするって言ったのに」
「…………」
抱きしめたままクリスティアーナの頬ずりして、甘ったるい声で自分を呼ぶ彼に、咄嗟に言葉が出てこない。
何というかとにかく大きい。
森の熊のようだ、もちろんクリスティアーナは十二歳ぐらいであったエミリオと同じぐらいの身長体格だったので、小柄ではあるのだが、それにしてもこの人は大柄な方だろう。
それなのに、こんなふうに子供のように縋りついてはいけないと教わらなかったのだろうか。
「俺の為にあなたがこんな目に遭っているって知るのにも何年もかかって、あなたにずっと言われていたのに、まだまだ子供であなたに言われた通りにはうまくやれなくて……」
……俺の……ため?
彼の為に動いた記憶などどこにもない、ないはずなのだが、言われて先ほど考えた可能性とは別の答えがちらと浮かんで、目の前の男を見つめた。
「でも大丈夫、うまくやったよ。全部あなたに認めてもらいたくて……まさか……覚えて……ない?」
感動のあまりにクリスティアーナの反応を見ていなかった彼も、返答が返ってこない事によってクリスティアーナの様子がおかしい事にやっと気が付き、ふと見上げて聞いてくる。
その瞳にほんの少しだけ、本当にほんの少し、見覚えがある気がして、か細い声でクリスティアーナは問いかけた。
「…………エミリオ?」
するとその表情は見る見るうちにほころんで、ぐっと胸に抱かれて彼の心臓の音が聞こえるほど密着する。
「そう! そうだよ、クリスティアーナ。あなたを貶めた酷い人たちはもういないし、何もかも俺とあなたのものだ、全部全部、ああやっとやっと手に入った。”僕”の愛しの人」
「…………」
頭から降りかかってくる声は聞き覚えがないほどに、芯がある男性らしい声で、体はクリスティアーナをすっぽり覆い隠してしまうくらい大きくてがっしりしている。
顔立ちだって気弱で、小さくてどこか自信のない様子に依存気味だった彼とは違って、眉がきりっとしていて、鼻立ちがくっきりとしていた。
彼の心音は大きく鳴り響いていて、ぎゅうぎゅうと抱きしめられるとちょっと息苦しい。
昔の彼とは、匂いすら違う気がした。
香水をつけているのだろう、華やかな香りがする。
その手が、鼓動が、声が、すべてがあの時とは違って、今更ながらクリスティアーナは心臓が爆発しそうなほど鳴り響いて、ぐっとその胸板を押した。
「っ、っ、ひ、ひひっ」
「……ひ?」
胸板を押したのに、突き放すことが出来なくて、突き放そうとしていると気が付いた彼が察して少し離れていく。
その些細な差に、あの時は簡単に振り払えた彼の手との違いを感じて、クリスティアーナはベットから転げるように落ちて、すぐに体勢を立て直す。
「ひ、人違いです」
そういって彼の横を抜けて、勝手知ったるバルディー伯爵家をはだしでバタバタと走り出した。
後ろから、自分を呼ぶ声がした気がしたが知った事か。
そして眩暈がしてすぐに倒れたのだが、とにもかくにも、長年の眠りの呪いから覚めて一番驚いたことが、エミリオの成長だったことを、クリスティアーナ自身も一番驚いて混乱していたのだった。
目覚めてから数日後、クリスティアーナはとても深刻な表情をしてベットの上で必死にスープの野菜を咀嚼していた。
柔らかく煮込まれたそれは、咀嚼の必要がないほど口どけもいいし消化にも良い。
しかし、料理人がクリスティアーナの事を考えて作られた渾身の一品なので、繊細な野菜のうまみがぐっと引き立てられていて、とても食欲をそそる味なのだ。
けれども、そのこと以上にクリスティアーナは、とても不服なことがあり眉間にしわを寄せて、難しい顔をしてジャガイモを呑み込んだ。
「はい、クリスティアーナ」
するとスプーンにのったニンジンが差し出されて、ジトッとした目でエミリオの事を見つめた。
彼はクリスティアーナの目線などまるで気にならないといった様子で、首をかしげて、こちらを見つめる。
そのしぐさは昔からのものであり、若干クリスティアーナの知っている可愛いエミリオの事を思い出すことが出来るが目の前にいるのは、彼であって彼ではない。
「……エミリオ、自分で食事ぐらいできます。こんなひな鳥のように給仕されずとも空腹で餓死したりしません」
「この会話って、一口ごとにするの?」
「……」
「口開けて」
「……」
あまりに不服だったのでクリスティアーナはついついそう口にしたが、一口ごとに彼に文句を言っている点を指摘されて、たしかにこれではいつまでたっても食事を終えることができない。
……であれば、私が口を開いて文句を言わずに食べれはいいのだと、そういう話ですね。
観念して口を開くと、彼は目を細めてとてもうれしそうに笑う。
それにクリスティアーナはまたベットから駆け出したい気持ちに駆られたが、あいにく起きてすぐに走り出し、眩暈を起して床に激突して痛い目を見てからそうもいかない。
……というか、立派になれとは言いましたが、まさかこんなに大きくなるとは、想定外でした。小さなころから体を鍛えるように言ったからでしょうか。
疑問に思いながらも咀嚼する。
エミリオはのんきに「美味しい?」などと聞いてくる。
「もちろん。美味しいに決まっています。料理人が腕によりをかけて作ってくれたのでしょう」
「そっか、よかったね。作ったの俺だけど」
「…………」
「はい、あーん」
言われてそのまま口を開き、もはやエミリオが謎だった。彼はいったい何がしたくてクリスティアーナにこんなことをしているのだろうか。
食事が終わると、使用人に食器を下げさせて、いまだにベットから降ろしてもらえないクリスティアーナとエミリオは二人して沈黙していた。
こうして目が覚めてからというもの甲斐甲斐しく看病されているのは、いいとして、それにしても今までの話が足りていない。
けれども、食事が終わってからもここにいるということは今日こそ、その話をしてくれるつもりだろう。
「……」
しかし、あまり食い気味に聞くのも興奮させてしまうのなら体調が戻った後日にと言われるかもしれない、さりげなく話をするのが一番いい。
「……エミリオ、あなたいったいいくつになったんですか」
「二十五……六?」
ぱっと答えを言ってから首をかしげて言う彼に、さりげない話題のつもりで聞いたクリスティアーナだったが、予想外の答えに目を見開いてしばらく硬直した。
……十年以上……経っているんですか。
そりゃあ小さかった少年だって立派な大人になるだろうし、お父さまたちはよぼよぼになっているだろう。
そしてもちろん、自分自身も、あの時は十六歳だったのだから二十八歳になってしまっているだろう。うら若く美しく着飾れる時期をとうに過ぎて落ち着いた服装をして子供の一人や二人はなしていてもおかしくない時期だ。
……覚悟はしていましたが……。
「……では私はもうすぐ三十代ですね。働き口があるといいのですが」
「え?」
口に出してみるとさらに現実味があって、なんとなく続けてそういった。
しかしエミリオはなんだかとても不思議そうな顔をして、それから「ああ」と納得した様子で席を外す。
そんな彼が何をしているのかと視線で追い続けていると、何かを取って戻ってくる。
しかし、ふと気が付く。
「それにしてもエミリオ。 私は三十代になるんです、そんな人に、あなたのような若く有望な男性が、あんなふうに距離を考えずに縋りつくようなことはあってはなりません」
「……はい、鏡」
三十代になるのならば、彼が成人した立派な男性になったように自分も貫禄のある女性になっているだろう。
日の元に出なかった期間が長いと思うので色は白いままだと思うが、目元は凛々しく、厳しく鋭い目線で子供を見守るような女性の顔つきになっているはずだ。
「ええ、ありがとうございます」
鏡を受け取ってお礼を言って自分の容姿を見てみる。
「……なんですかこれ」
しかし、想像していた自分とはまったく似ても似つかない。眠った時とまったく同じ容姿のままの姿で自分はそこにいた。
「少し、話をするよ。あなたが眠った時の事、それからなんでそうなったのか」
瞳を瞬くと鏡の中の自分も瞬きをする。髪が短く、驚いた顔をしている金髪の女がそこにいるだけだ。
「……」
ちょっとばかりやつれているというか、血の気がないような印象を受けるが変わっていない。
そのことに衝撃を受けてしまって、やっと望んでいた話が始まったというのに、クリスティアーナは呆然としたままエミリオに視線を移した。
「あの時の俺は、助けてくれるクリスティアーナの事をただ信頼して頼っているばかりだった。……だから、あなたは、あの人たちに騙されて俺の為に身をささげてくれたんだよね」
エミリオは悲しそうな顔をして続けた。
「バルディー伯爵家は代々、精霊からの条件付きの祝福を得て、他の人間には持ちえない神力を使うことが出来る。
そしてそれは、大きな恵みとなり、バルディー伯爵家はより強固に家族間でつながり、精霊様を祀っていく、それが対外的にも伝えられている俺たちの家の事情だと思う。
でも実は、本質は精霊様を祀ることではなくて、精霊様の住む森を守ることにあるんだよ。カルロッタは、ただの遣いに過ぎないし、精霊の住む森にはもっと強大な……それこそ精霊たちの王に君臨する存在がいて、それを守るために森を不可侵とされているだけなんだ。
だからそれさえ犯さなければ、精霊だって理不尽に怒ったりしない。
そのはずだったのにあの人たちは、約束をたがえて、精霊の森をあらし魔術的資源が豊富なその場所を使って商売をしたいと考えたんだ。
でも、俺は失いたくない。だからそこで身代わりを建てて両方のいい所だけを取った。
それは一応成功していたよ。
ただ、その契約は精霊と人間が争いにならないために設けられた予防策のようなものだったからそれが崩壊して、君が眠っている間に精霊と人間が衝突して、結局バルディー伯爵家の契約の在り方が見直されたんだ。
それから正式に父と兄は、精霊にささげられてもう二度と目覚めさせないし、今は俺がこの家の主だ」
結論としてそういう彼に、なんだかとってもざっくばらんな説明だったなと思ったが、一応クリスティアーナは話の内容は理解できた。
バルディー伯爵と、エラルドが精霊にささげられたとなる、と自分たちがクリスティアーナをだましてしたことを、自分たちもされているというのならばきちんとした因果応報だ。
痛みを相殺できない事もない。
「あ、それから、あの人たちにはきちんとあなたに対する謝罪の文章と、慰謝料を用意してもらったから、気を悪くしないでねきちんと書かせるまでに時間がかかったけど、一生懸命追い詰めたんだ。もっといろいろしたいなら、いる場所に案内するし。」
さらに続けて言われた言葉に、少し驚く、追い詰めたというのは何をしたのだろう。
しかしそれならばエラルドに言われた腹立たしい言葉に対しての溜飲を下げることが出来そうだ。
……それに起きるだなんてそもそも思っていなかったし、出来るとも思っていなかった仕返しが、まさか終わっている状態で状況説明を受けることになるだなんて想像もつきませんでした……。
「あと、あなたのご実家ともやり取りをしてこうして目が覚めるまではこうしてこの屋敷に置いておくことには了承を得ているから、そのあたりも気にしないで。
あ、あとあと、あなたは眠ってから……その兄さまは本当に外道だと思うけれど、婚約を破棄されて、未知の病に侵されたことになっていたから、籍は汚れていないけれど……何か周りから言われるかもしれない。
でもそこは俺が何とでもフォローするから、安心してね」
……たしかに籍が汚れていない事はうれしいです。それ以外にも、いろいろと気を回してくれたようで助かることばかりです。
それは素直に、うれしいと思うし、ありがたい。
大方の状況も把握できたし、話してくれてよかったと思うのだが、まだ一つ、説明がついてない事がある。
「他に何か聞きたいことってある? クリスティアーナ」
「……だいたいの事は理解できました。籍の事も、実家の事も了解です。ただ一つ……私はどうしてこんな外見なのでしょうか」
「……それは、カルロッタの話によると眠りの呪いではあるんだけど、命を奪うわけにはいかないから、魔力の循環を止めて生命活動を奪ってたみたいなんだよね。だから……あなたはずっと、十年以上たってもあの時のまま……ずっときれいなまま」
言われて嬉しいはずの言葉は、クリスティアーナには苦しくなる言葉だった。
だってそれだとクリスティアーナは、知り合いにも、周りの人にも何もかも、十年以上置いて行かれたままになるのだ。
自分だけ取り残された。
それはとっても、きっと疎外感を感じることだろう。今でさえ……。
目の前にいるエミリオを見る。彼は、思案顔でクリスティアーナを見て、それからすぐに安心させるようにクリスティアーナの手を取って笑みを浮かべる。
「でも、あなたが歳をとりたいっていうのなら、俺に任せて、魔力の循環を止めることができるなら早回しもきっとできるよ。クリスティアーナ」
すぐに解決策を考えて、提示してくるその姿、自信のある笑みはキラキラと輝いていて、まるでクリスティアーナよりもずっと年上みたいだった。
「……」
「他に俺にできることがあるなら何でも言って? あなたの為なら何でもするよ。僕はあなたに育ててもらったようなものだから全身全霊で、恩をかえすから、安心してね」
励ますように言われると、クリスティアーナは途端に拗ねたような気持になって思わず、ぐっと眉間にしわを寄せた。
「どうかしたの?」
気遣うように問いかけられてクリスティアーナは、ついに口にした。
「……そ、それでも、私はあなたよりも、年上です。勘違いしないでください。恩返しなど必要ありません。
言ったでしょう、私はあなたを都合のいい駒にするために利用していただけです。ですから、自業自得ですね。
あなたからの施しなどいりません。実家へと話はついている様子ですから、実家に帰り自分で働き口を探します。
それほど気を使ってくださらなくても、もうあなたと私は他人です。婚約者との縁すら切れているのですから、むしろ起こしてくださって私の方が働いてあなたにお礼金を支払わなければならないぐらいでしょう」
確かに、クリスティアーナは彼を助けただろう。それは事実だ。しかし、彼の為ではなく自分の為だ。
すべては打算で情などない。
だからこそ、お互いに自由だ。救ってくれなくてもよかった。しかし救ってくれたからにはお礼金が必要だし、自分の始末は自分でつける。
「頼るつもりはありません」
それに何より、クリスティアーナは人に頼るのなどごめんだ。頼られるのならまだしも、救うならまだしも、可愛がるのならまだしも!
「あなたは立派な大人になったようですから、結局あの時の助けた努力は無駄にならなかったそれだけ満たされていれば私は満足です」
なんだか怒っているような荒っぽい口調で続けて言う。
「大きくなりましたね、たくさんの事を成し遂げたようでほっとしました。エミリオ。とても素晴らしいと思います。今までの看病ありがとう……ござ、い…………」
しかし最後の言葉を言う前に、エミリオがとても怒っているような顔をしていて、クリスティアーナは流石に言葉を途中でとめて黙ってしまった。
そんなふうに怒らせるようなことを言ったつもりもない。
……私は間違ったことは言っていないはずなのに……。
「……ごめん、顔に出てたよね。……ただ、なんだか、あの日のクリスティアーナの事を思い出して、すごく嫌でさ」
「なんのことですか」
「だから、俺が無力であの日、あなたを止めることも、守ることもできなくて、あなたは何も一切、俺に教えてくれるつもりも頼るつもりもなかったあの日の事。……あれからずっともう十年、あなたはやっぱり何も変わらずに綺麗なままで、それにちょっと独善的なまま」
「…………言っている意味が分かりません」
「いいよそれでも。俺はもうあなたの事を離さないから。一人で自己犠牲をやらせたりしないから」
「ですからあれは自己犠牲ではないのです。ただの投資の回収です」
「何とでも。……これからは一生そばにいて守るからね。クリスティアーナ」
彼は怒りを収めて、笑みを浮かべる。
昔はそんなふうに感情のコントロールをすることなんてできていなかったくせに、すっかり板についている様子に、クリスティアーナはむっとして「お嫁さんに怒られますよ」と口にした。
二十代半ばならば、お嫁さんぐらいはいるだろうそう思っての発言だった。
すると彼はキョトンとしてそれから、くすくす笑って返す。
「いないよ。あの日からずっと、あなたをそばで守るためにはあなたをお嫁さんにするしかないって思ってたから、ちゃんと独身なんだ」
「……ま、待ってください、まさか私と結婚するつもりですか?」
「もちろん。僕の愛しい人だもん」
「却下です。こんないわくつきの女を娶ってはあなたの弱みになりますよ」
「……ねぇ、クリスティアーナあなたの気持ちで答えてよ。俺はあなたの許可がなくても結婚を申し込むし、外堀も埋めるつもりだよ。それを俺の弱みになるからなんて理由で却下出来るわけない。あなたが俺を、好きだとか嫌いだとかそういう話をしてほしいんだ」
言いながらエミリオは、ベットの上に乗りあげてクリスティアーナの顎を掬い上げてじっと見つめた。
「やめなさい。大人をからかって楽しいですか」
「…………あなたこそ、俺を子供扱いしてもいいけど、取り返しがつかない事になってから後悔しても遅いからね」
しっとりとしたその指が唇をなぞる。クリスティアーナはなんだか得体のしれない感情にプルプルと震えて、押し黙った。
……そんなこと言われたって知りません! 分かりません! なんなんですか! 恩返しなどいらないと言っているのに!
そう思うのに口にできない。ふいっと顔を逸らしてただうるさく鳴り響く心臓の音が彼に聞こえないように胸を抑えて俯いた。
「……少し性急すぎたかな。でも知っておいて、昔の俺みたいに、あなたがいなくなることに泣くだけの俺じゃないから、それじゃあまたね」
そういってエミリオは去っていく。
あんなに小さな存在だと思っていた彼だけれど、知らないうちにこんなに大きくなって、クリスティアーナだって困ってしまうのだ。
騙されて眠りについて、でも仕返しが済んでいる。状態で目が覚めて、それはいいし、別に後悔はないけれど、急に関係が変わるしかない状況に、クリスティアーナの心は穏やかではいられないのであった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。