第6話 夏のあの日の温泉で寸前まで
「一緒に家族風呂に入ろう」
どうして、そんなことになったのか分からないが、私はそう言った。
あの夏、私と彼は箱根の温泉に行った。
あいつは覚えていないと思う。その日は私の誕生日だった。一大決心をした。
私の胸は、朝から苦しくなるほどドキドキしていた。
ロマンスカーに乗り込み、二人並んで座って、何をもう話したのか覚えていない。
でも、ドキドキと楽しさできっと私はどうかなってしまいそうだったと思う。
前の日、ドキドキし過ぎて私は眠れず、とても寝不足だったことを覚えている。
温泉の暗くひかる磨かれた廊下に二人で立って、寸前まで行った。
結果的に、彼の頭の中で、「あの時一緒に入って、俺がタオルをバサッと剥ぎ取っていたら?」という妄想に、彼は一生とらわれることになった。
なぜなら、最後の最後の瞬間に私がやーめたとなったから。
「入らなくていいぞー。」という声がどこからか頭の上からしたのだ。
「ねえどうなったんだろう?」
あいつに私は聞かれた。相当な悔恨があったらしい。
「あー、一緒に入っておけば良かった。」
心底そう思っているらしく、そう言われた。
そんなことは絶対に起こらなかった。私が最後に、その時じゃないと選んだのだから。
結果として、彼の中では、永遠に「夏の美しい青春の思い出になった」らしい。
酔っ払った彼に、最後のお別れの夜にそう言われた。
確かに、彼は私のことを、まるで自分のものであるかのようなまなざしで見ていたと思う。
私の中では、あの声はどこからしたのか?というハッとするような感覚がはっきりと耳に残っている。
不完全燃焼で終わった恋の思い出だ。
出発する駅のホームでお互いに顔を見合わせた時のドキドキも、生々しく覚えている。
夏の温泉の素敵な暗くひかる板の間で、私は最後の最後で、彼と「ことを遂げる」ことを、結局は、完全に自分の意思で退けた。
もう少しで私たちの人生がプラトニックではなくなる瞬間について、お互いの思いがまるで違った。
あの別れの夜に、私はそれを知って、正直驚いたのだ。
あの別れの夜、私は相変わらず「可愛い」と言われていて口説かれていた。
私は口説かれながら、「あの時、何もなくて本当によかった」と思っていた。
親が貧乏だから、親の仕事が自慢できないから、結婚披露宴で親を自慢できないから、二番目と言われた私の全て。
私の全てをあなたに捧げる必要は、最初からなかったのだ。
あの夏の日の一瞬を思い出すと、
「入らなくていいぞー。」と言ったのは、私の亡くなった祖父だったような気もする。
癪に障ることに、支配者貧乏大魔神だったような気する。
そして、私の心は余計に恥ずかしいような、もやもやするような、何か表現できない思いに囚われてしまう。
あの日の、私の誕生日が刻印がされた温泉の入場券を見る。
一瞬で、あの夏の温泉の庭の匂いや、暗く光る磨かれた廊下に二人で立って、寸前まで行ったことを思い出してしまう。