第十話 姫と旅人
「二ヶ月近く前のことです。この地方を旱魃が襲いました」
レーテル姫は湖畔を見ながら静かに話し始めた。
初夏に入る前、このシューロン地方には雨の日が続く。それが作物への恵みの雨となるのだが、今年は全く雨が降らずに日照りが続き、作物に打撃を与えていた。
「このまま旱魃が続けば、作物は壊滅してしまいます」
村長や町長たちからの陳情を受けて、レーテル姫はとりあえず今年の税を半分に減らすことを約束し、足りなくなる食料に関しては兄のハルテ国王に援助を頼むことにした。
「失礼ですが、税金を減らすことや食料援助をレーテル姫お一人で決定されたのですか?」
「はい。もちろんフォーゲンたちにも相談はしましたが、最終的に私が決めました」
レーテル姫はニコッと笑った。
「当然ながら税収減は痛手ですが、困窮する領民を守るためには即効性のある施策が必要でした。それに今まで倹約してきたおかげでシューロン地方には蓄えもありましたので、国庫に納める分を差し引いても大丈夫だと判断しました。ただ、食料だけは備蓄が少なかったため、兄に頼るしかなかったのです」
シャスターの問いに、レーテル姫は明確に答えた。確かに自分で考えていなければ、ここまでスムーズに答えられない。
緊急事態に対して、大人でもここまで的確で早急な判断を下すことは難しいだろう。
シャスターは十二歳の少女をまじまじと見つめながら、改めて感心した。
「しかし、兄のハルテ国王は援助を拒否してきました。理由は内戦で食料が必要の中、こちらに回す余裕はないとのことでした」
シューロン地方はレーテル姫が治めている領土とはいえ、アイヤール王国の西側に位置しているため、ハルテ国王の陣営側に入っている。
その地方が困窮しているのに、全く援助をしないとはあり得ないことだった。
レーテル姫は何度も頼み続けた。
さらに、その間も座して待っていたわけではない。
レーテル姫は次兄のブレガにも援助を依頼した。
ハルテ国王と争っているブレガの領土と、シューロン地方は接していない。しかも敵対する陣営にある地方だ。
それでもレーテル姫としては、藁をもすがる気持ちで頼むしかなかった。
しかし、残念ながら、ブレガにも拒絶されてしまった。
「私は二人の兄から嫌われていましたから、仕方がないことかもしれません。兄たちには私への私怨ではなく、民のために援助をして欲しかったのですが、叶いませんでした」
レーテル姫は寂しそうに苦笑した。
「そんな困窮した状況の時に現れたのが、旅人の少年でした」
その旅人が泊まった宿屋は、シャスターたちが泊まった宿と同じだった。
宿屋の主人は、精神的に疲れているレーテル姫に少しでも休んで貰おうと、旅人を城に連れて来たのだった。
旅話が好きなレーテル姫は、早速旅人の話を聞こうとした。しかし、それよりも先に旅人が質問してきた。
姫さまがとても疲れ切っているように見えます。理由をお聞かせくださいと。
「隠す必要もないことでしたので、私はシューロン地方が日照りで、農作物が壊滅的な状況だということと、二人の兄に援助をお願いしたが拒否されたことを話したのです」
レーテル姫の話を一言も言葉を挟むことなく、聞いていた旅人だったが、話が終わるとレーテル姫に頭を下げて城から出て行ってしまった。
「見ず知らずの旅人に、身内の恥、強いては王国の恥を話してしまったことを私は後悔しました。つまらない話を聞かされた旅人は、呆れて出て行ったのだと思ったのです」
しかし、それは間違いだった。
旅人が出て行った後、バルコニーでぼんやりと湖畔を眺めているレーテル姫の視線の遥か先に、先ほどの旅人が現れた。
旅人は湖畔に立つと、両手を空に向けた。
何をしているのだろうと不思議に思って、そのまま見ていると、驚愕な出来事が起きた。
旅人が立っている場所を中心に青く輝いていた空が、みるみるうちに黒雲に覆われ始め、さらにスピン湖から四方に向けて厚い雲が急速に広がっていったのだ。
何事が起きたのか理解できなかったレーテル姫だったが、しばらくすると姫の頭に冷たいものが落ちてきた。
最初は数滴だったが、すぐに全身がずぶ濡れになるほどの大雨が降ってきたのだ。
「しばらくの間、私は雨に打たれながら放心状態でした。大喜びで飛び込んできたフォーゲンに声を掛けられ、我に帰った私は慌てて湖畔を見ましたが、すでに旅人はいませんでした。そこでフォーゲンに事情を話して、すぐに旅人をお連れするように頼みました」
旅人が雨を降らせた。
信じられない話ではあるが、確かにレーテル姫はその瞬間を見たのだ。
事情を聞いたフォーゲンは、レーテル姫の真剣な表情を見てその話を信じた。すぐに城の衛兵たちに命じて、旅人を探し始めたのだった。
しかし旅人は見つからなかった。
兵士を大幅に増やしてシューロン地方全域に捜索を広げたが、それでも見つからなかった。
「シューロン地方を救ってくれた旅人様にお礼を言いたかったのですが、行方が分からないままでした」
そこでレーテル姫は旅人の足掛かりを見つけるために、彼が何者であるかを調べ始めた。
雨を降らせたのは魔法のはずだと思ったレーテル姫は、城中にある魔法に関する本を読み漁った。
しかし、雨を降らす魔法が書かれている本など、一冊も見つからない。それどころか、どんなに強力な魔法でも人間が天候を操ることなど出来ないと書いてある。
レーテル姫は絶望感に襲われた。
しかし、そんな少女に助言をしてくれたのが、執事のフォーゲンだった。
一般の魔法の本に書かれていない種類の魔法もあること。
それらの魔法はレベル四十台から上の勇者級以上の魔法であり、普通の魔法使いでは扱うことは出来ないこと。
それらを教えてくれたのだ。
「そして、こうも教えてくれました。『シューロン地方ほどの広範囲の天候を操る魔法、雨を降らす魔法となれば、勇者級よりも更に上のレベル、それこそ神々の世界に存在するような魔法でしょう』と」
レーテル姫はそんな奇跡のような魔法が存在することに驚いた。
さらにフォーゲンは、雨を降らす魔法の系統は水氷系魔法であり、天候を操る奇跡の魔法を扱えるのは伝説や神話に登場する「五芒星の魔法学院」の一つ、水氷系魔法の総本山であるシーリス魔法学院、その学院の関係者の可能性が高いと、レーテル姫に教えたのだ。
それを聞いたレーテル姫の心は絶望感から一気に高揚感へと急上昇した。
そして、旅人……シーリス魔法学院の関係者の方へ会いたい気持ちがさらに高まったのだ。
それから暫くして、奇妙な噂がレーテル姫の耳に届いた。次兄のブレガ陣営に、とても高レベルな魔法使いが加わったというのだ。その魔法使いが水と氷を操って、ハルテ国王陣営の兵士たちを次々に倒しているらしい。
しかも、本人が自らを「シーリス魔法学院の後継者」と名乗っているとのことだった。
「雨を降らせてくれた旅人様がシーリス魔法学院の関係者……どころか、まさか後継者様!?」
レーテル姫としては、雨を降らせた旅人がシーリス魔法学院の後継者であり、ブレガ陣営の魔法使いと同一人物と考えてしまうのは当然だった。
すぐにでもブレガ陣営に赴いてお礼をしたい。
しかし、レーテル姫の立場ではハルテ国王の領土を飛び越えてブレガ陣営に赴くことは不可能だ。下手をすれば、ブレガ陣営と繋がっていると思われて、ハルテ国王陣営から攻撃を受ける可能性だってある。
「それで、村人たちは雨を降らした旅人のことを話さなかったのか」
雨を降らすほどの魔法使いをレーテル姫が、ブレガ陣営に送ったと思われては、レーテル姫の命も危なくなるからだ。
「私にあらぬ疑いが掛からぬように、村人たちは黙ってくれているのでしょう」
レーテル姫は申し訳なさそうに話すが、レーテル姫がそれだけ領民から慕われているということが分かる。
「だからこそ、私が直接お礼をすることは出来ないのです」
しかし、そんな中、自分の代わりに頼める人物が現れたのだ。
レーテル姫としては、イオ魔法学院のシャスターを見て目が輝いたのは当然のことだった。
イオ魔法学院とシーリス魔法学院、互いに伝説と言われている五芒星の魔法学院なら交流もあり、シャスターが旅人を知っていると思ったからだ。
しかも、シャスターもまた「五芒星の後継者」当人だったのだ。イオ魔法学院の後継者とシーリス魔法学院の後継者、お互いに知っているのは確実だろう。
「どうか、この手紙を旅人様……シーリス魔法学院の後継者様に渡して頂けないでしょうか?」
レーテル姫が手紙を差し出した。
おそらく、いつでも渡せるように書いておいたものだろう。
顔を少し赤らめながら必死になって頼んでいるレーテル姫を見て、カリンは内心で微笑んだ。
レーテル姫が、雨を降らせた旅人に恋をしていると分かったからだ。
「シャスター様、お願いします!」
十二歳の少女が好きな人のために、一生懸命にお願いしている、なんとも微笑ましい光景だったが。
「お断りします」
シャスターは素気なく断った。




