第二話 説得
「痛い…」
私は頭を押さえてしゃがみ込んだ。目の前にいる先輩に殴られた頭がちょっとくらくらする。右手にバインダーを持ってたから左手で敬礼しただけなのに、なんで殴られたのかよくわからないけど、とりあえず私はすみませんって謝った。
そしたら先輩は呆れた目で気をつけろよ、と言って中庭から立ち去ってしまった。
…あの先輩には一生敬礼しないほうがいいのか。
「マジ殴りじゃん」
そうつぶやいて、一人になった廊下中庭で少し転がった。…頭を押さえながら。
横に伸びた雲が穏やかに空を通り過ぎて行った。
「御法川さん」
突然、後ろから名前を呼ばれた。発生源を探すために、私は頭を押さえながら起き上がって振り向くと、そこには少し息を切らせた乃位くんがいた。やっと大隊長の話が終わったのだろうか。
私を探しているのなら、きっと調査部隊の話なんだろうな。そう思いながら私は乃位くんを見た。
「殴られたの?さっき通った隊員の人、ちょっと機嫌悪そうだったけど」
ピクッと私の肩が動く。
乃位くんの第一声がちょっと意外なことで驚いた。まあ、普通の人ならこの状況に心配ぐらいはするんだろうけど、てっきり、乃位くんのことだから参加許可しないとか開口一番に言うって思って身構えていた。多分、憧れの大隊長に任務を任されたから、機嫌がいいだけなんだ。
個人的には、任務というより、おつかいに近い頼み事だと思うけど。
「あと、探した」
「あー、先輩と話してたんだ。敬礼したら殴られちゃった。敬礼無理系の人だったみたい。」
あははと私は頭を押さえながら笑った。そうしたら、乃位くんはさっきの先輩と同じ顔をしてため息をついた。
「御法川さん、敬礼は左手でしたら相手に無礼な態度を取っているのと同じになるから。だからその人は殴ったんだと思うけど」
んん、と私は首を傾げた。
乃位くんは私が左手で先輩に敬礼してしまったことを見ていない。また、私はまだ何にも言っていない。それなのに、なんで乃位くんは私が左手で敬礼したことが分かったのだろうか。
なんて私が探偵気取りで考えていると、ぽんっと答えにたどり着いた。
今日乃位くんに敬礼したかも。
キッと私は乃位くんを睨む。
「…それって、朝の時間で私が左手で敬礼してたの、知ってた上で黙ってたんでしょ」
あの拳は結構痛かった。
前回の敬礼で乃位くんは気づいてたはずなのに、なんでおしえてくれなかったのだろうか。
「そうだけど?」
何でもないように乃位くんが答えた。
その言葉にちょっとカチンときて、私は胸ポケットにあったボールペンを乃位くんに投げつけた。当然、相手は運動神経抜群の小隊長なのでよけられてしまう。アメリカのアクション映画のような華麗なる躱し方だった。
くそ、こんなところで優秀小隊長風を吹かせやがって。
「なんで投げるの」
乃位くんが顔をしかめる。
「なんで、じゃないし!あの時乃位くんが教えてくれたら私殴られなかったのにさあ」
もー、と笑いながら怒ると乃位くんは、複雑そうな顔をして困ってしまった。
なんかかわいい。いつもそんな感じだったらみんなに怖がられないだろうと思った。
不機嫌そうな顔で乃位くんが口を開く。
「知らないよそんなの。それよりさ、大隊長から頼まれたんだけど、」
*
「私、乃位くんに何言われても絶対に行くから」
楓苑の声を遮るように、彼女が言った。楓苑は、彼女の真剣な双眸を見やって、頭を悩ませた。
梃子でも動かないみたいだな。
楓苑は彼女に最善の説得をするために、覚悟を決めた。
「君の意志は分かった。でも、僕の話を聞いてほしい。」
まずは、話を聞いてもらわないと始まらない。
「うん、いいよ」
紬は二つ言葉で承諾した。楓苑は一度、時計に目をやってから軽く息を吸う。
今から話すことは本来なら絶対に伝わってはいけないことだ。でも、彼女を止めるためなら僕は、大隊長から怒られたってかまわない。
斜めの太陽が、ハコを使って彼らに大きな影を作った。少し視界が暗くなる。
「実は、今までアメリカや中国、インドなど数々の国が調査に乗り出したけど、誰一人として安全に帰ってきていない。だから、ハコの実態ってほとんど分かっていないんだ。」
名高い研究員の紬でさえ知らないハコ調査の実態。その姿は、あまりにも悲惨なものだった。
「今までハコに入っていった調査隊員達は、中にいる生物に殺されるなどして少なくとも四割は死んだ。生き残った人は八割がハコの中にしか存在しない例の原因不明の病気に今もむしばまれている。残りの人達も精神や体に大きな傷を負ったまま。ハコの奴らは、戦闘能力が高くて、中途半端な小隊じゃ全滅してしまうほど危険だ。前線なんて死に役。君なんかじゃ四肢どころか、命すらも助かる可能性はない。だから悪いけど、戦闘になった時、僕たちの隊は君を守らない」
話を盛っているわけではないが、第一小隊に人情がないわけでもない。それほど調査隊の調査は危険なのだ。もし、戦闘能力に長けたハコの生物に出会ったとき、第一小隊でも犠牲は免れないことは明白だ。そんなとき、戦闘能力は一般人と変わらない紬が入るとかえって足手まといになりかねない。
「うん、そうだね。私のことなんか気にしないでいいよ。」
しかし、話を聞いても当の紬は恐れる素振りを見せることなく、楓苑に頷く。その言葉は強がりでも、怒っているのでもなく、本心だということが彼女の表情から推測された。
これは思ったよりも厄介事だぞと勘が語る。
「自分の立場理解してるの?君は特別にこの施設に配属されているだけだ。目的は知らないけど、普通は参加なんて容易くできないから。…それに君はさ、人類にとってとても大切な人間だ。君は僕とは違ってこれからも大きな研究成果を出すかもしれないのに、もっとたくさんの人を救えるかもしれないのに、」
言葉が詰まり楓苑は拳を握りしめた。
紬から返事はない。ただ、楓苑を見つめていた。
「君はこんな所で死んだらダメなんだ。自覚してくれ」
話すごとに、言葉に感情がのってくる。楓苑はそれを自覚してはいたが、今更止めるすべはなかった。
「それは、命令?」
紬が首を傾げる。
「…違う。これはお願いだ」
何を言っているのか自分でも理解できないまま、楓苑が答える。
自分が今どんな表情をしているのかもわからない。ただ、紬を止めようと必死になっていることは自覚できた。恐らく自分は必死のお願い、をしているのだろう。
紬が地面からゆっくり立ち上がる。
「あのね、乃位くん。」紬が歩を進める。「私は、ほんとに死んでもいいから、ハコの中に行きたい。デテニィを開発したのなんて、そのためだし」
そして楓苑の目の前に行くと、微かに儚げな顔をして微笑んだ。
その表情は、悲しみ、哀れみ、怒り、そして僅かな喜びを纏っているように感じた。
「調査部隊の皆が死ぬ覚悟をして、自分の命を費やしてでもいいから、ハコの恐怖から人を救いたいって気持ち、すごくわかるの。憧れ、なのかな。皆同じ目をしてる」
その言葉に思わず楓苑は自分の瞼を触った。
自分も、隊員たちと同じ目をしているのだろうか。
「それにね、」紬は話を続ける。「ハコの中にいる生き物の体から複数個出てきて、小1時間で灰になっちゃう石ってあるでしょ。それに関して私、今新しい研究に取り組んでるの。」
紬はそこで言葉を止めた。
知りたい?と聞かれた気がして、策に乗るのは少し気に食わないが、好奇心には勝てず楓苑は何それ、と聞いた。
「灰になる前の石をデテニィと正確な割合で混ぜてから色々したら薬ができることが分かったの。特定の人が罹っている特別な薬のね」
「特定の人が罹っている、病?」
楓苑が眉を寄せる。
少し考えてから楓苑はハッと顔を上げた。
「もしかして、例のハコの中でしか罹らない、あの?」
「正解!」
グッと紬が親指を立てる。
楓苑は思わずため息を出した。彼女はまた人類を救う鍵を作ったのだ。ハコの中でしか罹らない不治の病とも言われるあの病の薬を。
「…僕に教えてくれたら、代わりに作る」
「ダーメ。石は貴重なのに、変に他の人に任せられないよ。失敗したらどうするの?」
「……」
反論もできずに楓苑は口を噤む。
しばらく考えを巡らせたのち、はあ、とため息をつきながら空を仰いだ。
説得は無理らしい。
「…わかった。じゃあ約束して、御法川さん。」
「いいよ」
にこっと紬が笑う。
「常に小隊長の僕が見える範囲にいて。僕の許可なしに下手な行動はしないで。約束守れないなら、参加は禁止」
コクコクと紬は頷いていたが、すぐに堪えきれずに噴き出して、笑いだした。
「あははっ。お母さんみたいだね、乃位くん。いいよ、約束守る」
ふふっと笑いながら紬が承諾する。
笑う紬を見て楓苑は微かに赤尾に任されたことを達成できなかった自分を悔いた。
「…ありがとう、乃位くん」
「なにが?」
紬の言葉に楓苑が少し首を傾げる。
「だってさ、これで私、ハコの中に行けるんだもん。ありがとう」
穏やかな笑顔を浮かべる紬に楓苑は、それ言うの二回目。という言葉をギリギリのところで飲み込んだ。
それからすっかり空には星々が輝き始めたので、二人はどちらかともなく、中庭を出て寮へ帰り始めた。
*
「あれ、乃位くん、寮行かないの?」
寮の前で足を止めた紬が乃位に声をかける。
楓苑が寮と反対の方向へ歩き出した時だった。
「ちょっと寄るところがあるから」
振り向かずに楓苑は答える。
「え、なになに。私も行きたい」
「……」振り向いて楓苑が顔をしかめる。「なんで」
「いいじゃん。私今暇だからさ」
「勝手にすれば」
再び前を向いて楓苑が歩き始める。それを紬は走って追いかけた。
———ハコの調査まで、あと7日———
「ハコのメモリー~無名の調査隊員とその記録~」第二話を最後まで読んでくださってありがとうございます!
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