562話 ルースの恐怖
あたくしは、レックスさんとハンナさんと共闘した。問題なく勝てたことそのものは、喜ばしいと言えたでしょう。
ただ、あたくしの目指すところにたどり着いたかと言えば、そうではない。五属性を殺したからといって、何も変わりはしないのだから。
もちろん、決定的な実力不足でもない。万全とは決して言えないけれど、落第とも言い難いでしょう。その程度でしたわ。
レックスさんと共に撤退して、今はひとりで待機して次の動きを待つばかり。ホワイト家に指示を出すこともできるけれど、状況の変化に応じて変わる段階だもの。あたくしの求めることは、右腕のスミアに伝えているわ。
今の状況では、できることはそう多くないもの。落ち着いて、自分を振り返ることができていたわ。ただ、鏡の前で。どこか貼り付けたような笑顔を見ながら。
「さて、あたくしの強さは、まだ最低限としか言えなくてよ」
レックスさんを知るものならば、誰でも同じ事を言うでしょう。あたくしは、まだ彼に届いていない。それどころか、勝負が成立するかどうかすら怪しい。
明らかに、レックスさんの魔力は増えている。それだけでなく、安定感も増していたもの。実力が跳ね上がったのは、論ずるまでもないこと。
ミュスカさんの影響ということは、聞いているけれど。余計なことをしてくれたものと、舌打ちしそうにもなった。レックスさんが倒れる可能性を考えれば、避けられないことだったのでしょうけれど。
それに、あたくしはレックスさん以外と比べて特別に強いということもない。確実に言えることは、フィリス・アクエリアスに勝つ道はないということでしょう。
あらゆる意味で手段を選ばなければ、可能性くらいはある。そう思いたいけれど、今フィリスが最強として生きているという事実が否定する。暗殺などの手段が、講じられないはずはないのだから。
つまり、からめ手を用いた程度では勝てないということ。まだまだ、足りない。それが現実でしかないわ。
「五属性を倒せる程度のことでは、誰に対しても優位に立てないもの」
これまでに出撃した全員が、五属性を倒すことはできる。あたくしの力は、特別でもなんでもない。
ならば、まだまだ強くなるしかないでしょう。レックスさんに届かないのだとしても、同じ程度の才能に負けるわけにはいかない。あたくしは、絶対に突き放されたりしない。
これからも、研鑽を続けることは決まりきっている。そうでなければ、何も手に入れられないのだもの。
「呆れ返ってしまいそうですわね。レックスさんどころか、誰もがあたくしを休ませてくれない」
怠惰に浸っていては、あっけなく忘れ去られてしまうでしょう。他でもない、レックスさんに。あたくしだけでなく、誰だとしても。
力だけが、レックスさんの認めるものではない。分かっているけれど、それは無能であることを許容することではないもの。
レックスさん自身が、努力を重ねている。その周囲も、誰もが。だから、無為無用な人に立場なんてない。少なくとも、レックスさんのそばには。
誰だって、分かっている。レックスさんの優しさは、本当の意味で無条件ではないと。彼が好きになれる存在にだけ、与えられるものなのだと。
でなければ、レックスさんの父は殺されなかった。あたくしも同じにならないと、どうして言えるのでしょう。
人として当然の感情ではある。それは、認めましょう。あたくしだって、何の価値もない人を好きになることはないのですから。レックスさんがあたくしを大切にしてくれるからこそ、好きになったのですから。
そして、大切にされる心地よさを知ったからこそ、あたくしは、いま苦しんでいる。罪な人よね、レックスさんは。
「レックスさんに、置いていかれたくない。きっと、同じ気持ちなのでしょう」
あたくし以外の、誰もが。きっと、心のどこかでは察しているはず。レックスさんは、確かにあたくしたちを大事にしてくれている。けれど、未来永劫続く保証なんてどこにもない。
レックスさんは、善性を持った人なのでしょう。悪を手段と選ぶ覚悟こそあれど、本質的には穏やかな日常を求めるだけの人。誰かが傷つくことなど、本当には望んでいない。
だからこそ、あたくしたちのような手段を選ばない人間は、いつ嫌われてもおかしくはない。本性を知られることだけは、絶対に避けなくてはいけないのよ。
そのためにも、力は必要。手段を選ぶ余裕がなくなってしまえば、手を汚しても足りないのだもの。
あたくしは、レックスさんに求められたい。それだけを胸に、生きているのに。
胸に手を当てて、そこを見る。どこまでも、遠くにあるような気がしたわ。
「そう。置いていかれて、たまるものですか」
胸のあたりを、ぎゅっと握る。少し感じた痛みが、あたくしに熱をもたせた。
ほんの小さな望み。あたくしは、レックスさんの隣に居たい。それだけのことが、どうしようもなく遠い。
だって、本当は交わるはずのない存在だったのだから。人格でも、立場でも。能力でも、何もかも。
あたくしの欲しいものは、あっけなく失われてしまう。薄氷の上に立っているだけでしかない。胸が締め付けられるのが、分かってしまったわ。
「あたくしを、ずっと見ていて。忘れないで。遠くにいかないで」
それだけで、あたくしは何だってできる。父を殺した。敵を殺し尽くした。支配の形を作り上げたわ。
だけど、追いつくどころか遠ざかっていく気すらしてしまう。あたくしは、ただ鳥を追いかけているのかもしれない。地に足をつけながら、届かないと分かっていても。
「レックスさんは、止まらないのでしょうね」
どれだけだって、強くなってきた。立場を固めてきた。誰かを救ってきたのでしょう。
そのたびに、あたくしからは遠ざかってしまう。どれだけ全力で追いかけても、涼しい顔で。なんて、残酷なのでしょうか。
「あたくしたちを守るためにこそ、あたくしを置き去りにしようとする」
それもこれも、あたくしたちが弱かったから。レックスさんの敵を殺し尽くせ無い存在だったから。足を引っ張る可能性すらあったから。
情けなくて、涙すら出てしまいそう。誰も見ていないとしても、流せないけれど。だって、そうしたらあたくしは立ち止まってしまう。座り込んでしまう。そして、置いていかれてしまう。
「どこまで強くなっても、きっとレックスさんは満足しなくてよ」
これまで、ずっと満足してこなかった。新しい魔法を生み出し、魔力を高め、無数の工夫を重ねてきた。
転じてあたくしは、何ができたというのでしょう。先陣が切り開いてきた道を、ただ歩いているだけではなくて?
「そんな状況で、あたくしが立ち止まる時間はない」
立ち止まってしまえば、何もかもが終わってしまう。あたくしの願いが、はかなく消え去ってしまう。
あたくしは、せめて進み続けるしかないの。どれだけ遠ざかるものを追いかけているのだとしても。諦めることだけは、したくない。
「レックスさんは、強さも、権力も、何もかもを積み重ねていてよ」
魔法は、勝てない。権力ですら、今回の件で大きな差をつけられるでしょう。人望で勝てることも、きっとない。
持っているのは、生まれ持った血筋だけ。それすらも、レックスさんの前では無意味なのでしょうけれど。
「あたくしは、何なら勝てるというの? 何なら……」
自分を抱きしめて、震えてしまった。嫌な夢が、目の前に現れたような気がして。
レックスさんに、置いていかれる未来。起きているのに、見えた気がした。寒かった。冷たかった。頭から指先まで、どこまでも。
「皇帝を打ち破ったのなら、またレックスさんは遠ざかる」
夢を見るまでもない、確かな現実。英雄として、名声も権力も手に入れるのでしょう。あたくしが、追いかけているとも知らずに。
どうすれば、あたくしの願いは叶うのかしら。同盟では、もう足りない。ホワイト家を拡大しても、追いつけないのに。
「邪神に力を求める気持ちが、こうも理解できるなんて」
それでレックスさんが手に入るのなら、あたくしは魂を売ったかもしれない。無駄だと分かっているから、望まないだけで。
だって、邪神に溺れた存在を、レックスさんは大切にしてくれないでしょう?
「あたくしも、落ちたものね。でも……」
一度だけ、首を振る。鏡の中にいるあたくしを、じっと見つめたわ。絶対に、負けないって。
「だからこそ、堕ちるわけには行かないわ。その時こそ、本当の終わりでしてよ」
レックスさんの前で胸を張れなくなってしまえば、あたくしには何も残らない。必要とされることなんて、決してない。
なら、笑いましょう。レックスさんの前でだけは、どこまでも優雅に。
「レックスさんにだけは、見捨てられるわけにはいかないの」
その先に、あたくしはすべてを失ってしまうのだから。絶対に、許せないこと。死んでも避けるべきことなのよ。
「せめて誇りだけは、胸に抱えていましょう」
レックスさんに、最高のあたくしを見せるために。どこまでも弱くとも、強いふりをしましょう。
だから、レックスさん。あたくしを、ずっと見ていて。




