304話 求める愛は
ブラック家が襲われたとはいえ、実害らしい実害は出ていない。まあ、民に不安が出ている様子はあるとはいえ。
結局のところ、雑兵がいくら集まったところで大した意味を持たないのが、この世界のパワーバランスなんだよな。いや、正確には違うか。一部の超越者にとっては、それ以外の存在はチリ同然。普通の人たちにとって、確かに数は脅威なんだ。
とはいえ、俺の周囲の人々は、ほとんどが超越者側だ。数少ない例外であるところの母さんは、なにか忙しそうにしている様子だな。俺には内容は分からないが、せわしなさそうにしているのを感じる。
だが、俺が襲われたというのは、それを投げ捨てるくらいの一大事だったようだ。俺の部屋に飛び込んできて、じっと顔を見られている。心配してくれるのは嬉しいが、ちょっと重く捉え過ぎな気もする。
いや、普通に考えれば大ごとだ。俺達が強いから簡単に解決できるだけでしかない。傭兵が集団になって個人を襲うなど、そこらの母なら卒倒してもおかしくはない。俺の感覚がズレているだけかもな。
「レックスちゃん、大丈夫でしたの? わたくしは、もう心配で……」
「俺は大丈夫だ。あの程度の敵に、傷なんて負わないよ」
実際、無傷だったからな。母は悲痛そうな顔をしているが、大して気にしていない。少しくらいは、思うところもあったが。
結局、誰かを殺せば恨みを買う。そんな当たり前の事実を実感させられた。だが、殺さないのも難しいだろうな。俺や仲間の命を狙う相手は、殺すしかないだろう。頑張れば逃がすこともできるだろうが、また狙われるとしか思えない。
ただ、大丈夫か大丈夫じゃないかで言えば、間違いなく大丈夫の方だ。そこまで深刻には捉えていない。俺にとって大切なのは、もはや親しい人だけなんだ。正義も倫理観も、大事な人より優先することじゃない。そうじゃなきゃ、みんなで生き残れはしないのだから。
とはいえ、母に心配をかけているのは気にかけるべきことだよな。俺だって、大切な人が傷つく可能性を感じたら、不安にもなるだろう。
「なら、ちゃんと見せてくださいまし。ほら、早く!」
母は、勢い激しく俺の服に手をかける。傷がついていないかを確かめようとしているのだろうが、少し怖い。いや、気持ちは嬉しいけどな。
少し抵抗すると、すぐに母は諦めた様子だ。やはり、問題のある行動だとは認識していたのだろう。
「脱がそうとしないでくれよ! ……まったく。俺としては、姉さんやメアリの方が心配だったくらいだな」
「わたくしのことは、心配してくれませんの? 寂しいですわよ……」
そんな事を、うつむきながら、か細い声で言っている。言葉を間違えただろうか。実際に戦場に出たから気になっていただけで、他意はないのだが。母だって大切なのは、疑う理由もない。
ただ、俺の中で固まった感情だからといって、伝えるべきことは伝えないとな。今、しっかり言っておこう。
「もちろん、母さんにだって傷ついてほしくないよ。大事な家族なんだから」
「家族として、だけですの? わたくしは……」
瞳をうるませながら、こちらを見ている。おそらくは、女として愛することを求められているのだろうな。受け入れてしまえば、楽になるのかもしれないが。ただ、みんなに顔向けできないと思うんだよな。
みんなだって、それぞれに俺に感情をぶつけている。それをごまかしておいて、母だけ特別扱いというのは違うだろう。それに、単なる同情で受け入れようとすることも。
なら、慎重に言葉を選ぶべきだよな。また、ごまかしているだけなのかもしれないが。
「絶対に欠けてはならない大切な人だと思っているよ。それだけは、間違いない」
「愛する人とは、言ってくれませんのね……」
目を伏せている。やはり、傷ついているのだろうな。だからといって、母を女として愛するのは難しい。いや、前世での記憶の方が大きいから、そこまで親としての意識は強くないのだが。これは、単なる常識というか、考え方の問題なのだろうな。
とはいえ、そう軽率に愛せるものではない。母は確かに美人だと思う。でも、それは愛の根拠になんてならない。過ごしてきた時間もあるとはいえ、また別の感情のはずだ。
なら、結局は愛の言葉をささやけなんてしない。嘘になるだけだ。
「家族としてなら、愛している。別の母が欲しいなんて、きっと一生考えたりしない」
「嬉しいわ……。それは、本当なのよ……。でも、わたくしは……」
うつむいたその瞳から、涙がこぼれている。正直に言えば、痛ましいと思う。息子を男として見てしまったのだから、苦しいのは当然だ。悩みもするだろう。
だからといって、結ばれることが正しいかと言われたら困る。できることならば、悲しんでほしくはないが。それでも。
「泣かないでくれ、母さん。そんな顔は、見たくないな。なんて、泣かせているのは俺か……」
「レックスちゃんは悪くないの。間違ってもいないの。ただ、わたくしが納得できないだけで……」
本人も、理解しているのだろう。息子に向ける感情としてはおかしいのだと。だが、父が母に真っ当な愛情を注いだとは思えない。だから、愛に飢えているのだろう。悲しいものだ。
それを癒せるのなら、大抵のことはしたいと思う。だが、例外もあるというだけで。お互い、どこかで妥協が必要なのだろうな。
俺は、母として愛してくれとは言わない。母は、結ばれるより手前で我慢する。そのような妥協が。どこが適切かは、これから話し合っていくべきことのはずだ。さて、まずはこちらから、歩み寄る姿勢を見せるべきだよな。
「弱ったな……。母さん、どうしたら泣き止んでくれる?」
「抱きしめてくださいな。壊れるほど、強く……」
「分かった。これでいいか?」
願い通りに、母を抱きしめていく。力を込めたと分かるように。それでも、母が傷つかないように。俺が本気の力を込めたなら、絶対に苦しいからな。
そうしたら、母はどこか恍惚とした顔をしていた。少しだけ、恐ろしい。息子と抱き合ってする表情ではないのは確かだから。
でも、俺が母を壊したんだろうからな。追い詰めすぎたのだろうからな。その責任は、取るべきだろう。
「レックスちゃんの体温が、伝わってきますわ……。なんて、暖かい……」
そんな事を言いながら、胸に頬を擦り寄せてくる。これが幸せなんだという顔をしながら。嬉しい気持ちはある。それは間違いない。でも、母の感情が正しいとも思えない。そんな矛盾が、俺の心をむしばんでいくような気がした。
抱きしめた手で背中と頭を撫でながら、できるだけ優しい声をかける。母が、少しでも落ち着けるように。
「これくらいなら、いつだって。母さんが望むのなら、どれだけでも叶えるよ」
「本当に、優しい子ね……。わたくしには、もったいないくらい……」
母だって、どこかで自分を追い詰めているのだろうな。それが、今の言葉に出ていたと思う。だからこそ、拒絶はできない。これ以上、傷つけられない。
悲しいものだな。母として出会わなければ、今ほど親しくはならなかっただろうに。だからこそ、母は苦しんでいるのだから。
「そんな事を言わないでくれよ。母さんは、俺の誇りだよ」
「ありがとう、レックスちゃん。あなたも、わたくしの誇りよ」
「嬉しいな。母さんが大事に思ってくれているのが、伝わるよ」
「そうよ。わたくしにとって、あなたは何よりも大切なの。ずっと、離れないで……」
強く、こちらを抱きしめてくる。何より大切だと思われることは、もちろん嬉しい。それでも、今のこの感情は危険だとも思う。
なんて、どの口が言っているのだろうな。俺のせいで、母を苦しめていたのだから。父を殺したのは、俺なのだから。それが、母に恐怖を与えたのだろうから。
俺のやるべきことは、母の心を少しでも回復させることだ。前を向けるように、支えることだ。そうだよな。
「戦いやら何やらがあるから、四六時中とはいかない。それでも、ここが帰る家だよ」
「ありがとう、レックスちゃん。あなたがそう言ってくれるだけで、生きる活力になるわ」
「母さんには、できるだけ長生きしてもらわないとな。親孝行だってしたいんだし」
「もう、十分な孝行息子よ。不満だってあるけれど、それは仕方のないことだもの」
俺が、女として母を愛さないこと。他にもあるだろうが、一番大きい感情だけは疑いようがない。実際、俺を見つめる瞳には熱がこもっている。
ただ、受け入れるのは難しい。それでも、できる限り母の気持ちに寄り添うこと。難しいものだな。
「……まあ、母さんの願いを全部叶えるのは、難しいかもな」
「今は、こうして抱き合えるだけで十分よ。だから、また元気な顔を見せてちょうだい」
「もちろんだ。俺は、母さんと生きていきたいんだからな。簡単には死んでいられないよ」
「時間があれば、きっとわたくしの望みだって……。わたくしだって、長生きしないといけませんわね」
俺の頬を撫でる母の頬は紅潮していて、わずかに見とれそうになった。




