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兄との会話

 ぱらり、ぱらりと書類のめくられる音が執務室に響く。


 アレクサンドラはゆったりと長椅子に腰を落ち着け、用意されたお茶を口にした。仄かに花の香のするお茶はまろやかで飲みやすい。


 お茶を楽しみながら、ちらりとこの部屋の持ち主である兄のカルヴァンを盗み見る。向かいの席に座るカルヴァンは真剣な表情で、国から届いた書類の最終確認をしていた。書類の不備がなければ、これで正式に婚約破棄が成立する。


 新居の寝室でルーベンの逢引きの現場を押さえてから二か月。

 国の処理能力を考えればかなり早い。


 商談のため他国に出かけている両親の代わりに面倒な手続きをしてくれたのは当主代行を任されているカルヴァンだった。兄もうすうす気が付いていたのか、事情を聞いた時には唖然とした顔をしたがすぐに処理にあたってくれた。


 ハフィントン侯爵家の方でも改善されないルーベンの行動から婚約破棄になると覚悟をしていたのか、現場に踏み込んでから数日後には手続きを行ってくれた。そしてルーベンの父であるハフィントン侯爵から丁寧な詫び状が届けられ、慰謝料として決して安くはない金額を提示された。侯爵家の早い対応に、ルーベンの素行をずっと問題視していたのかも知れない。愛人を許容する社会においても、ルーベンの浮気癖は世間の常識を超えていた。


 18歳になって婚約が駄目になるとは思わなかったが、これはこれでもいいような気がしていた。


 ルーベンと一緒にいて楽しい思い出もあった。婚約を維持していたのは体面を保つのもあったが、幼い頃から一緒に過ごして確かな繋がりを断ち難かったのもある。


 あれほど彼と別れたくないと思っていたのに、不思議と凪いだ気持ちしか残っていない。アレクサンドラの彼への気持ちはすでに過去のものになりつつある。


 結婚だけが女の幸せではないと胸を張って生きていくことはこの国では非常に難しいが、今はこのまま一人でもいいのではないかと思えるほどだ。ほんのりとした淡い恋心も、嫉妬も、悲しみもすべて経験したアレクサンドラにとって結婚や男女の恋愛など、価値のあるものではなくなった。


「少しは辛そうな表情をしたらどうだ。結婚まであと半年だったのに破棄になってしまったんだぞ?」


 カルヴァンのやや毒を含んだ言葉がアレクサンドラの晴れやかな気持ちに水を差す。アレクサンドラはこちらをちらりとも見ない兄に向かってにっこりと笑った。


「うふふふふふ。今は何を言われても、これっぽちもへこたれませんわ。お兄さまもわたしの自由を祝福してくださいませ」

「お前の無駄な前向きさが鬱陶しい。こんな風に婚約破棄するぐらいなら、ルーベンに首輪でも付けて鞭と飴を与えておけばよかったのに。あれは単純な男だ、お前ならいくらでも手のひらで転がせただろうが」

「お兄さまったら鬼畜ですわね。わたしにはそんな非人道的な扱いはできませんわ。それにわたしは結婚相手に道化でいてほしくないですもの」


 カルヴァンはため息を一つついてから、書類をテーブルに置いた。にこにことする妹の様子に苛立ったのか、目が細められた。


「首輪は比喩だ。どちらかというとお前の行動の方が非人道的だと思うが?」

「どこがですか? 婚約者の遊びに傷ついたか弱い女性のちょっとした報復ではありませんか」

「あのな。お前の蹴り上げた場所は非常にデリケートなんだ。トラウマになって役に立たなくなったらどうする」

「それはそれで社会のためになる気もしますが……。でも、そのような心配はいりませんわ。特別仕様の靴でしてよ。男性へ制裁するための靴で、素晴らしい魔法陣が織り込まれていますの。力加減とか角度とか関係なく安全で最大限の苦痛をもたらすのですって。わたしの足も痛くなかったので驚きました。使ってみて本当によかったですわ」


 侍女のライカが勧めた靴は少し前に一世を風靡した商品だった。この国の特性上、愛人を持つことが悪ではない。


 ところが女の方はよほどのことが起きないと簡単に気持ちが割り切れるわけもなく、報復したいと思うことも多々ある。それを難なく実現するための商品だ。これだけでどれほどの魔法の知識を使っているのか、想像もつかない。


「……おかげでお前の次の婚約が決まらない」

「まあ、それはご愁傷様?」


 アレクサンドラが首をかしげて言えば、カルヴァンは大きくため息をついた。


「お前は屋敷に引きこもっているから知らないだろうが、ルーベンにした仕打ちについて、かなり広まっている。淑女の嗜みを身につけていない野蛮な女だと」

「野蛮だなんてひどいですわ。でも、どうして噂になってしまったのかしら? ルーベン様が自分で話すとは思えないのですけど」


 アレクサンドラもあれほどのことをしでかして、無傷でいられるとは思わない。ただしルーベンにとっては屈辱的な出来事だろうから、噂にはならないと考えていた。


「浮気相手の女が男にすり寄りながら訴えている」

「ああ。慰謝料を請求したから」


 なるほどと納得する。大した金額ではないが、職と信用を失った浮気女にしたら大金なのだろう。同情を引くために大げさに話しているだろうから、ものすごく悪く言われているに違いない。アレクサンドラにも痛手だが、それ以上にルーベンと浮気女は致命傷を負うだろうに。


「もう少し先を考えて欲しいものだ」

「そう言われましても。結婚なんて、いいものに思えませんし。最悪、一人で生きていく覚悟もできていますわ。そうでなければ、あんな風に婚約破棄などしません」

「……お前の思い切りの良さに頭が痛い」


 カルヴァンはどうしようもないと言うようにため息をつくと、テーブルの上にある封書をアレクサンドラに差し出した。本と同じくらいのサイズの分厚いそれを受け取るために手を差し出した。


「これは?」

「母上から届いたものだ。必ずお前に渡せと厳命されている」


 母からと聞いて、アレクサンドラは顔をしかめて封書から手を引っ込めた。嫌な予感しかしない。


「お兄さまは中身がなんであるか知っています?」

「いいや? ちゃんと渡すようにとしか言われていない。だが、大体想像はつく」


 それはアレクサンドラも同じだ。

 その母親の思いと今回の婚約破棄のタイミングを考えればこの封書に入っているのは釣書しかありえない。

 ここ数年、ルーベンの評判が下がるたびに母親は娘に婚約を考え直すようにと何度も説得してきた。ルーベンのような婚約者を大切にしない男と結婚しても幸せになれないというのが彼女の主張だ。


 あの時は愛人との激しいやり取りもあって、非常に意固地になっていて母親の言葉を素直に聞くことができなかった。これほど傷を作る前に耳を傾けていればよかった、とほんの少しだけ後悔する。


「……先ほど次の結婚相手が見つからないと嘆いていませんでした?」

「この国では、ということだ。国外なら愛人を許容する文化などほとんどない。それに母上の人脈は国内だけではないからな」

「……」

「母上はきっと婚約解消するつもりで前々から準備していたんだろう。まあ、頑張れ」


 他人事のように突き放され、むっと唇を尖らせた。


「それはお母さまに返しておいてください」

「見ないのか? いい男かもしれないぞ」

「しばらく一人でいるつもりです」

「そうか」


 簡単に頷かれて、アレクサンドラは拍子抜けした。


「ええ? いいの?」

「今すぐに新しい婚約を結べと言うのも心情的には難しいだろう。だが、母上はきっと万全の状態でお前の見合いを用意するはずだ」

「見合い」

「母上ももうしばらくこちらには帰ってこられないだろう。その間ぐらいなら目をつぶっておいてやる」


 アレクサンドラは両手を握りしめてキラキラした目を向けた。


「ありがとう、お兄さま! 出来ればお見合いも潰してほしいです!」

「……」


 カルヴァンは妹の希望には険しい表情を見せたが、何も言わなかった。ただ面倒くさそうに退出するようにと手を振った。きっと何かしら手を貸してくれることを信じて、アレクサンドラは部屋を出た。


「お母さまをどうやって説得しよう」


 押しの強い母親が相手では簡単に逃げることはできないだろう。まだ一度も勝てたことのないアレクサンドラが母親に独身を貫くと言ったところで聞いてくれるわけがない。


 とはいえ、すぐに何かが思いつくわけでもなく。


「そうだ。逃げちゃおう」


 母親が仕事を終えてこちらに戻ってくる前に、逃亡することを決めた。


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