173話 表出する歪み
父を殺して、部屋から出て。そこでは、母が待っていた。俺の顔を見て、すぐにこちらにすがりついてくる。膝をついて、俺の腰辺りをつかんで、上目遣いで見てくるのだ。
これまでの母とは明らかに態度が違って、違和感どころではない。まあ、原因は明らかなのだが。
ただ生きていてくれるだけでも、今は嬉しい。母を殺さずに済んだことは、素直に喜んでおこう。そうでもしないと、やっていられない。
「レックスちゃん、あなたは、わたくしを捨てないわよね?」
悲痛そうな声で、瞳を揺らしながら、俺を離さないとでもいうように、腰に抱きつきながら語る。
そんな様子を見て、母も相当追い詰められているんだなと、他人事のように思った。なぜだろうか。実感が追いついていないのだろうか。それとも、俺に余裕がないだけだろうか。
いずれにせよ、俺が拒絶したら自殺でもしそうな有様に見える。少なくとも、うんとは言えない。
「母さん、いま言っても信じられないかもしれないが、俺は母さんが嫌いな訳では無い」
「それなら、証拠をくださいな。わたくしを愛しているという証を……」
証拠って、どうすれば良いんだ。何をすれば、愛の証明になる。この状況で、言葉だけでおさまるはずがない。
ただ、母の求めている愛が何なのか、分からない。親孝行するってことではないだろう。それだけは分かる。逆に、それしか分からない。
そもそも、今みたいな状況を経験したことがない。当たり前のことだが。だから、正確に現状を理解できているかすら怪しい。
「レックス様、どうするの? 僕が言うことじゃないかもしれないけど、お母さんはかなり動揺しているみたい」
「あなたさえ居なければ……。いえ、違うわよね。分かっているのよ」
とりあえず、感情に支配されて攻撃的にならないのは、助かる。今ジュリアと母が殺し合いにでもなれば、終わりだ。
ただ、ジュリアが恨まれている可能性は、否定できない。どうする? 黙っていろとでも言った方が良いか?
でも、ジュリアは今の今まで、俺を支えようとしてくれていた。都合が悪いからと切り捨てようとするのは、どうなんだ? いや、少し母に頭を冷やしてほしいだけなのだが。ただ、相手が同じことを考えるとは限らない。邪魔だと言っているように聞こえかねないよな。
なら、できるだけ母と向き合いつつ、ジュリアの言葉にも対応する感じが良いか。
「母さん、父さんを殺したのは、悪かった。だが、必要なことだったんだ」
「知っているわよ。王家の指示なんでしょう? レックスちゃんは、逆らえないわよね」
「だからといって、王家のせいだとも言えない。俺が王でも、少なくとも父は殺そうとしただろう」
だからといって、息子に父を殺させようとしたかは怪しいが。だが、理屈は納得できるんだよな。要するに、ケジメというやつだ。ブラック家の問題なのだから、その家の人間である俺に責任を取れと。
それに、俺が王家の意思に従うと示すことも、大事なのだろう。自分で言うのも何だが、俺は強すぎるからな。暴走すると思われたら、大変なはずだ。
だから、国王が今の計画を実行したことは、理解はできる。心の整理は、まだ難しいが。
「でも、レックス様に殺させる必要はなかったと思うけど」
「そんなこと、どうでもいいのよ。わたくしのレックスちゃんさえ、傍に居てくれるなら」
「えっと……母さん? 自分が何を言っているのか、分かっているのか?」
今の言葉からすると、父が死んだところで、興味がないという意味に捉えられる。あるいは、俺がどんな状況にあるかも、どうでもいいとすら。
いや、そんな気持ちじゃないのだろうとは思う。ただ混乱していて、言葉が選べないだけなのだろう。とはいえ、困ってしまう。ジュリアも見ているのだから。母がろくでもない人間だと思われたら、大変だ。
まあ、原作では美容のために大勢のエルフを殺した悪人ではあるのだが。それでも、今は違うと信じたい。これ以上、家族を殺したくなどないのだから。
「レックス様、僕は離れてようか? なんか、大変そうだし」
今ジュリアが去ってしまうと、ひとりでこの状況に対処しなくてはいけない。だから、今だけは離れないでほしい。
いや、俺ですら困っている状況に、他人のジュリアが困らないはずがないのだが。それでも、誰かに傍に居てほしい。もう、心が折れそうだから。
「いや、いまさらだ。それに、迷われても困るからな。あまり離れるな」
「分かったよ、この家、かなり広いもんね。じゃあ、お言葉に甘えるね」
「わたくしの前で、他の女と話をしないでくださいな……」
母の瞳には、嫉妬の炎が揺らめいている。これは、冗談ではないな。息子に向ける目じゃない。一歩下がりそうになってしまうが、頑張って耐える。
「母さん、分かっているのか? 俺と母さんは、親子だぞ? 恋人じゃないぞ?」
「そんなこと、関係ないわ。わたくしには、レックスちゃんしか居ないのよ……」
まあ、父を殺した俺の責任ではあるのだが。ただ、どうすれば良いんだ。頭を抱えたい。
「大丈夫だ、母さん。俺は、母さんを嫌いになったりしない。だから、安心してくれ」
「レックス様、今はあんまり反論しない方が良いと思うよ。落ち着いてからにしよう」
「確かに、そうだな。母さん、とりあえず、何かしてほしいことはあるか?」
「キス、してくださいな」
母と、息子で? もう、俺は幼児ではないぞ? 思わず、ジュリアの方を見てしまう。首を横に振っている姿が見えて、少し冷静になれた。
ジュリアは、母の言葉を否定しない方が良いと言っていた。そんなジュリアから見てすら、断るべき要求なのだろう。ただ、完全に否定するのはまずい。だから、代案は必要だ。そうだな、キスとしか言われていない。なら。
「そうだな、ほっぺたならどうだ? それくらいなら、問題ない」
「仕方ありませんわね。だったら、抱きしめながら、してくださいな」
「分かった。ほら、こっちに来てくれ」
両腕を広げると、母はこちらの胸に飛び込んでくる。その上で、胸に頭をこすりつけてきた。甘えるかのように。愛を伝えるかのように。
正直に言えば、とても恐ろしい。母が何を考えているのか、理解できない。ただ、もう失いたくない。その気持ちだけが、母を受け入れさせていた。
「レックスちゃん、いつまでも、わたくしを愛していてくださいね?」
「もちろん、母さんのことは大好きだ。だから、捨てたりしない」
「そう……良かったわ。レックスちゃん、愛しているわ。どんな男よりも、ね?」
どこか、粘りつくような視線を感じる。言い回しからしても、男として見られているのだろう。実の息子を。もう、どこかおかしくなってしまったのだろうな。
「ありがとう。嬉しいよ。母さんが愛してくれるなら、力になる」
「レックスちゃんが望むこと、なんでもしてあげるわ。わたくしを求めてくれる限りは」
流し目をしてくるあたり、想定しているのは色の方面だろう。胸が痛くなってくる。
「とりあえず、今はゆっくり休んでくれ。きっと、母さんは疲れているんだ」
「仕方ありませんわね。また、すぐに会いに来てくださいね? そうでなくては、わたくしは……」
俺は、きっと母を壊してしまったのだろう。そんな考えが頭に浮かんで、妙に納得できた。これが、俺の罪なんだ。だから、受け入れることが、俺の責任なんだよな。誰か、そうだと言ってくれ。




