3-18 羅刹
巡行狼車の営業所にいました。
もう十五分以上も僕たちは待たされています。
待合室の椅子に座っていましたね。
レドナーがいら立ったように、右足を貧乏ゆすりしているっす。
事務員の話では、ガゼルは巡行に出ているとのことです。
もうすぐ帰ってくるということなんですが。
レドナーが眉をひそめて言いました。
「おいテツト、他のスティナウルフじゃダメなのか?」
「ダメっす。他のスティナウルフは、ヒメとイヨの匂いを知りません」
僕は両手を膝に置き、呼吸を整えます。
営業所には待機をしている予備のスティナウルフが二匹ほどいますね。
ガゼルが到着したら、代わりに一匹が巡行に出るようで、いま馬車につながれています。
ふと、営業所の扉が音を立てて開きました。
男性の事務員が出て来て、僕たちに近づいたっす。
「君たち、困るよ。いきなり来てスティナウルフを貸してくれなんてさ」
「うるせーぞ、貸してくれ! こっちは緊急事態なんだ!」
レドナーが吠えるように言いましたね。
「すいません、お願いします」
僕も頭を垂れたっす。
事務員はポケットから紙タバコを取り出して、マッチで火をつけます。
「それにしても君たちの格好、ズタボロじゃないか。血まで出ているぞ? 今すぐ病院に行った方が良いんじゃないか?」
その通りです。
特に僕の胸の傷は深く、じんじんと痛みがありますね。
出血は止まっていません。
レドナーの頬には、めり込んだような傷があり大きく腫れあがっています。
たぶん頬骨が折れていますね。
彼が弱ったように言ったっす。
「誰かヒールを使える人はいねーのか?」
「今はいないよ。スティナウルフのシンリィかジーナなら使えるんだが。巡行に出ているから戻って来るまで待つしかないよ」
「くそったれ!」
自分の膝を叩くレドナー。
僕はため息をついたっす。
事務員さんはタバコの煙をぷかぷかとくゆらせます。
「とりあえず、スティナウルフの貸し料金は払ってもらうからな」
「後払いで頼むぜ」
「それはいいけど、君たち、本当に無茶するのはやめなさい」
「うるせー!」
レドナーがわめくように言いましたね。
荷馬車の音がして、それを引いたスティナウルフが営業所に入ってきます。
最近出来上がったのか、大きな口輪もしています。
僕は顔を向けて立ち上がりました。
「ガゼル!」
(ん? テツトか。どうしてここに来ている?)
ガゼルが怪訝そうに眉をひそめたっす。
こちらに近づいてきます。
事務員がタバコを灰皿でもみ消しました。
「いまガゼルから馬具をはずすから、待っていなさい」
「早くしてくれ!」
レドナーも立ち上がっています。
事務員は御者のおじさんに事情を説明しました。
二人でスティナウルフから馬具をはずしましたね。
口輪もはずしました。
僕はガゼルに言ったっす。
「ガゼル、助けてくれ」
(どうした? テツト)
「ヒメとイヨが攫われたみたいなんだ」
ガゼルは鼻っ面にしわを寄せました。
(何があった?)
「おい、説明は後だ!」
レドナーが言って、ガゼルの背中によじ登ったっす。
事情を察したのか、ガゼルは背を低くしてくれました。
(テツトも乗れ!)
「頼む」
二人でガゼルの背中に乗ります。
僕が前でした。
ガゼルは空中に鼻をひくつかせて匂いをかぎ、それから歩き出しましたね。
(テツト、ヒメのところに行けばいいんだな?)
「ああ、頼む」
(ヒメは花のような匂いが濃いからな、分かりやすい。しかしこの方角だと、サイモン山か?)
どうやらサイモン山の方角のようです。
二人はどこまで連れて行かれたんでしょうか?
僕とレドナーはガゼルの背中の毛をしっかりと握りましたね。
「気をつけろよー、お前たち!」
事務員が声をかけてくれたっす。
営業所を出て、ガゼルが走り出しました。
すごいスピードです。
地面を疾走するガゼル。
流れゆく町の人々の顔が驚きに染まっていたっす。
振り落とされそうなほどの揺れでした。
僕とレドナーはガゼルの背中にしがみつきましたね。
途中、ガゼルが聞いたっす。
「ぐるぅ」
(テツト、何があった? なぜそんなに傷だらけなんだ?)
僕はガゼルに聞こえるように、叫ぶような声で事情を説明しました。
ヒメのためにレドナーと一騎討ちをしたこと。
戦いの中で傷だらけになってしまったこと。
戦闘中にヒメとイヨがどこかに行ってしまったこと。
おそらく、何者かに攫われたという予想。
ガゼルが笑うように口を鳴らしたっす。
「ぐるるぅ」
(レドナーが悪いな)
「う、うるせー!」
レドナーが恥ずかしそうに叫びました。
(全く、厄介ごとを持ってきおって)
ガゼルはそう言いながらも、どこか愉快な声色でした。
訂正、声ではなく念ですね。
それから走ること三十分ほど。
サイモン山に入り、ガゼルは軽々と坂を駆け上がって行きます。
川を飛び越え、木々の合間を突き抜けて、獣道をものともせずに走りました。
ガゼルが眉をひそめて言ったっす。
(おかしい)
「どうした!?」
僕が聞きます。
(この道の先にあるのは、以前我らが巣としていた場所だ)
「そうなのか!?」
(ああ)
開けた地面に出ました。
洞窟前に人々の姿があったっす。
ガゼルが足を止めます。
僕とレドナーは飛び降りましたね。
立っている女性が四人いて、長身の男性も一人いました。
長身の男性はバンスと一緒にいた人です。
女性二人がヒメとイヨをおんぶしているっす。
人々のうちの一人、日本でいう着物を着た女性がこちらに近づいてきました。
ロナード王国にも着物があるんですね。
初めて知りました。
鮮やかなオレンジ色の長い髪。
女性にしては背が高いっす。
その片手には男の首がありました。
なんと。
バンスの首です。
「おや? スティナウルフではございませんか。セトラ山で絶滅したと聞いていましたが、なぜここにいます?」
女性は細長いキセルを持っていますね。
キセルの真ん中には青い石がついています。
ヒメの杖と同じように、キセルは魔力を増幅させる武器ということでしょうか?
レドナーが眉をひそめて近づきました。
「おい、お前誰だ!?」
「あい。あたい、サクアでござんす」
「サクア? 俺は傭兵だ。そこにいる天使さまとイヨは、俺たちの仲間だ。返してくれ!」
レドナーがヒメを指さします。
サクアという名前らしい着物の女性は、三日月のように鋭い笑みを浮かべましたね。
カラカラと笑ったっす。
「男傭兵? それそれは、女の敵にございます。ここで会ったが運の尽き。なれ、あたいの奴隷になりますか? それとも戦って死にますか? 選択する権利をあげましょう」
「な、何言ってんだお前?」
ぎょっとした声をあげるレドナー。
僕の隣にいるガゼルが慄いたように吠えました。
「ぐるるるるぅ!」
(テツト、こいつはダメだ! 逃げよう!)
ひどく怯えた声ですね。
僕は小声で聞きました。
「ガゼル、あの人を知っているのか?」
(前に住んでいたセトラ山で見たことがある。あいつはチアレナプトという町の女傭兵、狂人の魔法使いだ)
「セトラ山? チアレナプト?」
聞いたことのない地名っす。
疑問を思い浮かべながらも、僕は表情を険しくしました。
サクアを凝視します。
彼女がバンスの首を地面に落としました。
「さあ、傭兵の男ども。選択するのがよろしいかと。奴隷ですか? それとも死でございますか?」
レドナーが両手を開きましたね。
「待て! その前に聞きたい!」
「何でござんしょう?」
「お前が、天使さまとイヨを攫ったのか?」
「くっかっか、そうだと言ったらどうします?」
「か、返してくれ!」
「嫌だ、と言ったら?」
レドナーの表情が強張って行きます。
サクアの唇が妖艶な弧を描いたっす。
「さあ、あたいの奴隷になりますか?」
「な、ならん!」
「では、死ですか?」
「ちょっと待ってくれ! 言っている意味が……」
「三秒待ちましょう。奴隷か死です。さあどうぞ」
「ま、ま……」
「三」
「待って……」
「二」
「待ってくれ!」
「一」
「くそったれ!」
剣を抜くレドナー。
「ゼロ、エクスプロージョン」
サクアのキセルが赤い波動を帯びます。
空中から炎の柱が降りました。
地面が爆発したっす。
ズドン!
瞬間、僕たちは回避するために横に跳びました。
巨大な爆風があり、吹き飛ばされて地面を転がります。
焼けこげる地面の上を、草履をはいた女性が近づいてきます。
「さあ、拷問の始まりです」
カラカラと笑うサクア。
僕は身を起こしました。
ガゼルが寄ってきます。
(ダメだテツト! 逃げるぞ!)
僕は言い聞かせるように叫びました。
「ガゼル! 領主館まで走って、ミルフィ様とフェンリルを呼んできて欲しい!」
サクアがまた笑いましたね。
三日月のような赤い唇っす。
馬鹿にしたように言いました。
「フェンリル? あの、尻の青い下級魔族でございますか? この山の下の町にいるのでしょうか?」
ガゼルが一歩前に出ます。
(フェンリル様を馬鹿にしたな! 許さんぞ!)
「くっかっか! 尻の青いフェンリルを連れて来てごらんなさい。たかだか召喚獣のデーモンに勝てなかったフェンリル。その青い尻を、あたいが草履で踏んでさしあげます」
ガゼルがぐるるっと吠えましたね。
(我が牙の錆にしてやる!)
飛び出そうとするガゼルの体を、僕は両手で押さえたっす。
「待ってくれ、ガゼル!」
(離せテツト!)
サクアがこちらにキセルを向けていました。
スキル唱えます。
「あたいのキセルに来たれり火の精、舞って踊って蹂躙せすべし。サクア・サンクライアが歌いあげる。古の力をここに……」
何ですかねこの呪文は?
キセルが黄緑色に光っているっす。
見たことのない波動の色でした。
ガゼルが僕の体に覆いかぶさります。
「ガゼル!?」
(テツト、死ぬな! 詠唱スキルだ!)
その時っす。
「真空斬り!」
サクアの背中を切り裂く黒い影。
「ぬぐぅっ!」
彼女が悲鳴を上げて振り向いたっす。
詠唱を中止しました。
黒い影、レドナーが高々と笑いましたね。
「降りかかる火の粉は払いのけて当然! 立ちはだかる壁は破壊すればいい! 全ては俺の修行の肥やし! お前、俺の株を上げる糧になれ!」
株にこだわっているっす。
レドナーらしいセリフだと思いました。
僕はガゼルの体を押しやって、真剣な顔をします。
「ガゼル、ミルフィ様とフェンリルを頼む」
(ダメだ! どんなに飛ばして走っても、連れてくるまでに一時間はかかる!)
「大丈夫だ。行ってくれ」
僕は優しい顔でガゼルの頭を撫でましたね。
「お願いだ」
(くっ、死ぬなよ! テツト!)
ガゼルが歩き出し、走って行きます。
山を下って行きました。
目の前ではサクアとレドナーが戦っているっす。
キセルと剣がぶつかり合い、激しい音が響いていますね。
僕は両手を構えます。
力を込めて、無を意識しました。
ドロリと胸から血が流れましたね。
出血多量でした。
それでも魔力が漲溢し、鉄拳も発動します。
……ガゼルが帰って来るまで、持つでしょうか?
分からないけどやるしかないっす。
僕はサクアの背後にひっそりと近づき、足払いをかけました。
「ぬぅっ!」
サクアが足をばたつかせたっす。
レドナーがニヤリと笑って剣を振りかぶります。
「真空斬り!」
「幻惑回避」
サクアが唱えたっす。
僕は視界がぐらぐらとして、周りの地面が三つにぶれて見えました。
レドナーも同じようで、振り下ろした剣に力はありません。
サクアが僕たちから距離を置いた場所に出現します。
まるでワープっす。
彼女が言いました。
「二人がかりとは卑怯でございます。こちらも、助っ人を呼ばせていただきたく存じます」
右手を突き出しましたね。
「召喚、グリフォン」
キセルが黒い波動を帯びて、地面に黒い魔方陣が現れたっす。
光に包まれて、翼の生えた茶色い獣が現れました。
このスキルは辞典にも載っていましたね。
スキル、召喚。
グリフォンはAランクっす。
「ギャギー!」
グリフォンが鋭い声を上げて、翼を広げて襲ってきます。
カギ爪をこちらに向けました。
「くそっ、邪魔くせえな!」
レドナーが剣で防御します。
その間にもサクアがキセルをこちらに向けて、また呪文を詠唱します。
「あたいのキセルに来たれり、火の精……」
やばいっす!
僕の背中に滝のような汗が流れました。
詠唱を止めないと!
「炸裂玉!」
僕が唱えると、右手に赤い玉が出現したっす。
サクアに向けて投げつけました。
「ギャギギー!」
グリフォンがばさりと舞って、炸裂玉を受け止めましたね。
召喚獣の前にはピンク色のバリアが現れています。
グリフォンはバリアのスキルを使ったようでした。
ズゴンッ。
爆風が起こりましたが、サクアには届きません。
その間にも、彼女は詠唱を完成させていきます。
「……古の力をここに具現化させたもう。奏でよ!」
やばい!
どんなスキルが来るんでしょうか?
死にましたかね。
僕たち。
「シールドバッシュ!」
一瞬、何が起きたのか分からなかったっす。
紫色の波動を浴びて、サクアがピヨピヨと頭を回しました。
詠唱は中断ですね。
彼女の背後にヒメとイヨがいたっす。
「んにゃん! 猫鳴りスローニャン!」
ヒメの持つロッドが青い光を帯びました。
ぽんっと白い煙が起こります。
サクアがオレンジ色の毛並みの猫に変身したっす。
洞窟の前に目を向けると、女性三人と男性一人が倒れていますね。
ヒメとイヨが気絶から回復し、周りの人たちと一悶着あったようです。
その人たちを倒して、こちらに駆けつけてくれていました。
「テツト、その鳥みたいなのを倒して!」
「テツト、倒すニャーン!」
イヨとヒメが叫びます。
勝どきムードでした。
「分かった!」
僕は唱えます。
「へっぽこパンチ!」
オレンジ色の波動をまとう拳。
グリフォンの腹に向けてパンチを放ったっす。
「ギヤァァアアアー!」
悲鳴を上げる獣。
「雷鳴剣!」
レドナーが大技を唱えましたね。
僕はステップを踏んで避難しました。
ゴロゴロと鳴る空。
レドナーが剣を振り下ろし、雷が落ちます。
ドーンッ!
「ギヤアアァァアアアアアア!」
グリフォンの背中に大穴が空いて崩れ落ちます。
「よっしゃあ、雑魚雑魚雑魚雑魚! 俺の株は急上昇だぜ!」
不敵な笑いを浮かべていますね。
ヒメとイヨは猫をぶっ叩いていました。
「ナーオ、ナーオ!」
か細い声を上げながら逃げまどうオレンジ色の猫。
イヨは容赦なく剣を振っています。
「すばしっこいわね!」
「成敗してやるにゃんよ~!」
ヒメも思いっきりロッドを振り下ろしましたね。
やがて猫鳴りスローの効果が切れたっす。
ぽんっ、と白い煙に包まれて着物姿のサクアが出現しました。
「やってくれたでございます!」
キレたような表情ですね。
体が切り刻まれて、背中と足からは出血しています。
僕たちは四人でサクアを取り囲むように展開しました。
ヒメがロッドを突き出します。
「もう一発くらえニャン! 猫鳴りスローニャンよ!」
「リフレクトバリア」
サクアのキセルが青い波動を帯びましたね。
彼女を包むように青いバリアが出現し、スキルが跳ね返ったっす。
「んにゃん!?」
ぽんっと白い煙が上がり、ヒメが白猫に変身しました。
日本で飼っていた時の姿と同じでしたね。
懐かしいっす。
今は郷愁にひたっている場合ではありません。
イヨが叫びます。
「テツト! やるよ!」
「分かりました!」
イヨの言いたいことを瞬時に理解しました。
僕は強打を狙うために集中します。
シールドバッシュを当てるために、イヨがサクアに接近したっす。
レドナーも攻撃の機会をうかがっています。
ふと、サクアが右手を頭上に掲げました。
歌うような口調で言います。
「一気に吹き飛ばしてさしあげましょう。エクスプロージョン!」
キセルが赤く光り、サクアの頭上に炎の柱が降りたっす。
自分に向けて攻撃を!?
僕はぎょっとしました。
リフレクトバリアで跳ね返る炎の柱。
そういうことか!
爆炎がサクアの周囲を襲います。
僕たちは吹き飛ばされて、地面を転がりましたね。
後ろの林には火の手が回り、火事が起きているっす。
僕は胸の大傷を焼かれて、死ぬほど痛いっす。
それに服が焼けて、燃えています。
地面に体をこすりつけて、何とか火を消しました。
もう、体力の限界です。
痛い。
痛い、痛い。
出血多量です。
疲れた
ダメだ。
もう。
どうすればいいんでしょうか?
頭の中に声が響いたっす。
――求めよ。
何すかねこの声は。
――狂気の力を求めよ。
助けてくれるものなら助けて欲しいっす。
こちらに近づいてくる草履の足音。
見上げると、サクアがいましたね。
カラカラと笑い声を上げています。
「なれ、名前は何と申す?」
「……テツト、す」
「おお! それはそれは、バンスの愛弟子ではございませんか。今日、あたいと会ったが運の尽き。地獄で師匠と再会させてあげましょう」
……。
「な、何を、言って?」
サクアがキセルを向けます。
「さあ、炎に焼かれなさい。ファイアーアロー」
赤い波動を帯びるキセル。
ファイアーボールの一段階上のスキルですね。
辞典に載ってたっす。
僕にトドメを刺すには、Dランクのスキルで十分ということですね。
悔しいっす。
終わった。
僕とサクアの間に割り込む白い肌の女性。
「プチバリア!」
バリアでファイアーアローを防御してくれました。
大きな火の矢が放射状に四散しましたね。
イヨです。
彼女の黒いワンピースも、炎に焼かれてボロボロでした。
「ふう、ふうっ、テツトはやらせない!」
「困ったもんでございます。あたい、おなごを殺す趣味はありやせん。しかしさっきは、良くも切り刻んでくれました」
サクアが顔を歪めます。
イヨが覇気を込めて叫びました。
「かかってきなさい!」
「かかってくるも何も、一瞬でけりをつけてご覧に入れましょう」
イヨの息が荒いっす。
僕が。
僕が何とかしなきゃ。
両手を地面につけて立ち上がろうとします。
胸が痛んで、傷口からドロッと血が流れました。
「あぐぅっ」
ああ。
気を失いそうです。
「テツト!」
イヨの心配そうな声。
ちらりとこちらを振り返っています。
可愛いなあ。
大好きです。
黒髪に真っ白い肌。
若干のつり目。
僕の好みに。
ドストライクです。
サクアが唱えました。
「雷帝!」
赤い光に包まれるキセル。
電流の大網がイヨを襲いましたね。
「キャアアァァアアアアア!」
その場に崩れて、イヨがびりびりと感電しているっす。
「アアウアアアァァァァアアアアア!」
大きな悲鳴を上げています。
イヨが死んでしまう!
この!
やらせ、ないぞ!
体に力を入れるんですが。
ダメです。
僕の目からは涙がつたいました。
何もできない。
イヨが攻撃を受けているのに。
もう力が出ない。
それが悔しくて。
悔しくって。
涙がこぼれました。
イヨを助けないと。
助けないと。
助けないといけないのに。
力が入らない。
僕が助けないと!
――狂気の力を求めよ。
また頭の中で声がします。
もし僕にまだ力が残っているのなら。
――体を憎悪に委ねるのだ!
どんな危ない力でも良い。
――羅刹となるのだ!
イヨが僕の名前を呼んでいます。
「テ、ツ、ト……」
顔だけこちらを向いて、涙をこぼしました。
「ご、め、ん、ね……」
――求めよ!
僕は……。
僕は。
イヨを助ける!
瞬間でした。
四肢が大きく膨らんで行きます。
服は破れました。
ネックレスもぶちっと千切れて、地面に落ちましたね。
熱い。
熱い。
体が熱い。
まるで火だるまになった気分です。
はあ、はあ、はあ、はあ。
体がどんどん大きくなっていきます。
心臓が。
ドクンドクンドクン!
壊れそうです。
サクアが眉を寄せて僕を睨んでいました。
「バーサクを習得していましたか。ランクはCですが、レアスキルでございます」
四肢が木の幹のように太くなり、両手は長く、ゴリラのように地面に届きました。
地面に立ち上がる赤い巨人。
サクアの唇が震えています。
「何でしょうかこれは。ゴーレムのような、はたまた、鬼のような姿でありんす。何というバーサクに対するスキル倍率の高さでござんしょう」
もう、何も分からない。
分からない。
僕の心は。
戦意。
狂気。
殺意。
憎悪。
右手を振りかぶり、女の顔面を狙います。
ゴウッ。
女が唱えたっす。
「幻惑回避」
僕の視界が揺れましたね。
しかし一瞬でした。
右拳は大地を削り、大穴を残します。
女が向こうにワープしていました。
もっと距離を取ろうとして、走っているっす。
僕は大きく跳んで、サクアの頭上から両手の拳を振り下ろしました。
「くっ、テラーバリア」
出現したバリアと僕の腕がぶつかったっす。
ガツンッ。
僕は彼女の前に着地して、巨大な両手の拳をムチのように振るいます。
ドンドンドンドンドンドンドンッ!
地面にいくつもの大穴が空いたっす。
女はバリアに守られていますね。
「これは……何と凄まじい力でしょうか」
女の言葉が意味不明のものに聞こえます。
もう何も。
分かりません。
殺す。
ただそれだけっす。
女が怯えたように息を吐いています。
「え、エクスプロージョン!」
僕の頭に降りる炎の柱。
僕は唱えました。
「サクレツダマ」
水色の波動を帯びる僕の瞳。
炎の柱は降りる前に爆発し、四散しましたね。
サクアの顔色が恐怖に染まっています。
「炸裂玉を防御に使った? いえ、玉を投げてはいません。これはまさしく超越スキル。いや、そもそもバーサク状態では、ボイススキルは発動しないはずでは……」
女が何かつぶやき、また踵を返して走り出しました。
逃げるようです。
逃がすはずありません。
ああ楽しい。
楽しいっす。
楽しいっすー。
僕は唱えたっす。
「サクレツサクレツサクレツサクレツサクレツサクレツ! ダマダマダマダマダマダマ!」
水色に何度も輝く僕の両目。
女の足元がドボンドボンと爆発し、その体が空中に吹き飛ばされました。
「ぬ、ぬぅああああああああああ!」
女の悲鳴。
女を目がけて僕は跳びました。
右手の拳を振ります。
「ヘッポコパンチ」
オレンジ色の波動に包まれる拳。
サクアの体をぶん殴り、叩き落しました。
ボキャッ。
骨が砕ける音がしましたね。
「ぬぎゃああああぁぁぁぁああああああああああああああ!」
悲鳴を上げて地面に叩きつけられる女。
僕は着地して近づいたっす。
女はぴくりとも動かないですね。
体があらぬ方向に曲がっています。
死んだみたいです。
興味を失いました。
僕は振り返り、次の目標を探します。
ウズウズします。
早く戦いたいっす。
虫とかでも良いんで。
お願いしたいです。
「んにゃん、テツト!」
「テツト!」
女が二人来ましたね。
乳白色の髪の女が、黒髪の女に肩を貸しています。
僕は口の端をつりあげました。
戦う相手を見つけたんです。
さあ、戦いましょう。
僕は右拳を振り上げます。
「テツト!? ダメエエエエエエエエ!」
焦ったような黒髪の女。
ダメ?
なぜでしょうか?
分かりません。
僕には。
もう。
分からないんですよね。
イヨのことが。
大好きなはずなのに。
殺したくてたまらないんです。
ごめんなさい。
イヨ。
ごめんなさい。
イヨが1人で歩き出し、僕の左手に抱きつきます。
ぼろりぼろりと流れる涙。
「テツト、戻って。戻ってきて」
ダメっす。
心が言うことを聞きません。
「いっぱい、いっぱい好きな美味しいご飯、作ってあげるから。そうだ、今度デートにも行こう。たくさん、たくさん楽しいから」
イヨ。
どいてください。
殺してしまいます。
殺したくないっす。
「テツト、テツト。お願い、元に戻って」
イヨが僕の左手にキスしたっす。
体が安らかな気分に包まれていきます。
ああ。
そうなんです。
僕はイヨが。
好きなんです。
両目に熱いものがこみ上げました。
頬を伝って流れ落ちます。
イヨ。
助けに来たよ。
いま、助けに来たよ。
僕、上手く助けられたかな。
そうだと良いな。
大好きです。
右手から力が抜けました。
乳白色の髪の女がロッドを振ります。
「ここは! 猫鳴りスローだニャン!」
ポンッと白い煙に包まれて、僕は猫に姿を変えました。
あれ。
僕は何をしていたんだっけ?
ひどい疲れがありますね。
動けません。
意識がゆらゆらするっす。
イヨが僕の体を抱きしめたっす。
「テツト! 正気に戻った?」
「ミャウ~」
僕は猫の鳴き声を上げました。
……。
大丈夫ですよ。
僕はいつも通りです。
ヒメとイヨのことが大好きなネクラの柔道男です。
やがてまた、ぽんっと白い煙に包まれて僕は元の人間の姿に戻りましたね。
全裸です。
服をどうしたんですかね?
分からないっす。
イヨにハグされちゃっています。
彼女はシクシクと泣いていますね。
「テツト、助けてくれて、ありがとう、ありがとう、ごめんね、ごめんね」
「イヨ」
「何?」
「帰りましょう、僕たちのアパートに」
「うん!」
ヒメが僕の隣に膝をついたっす。
ロッドを向けて唱えます。
「チロリンヒールニャン、チロリンヒールニャン」
チロリンチロリンと音が鳴り、僕は回復しましたね。
以前よりも回復力が上がっています。
修行をして、ヒメのスキル倍率も高くなってきているようです。
しかし疲れは大きく、もうダメでした。
回復するほどに眠いっす。
意識が閉じていきます。
最後の力を振り絞って、僕は言ったっす。
「イヨ」
「何?」
「後をお願いします」
「分かった!」
僕は目をつむり、暗闇の中に意識が落ちていきました。
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