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ある意味、修羅場

 ああ、なんて清々しい。


 強烈な痛みに体を丸めて痙攣しているルーベンを見下ろした。俯いてしまっていて表情はわからないが、苦しそうなうめき声が聞こえてくる。


 痛みに震えるルーベンを見ていても、罪悪感がまったく湧いてこなかった。


 彼への愛情と信頼。


 積み上げてきたものが少しずつ崩れ始めたのはいつの頃だったろうか。

 辛さも苦しさもすべて飲み込んで、貴族としての矜持と過去の二人の優しい記憶を支えに必死になって背筋を伸ばして立っていた。


 既婚男性のみ愛人を持つことを許されているこの国では正妻は広い心で愛人を認めるのが当たり前の社会だ。自分だけを見てほしいと叫ぶのは貴族夫人として未熟とさえ言われている。伯爵家の娘としては未熟さを見せるわけにはいかなかった。


 毎日をぎりぎりの気持ちで過ごしていたが、今日二人の抱き合う姿を見てすべてがどうでもよくなってしまった。


 どうでもいい存在となったルーベンを見下ろしたまま、アレクサンドラは自分の胸を両手でそっと抑えた。今までの愛人たちが得意気になってルーベンとの関係を暴露しに来る時と同じように抉るような痛みを感じるかと思っていたが、痛みはまったく感じなかった。


 ただただ爽快感しかない。

 ずっとこうしたかった、そんな気持ち。


 つま先に特別な魔法陣が刻まれた「貴婦人の鉄槌」にしてよかった。今日のことを知ったライカがこの靴を履いていくようにと勧めてくれたのだ。

 力の加減も蹴り上げる技術がなくても、この特別な魔法陣のおかげで最大限の苦痛を後遺症なしでお見舞いすることができた。ささやかな報復行為は滓のように澱み固まっていた気持ちをすっきりと吹き飛ばす。


「アレクサンドラ様、ルーベン様の違約を確認しましたので、すぐに婚約破棄手続きを行います」


 廊下で中の様子をうかがっていたハフィントン侯爵家の家令が声をかけてきた。優秀な家令はルーベンに声をかけることはしない。


 アレクサンドラは扉の方へ振り返ると家令に晴れやかな笑顔を見せた。


「ええ、お願いね。ついでにそこの女にも慰謝料を請求しておいてちょうだい」

「畏まりました。この度は本当に申し訳ございませんでした。当家の監視が甘かったのが原因でございます。このような結果になってとても残念です」

「いいのよ。ルーベン様を甘やかしていたのはわたしも一緒だから、きっと同罪よ。でも、もう少し大切にしてもらいたかったわ」


 切なげに呟けば、家令は痛ましそうな表情で目を伏せた。誰よりも近い位置でルーベンを見ていた彼にとってこの結果は辛いだろう。

 途中で何度も引き返せるところがあったのに、引き返さず自分勝手に過ごしてきたのはルーベンだ。繰り返される浮気に、二人の関係は修復不可能なところまで進んでしまった。それはルーベンの父親であるハフィントン侯爵も理解している。


「ちょっと待って! 慰謝料って何の話!?」

「頭が悪いの? 貴女はわたしの家に雇われているのよ。その雇われ人が仕えるべき主人の婚約者に手を出した。しかも妊娠だなんて言い出すのだもの。放置できないでしょう?」


 女は愕然とした顔をした後、蹲って呻いているルーベンの方へ転がり落ちた。そのまま蹲る彼に甘えるようにしなだれかかる。ルーベンは女を振り払うことも、かまうこともせずにされるままだ。


「ルーベン様! わたしを愛しているのよね?」


 ルーベンには女の問いに答えるだけの余裕はなく、脂汗をかきながら体を小刻みに震わせた。返事をもらえなかった女は青ざめたまま、きっとアレクサンドラを睨みつけた。


「わたしが愛されているのが妬ましいのはわかるけど、そういう嫌がらせは醜いと思わないの!?」

「……何か勘違いしているようだけど、ルーベン様の愛人は沢山いるわよ。一夜の関係を含めたら本当に数えきれないほど。わたしが直接知っているのは半分ぐらいね」


 アレクサンドラは噛み付いてきた女の態度に首を傾げた。彼女の反応が想像していたものと噛み合わない。どういうことなのだろうかと考えを巡らせる。


「わたしは愛人じゃないわ! ルーベン様の正妻になるのよ」

「正妻? 貴女が?」


 女の言うことが理解できず、困惑した。女は戸惑うアレクサンドラを鼻で笑った。


「ルーベン様はわたしを可愛いと言ってくれて、ずっと一緒にいたいと願ってくれたわ」

「よくわからないのだけれど、そこからどうして正妻に繋がるの?」

「ずっと一緒にいるにはわたしと結婚するしかないじゃない」


 アレクサンドラは自分の思い違いをこの時ようやく理解した。この女は愛人になりたいわけではなくて、正妻になりたくてこのような状況を作り出した。アレクサンドラとルーベンの細い細い繋がりを切るためだけに。ずっと勝ち誇ったような顔をしていたのはルーベンが彼女を選んだと思っていたから。


「貴女の言いたいことを理解したわ。でも、その程度の言葉でよく自分が正妻になれると思ったものね」

「ルーベン様はわたしを誰よりも愛しているのだから当然でしょう!」


 ルーベンの愛を信じて自信満々に言い放つ女にアレクサンドラは得体の知れないものを見るような目を向けた。この国の貴族社会にはあり得ない価値観はアレクサンドラの気持ちを苛立たせる。


 今までアレクサンドラに嫌がらせをしてきた女性たちが脳裏に浮かんでは消えた。誰もかれも、本妻になるアレクサンドラよりも優位な立場の愛人になろうと挑んできた。

 そのような沢山の愛人の中でも、立場をわきまえない、その一点だけでこの女は最悪だった。


「……バカじゃないの。ルーベン様が貴女を正妻にしたいとでも言ったというの? 自分の首を絞めるようなことを言うわけないじゃない」

「何ですって!」

「それともどこぞの演劇のように真実の愛に目覚めて、身分どころかすべてを捨てて一緒になるということなのかしら?」


 意地の悪い問いかけに、言われた内容が理解できなかった女は呆けた顔になる。


「身分を捨てて? え? どういうこと?」

「そもそもルーベン様は三男よ。ルーベン様の二番目のお兄さまが受け継ぐはずの爵位をわたしと政略結婚をするために、特別に継承できるようになったの。わたしとの結婚がなくなれば当然爵位は元の継承者に戻るわ」

「そんな馬鹿な!」


 女は痛みを堪えてうずくまるルーベンの体を乱暴に揺らした。遠慮のない揺れが痛みに直結するのか、先ほどよりも大きな呻き声が彼の口から零れ落ちた。


「わたしたちの結婚の条件は社交界では有名な話よ。ルーベン様の何を見て自分が遊び相手ではないと思ったのかが不思議だわ。そもそもわたしたちの婚約はお互いの家の利益が絡んでいるの。わたし以上の条件がない限り、婚約が解消されることはありえない」

「じゃあわたしは子爵夫人になれないの……?」

「当然ね。ルーベン様だって愛していると囁いても、わたしと別れるから結婚しようとは言わなかったはずよ」

「そんなはずは……」


 ない、と言おうとして女は口をつぐんだ。どうやら言われてはいなかったらしい。

 ようやく黙った女を見てアレクサンドラの荒れ狂う気持ちが少しだけ凪いだ。茫然とする女にそっと屈みこんで顔を近づけた。彼女の耳に毒を流し込む。


「残念だったわね。次からは色々よく調べてからお相手を選ぶことをお勧めするわ。もっとも、こんな醜聞を作ったのですもの。貴族との結婚は難しいかしら」


 彼女はその意味を正確に理解したのか、絶叫した。


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