変わらない人
アレクサンドラはルーベンの屈託のない笑顔を見て唖然とした。
以前に比べたら、質の落ちた服装をしていたがそれでも彼の表情は明るい。荒んだ様子もなく、この地区にいそうな裕福な平民といった様子だ。貴族令嬢や夫人たちに人気があるぐらい整った顔立ちをしているのにもかかわらず、ここの空気に馴染んでいる。
彼が落ちぶれることを望んでいたわけではないので、今までのような暮らしではなくても、それなりの生活をしていることにほっとした。
同時に、にこにこと変わらない笑みを向けるルーベンに寒気がした。何もなかったかのように接してくる彼がなんとなく気持ち悪い。
無意識にグレイの腕をぎゅっとつかんだ。それに気が付いたグレイがアレクサンドラを安心させるように、抱きしめる腕の力を強める。それに励まされて、ルーベンに尋ねた。
「会いたいだなんて……今さらどうして?」
「ん? そんなに変かな?」
「もちろん変よ。わたしたち、円満じゃない理由で婚約破棄したの。それに」
ルーベンにした仕返しを思えば、一生声を掛けたいとは思わないはずだ。そんな思いで彼を見つめれば、ルーベンはあははは、と声をあげて笑った。
「ああ、確かにあの一撃はきつかった。痛みがひどくて、二週間ぐらい寝込んだから。でも後遺症はなかったんだ。だからアレクサンドラが気に病むことはないよ」
効果は絶大だったようだ。でもますます戸惑った。
いくら浮気されても婚約者であった時は交流をしないわけにはいかないが、今日は違う。すでに二人の関係は絶たれている。それなのに、前と変わらない態度で、しかもアレクサンドラを労わるような言葉を発する。ルーベンとは幼い頃から家族ぐるみの付き合いであったが、同じ顔をした見知らぬ人のようだ。
「……そう。でも、よくこの場所でわたしを見つけたわね。色替えをしているのに」
「どれだけ一緒にいたと思っているんだ。色ぐらいじゃ、誤魔化されないよ。この間、教会で見かけたから、もしかしたら会えるかと思って」
ふんわりとした笑顔でそんなことを言う。どうやら教会で姿を確認したのは自分だけではなかったようだ。アレクサンドラは気持ちを落ち着けるように大きく息を吸った。
「それで、用件は?」
「アレクサンドラに謝りたくて」
「謝る? 何を今さら」
「そう思ったけど、彼女がきちんと謝っておいた方がいいって」
彼女、と聞いて、アレクサンドラはぐるりとあたりを見回した。そして、一人の女性が建物の陰からこちらの様子を不安そうに見ている。やや濃い目の茶色の髪に黒にも見える瞳をした、どこにでもいる平凡な容姿の女性だ。
三人の注目を集めたのが分かったのか、慌てて物陰に引っ込んだ。恐らく先日教会にルーベンと一緒にいた女性だろう。あの日のルーベンの笑顔を思い出し、楽しく暮らしているのだと苦々しく思った。
「あなたの言う彼女って、あの方?」
「そうだよ。留守番していると言っていたのに、ついてきたんだ。心配性だなぁ」
そう言いながら、ほわほわ笑う。アレクサンドラは呆れたような目でルーベンを見た。
「ねえ、婚約破棄する前よりもなんだかふにゃふにゃしたような感じなのだけど……どうしちゃったの?」
「僕の素はこんなもんだよ」
「……そうだったかしら?」
首を傾げつつ、昔を思い出す。幼い頃は確かにほわほわした子供だった。同じ年であるのに、どうにも手間がかかって、アレクサンドラはルーベンのやらかしを後始末するよりは、ついて回って先に手を出した方が早いと思ったほどに。
「そうだよ。しっかりしているアレクサンドラの言うことを聞けって、いつも両親も兄たちも言っていた。それがすごく嫌だった。だから傷つけているとわかっていて……でもアレクサンドラがあまりにも平気そうな顔をするから止められなくて」
なんだかよくわからない言い訳をされて、アレクサンドラは苛立った。
何でもないような顔をしていたからといって、心が傷ついていないことなんてないのに。それに何度も浮気は止めてほしいと、嫌だと伝えていたはずだ。
ルーベンは彼女がどんな気持ちでいるのか、わからないのか、世間話でもしているような顔をして続けた。
「アレクサンドラって、あの女が妊娠したと触れ回らなかったら僕と婚約破棄しないつもりだったよね」
「ええ、まあ」
何を言いたいのかわからないまま、身じろぎする。ルーベンが言いたいことがつかめず、アレクサンドラの胸の中にモヤモヤとしたものが育ち始めた。だがすぐにモヤモヤから意識が外れた。
グレイからわずかに剣呑な空気が漂ったからだ。彼に注意を向ければそろそろ我慢の限界なのか、拳を強く握りしめている。それを宥めるように自分の手でそっと包み込んだ。
「僕もそれでいいと思っていたけど、婚約破棄してようやく色々なものが見えてきて」
「――つまりは、ルーベン様も婚約破棄してよかったと思っているとそういうことでいいかしら?」
「そうだ、僕、勘当されたから平民なんだ」
話が突然とんだ。ルーベンはいつもこうだ。話したい内容が多いと話題があちらこちらに発散する。
「だらだら話していても仕方がないわ。仕返しはもう十分したわ。ルーベン様がわたしに関わらない限り、幸せになって欲しいとは思っているの」
今さら話し合うことはない、とアレクサンドラはよそ行きの笑顔を見せた。
何も考えていなそうなルーベンがわざわざアレクサンドラを捕まえて謝罪をした。本人は悪いと思っているけれども謝罪するほどではないと判断していたにもかかわらず、けじめをつけるためだけに必要だった。それが誰のためかと言えば、ルーベンのためではない。ちらりと隠れているつもりの彼女の方へ視線を送るが、すぐにルーベンに戻した。
「彼女に事情を説明したら、簡単に許せないはずだと言われたんだ。だからまだモヤモヤしているなら、一発……気が済むまで殴ってくれても」
「結構よ」
「そうか! 許してくれて、ありがとう!」
「どういたしまして。では、ごきげんよう」
「あ! ちょっと待って!」
突然切り上げたアレクサンドラを慌ててルーベンが引き留めた。
「まだ何か?」
「うん。ちょっとお金、貸してほしいんだ」
お金、と言われて頭の中が真っ白になる。放棄しそうになる思考を慌てて繋ぎ留めながら、必死に言葉を紡いだ。
「お金……何故?」
「手切れ金は実家を出る時にもらったんだけど、ほとんどなくなってしまって。彼女の欲しいものを我慢することなく買ってあげたいし、でも働いてもそんなに稼げなくて。今、生活が厳しいんだよね」
貴族の生活を考えたら、平民として暮らしていくのは大変だ。ルーベンなりに、働いて何とか生活している様子はうかがえた。気になるのは、彼女の要求するものが庶民にとって必要ないもので贅沢品だということ。ルーベン一人だけならもっとうまくやっていけているように思えるのは気のせいじゃないだろう。
アレクサンドラは気持ちの悪い何かを飲み込んだように、顔を歪ませた。
「だから、今回だけでいいから、ちょっと融通してほしいんだ」
「どうしてそういう発想になるの? お金が必要なら、まずはルーベン様のお兄さま方やお母さまに頼るべきでしょう?」
「やだよ。絶対に説教される。でも、アレクサンドラならいつも文句も言わずに僕に手を貸してくれただろう?」
そう言って、ルーベンは唇を尖らせた。
確かに婚約中はルーベンの面倒を見てきた。それは将来自分の夫になる人であるから、ただそれだけの理由だ。
苦々しいものを感じながら、冷静に言葉を紡いだ。
「申し訳ないけど、融通はできないわ」
「どうして?」
心底不思議そうに告げられて、アレクサンドラは大きく息を吸った。
「わたしはもうルーベン様とは関係ない人なの」
「でも幼馴染は変わらないだろう? 大切な関係なら援助してくれるはずだって彼女が言っていた」
「そうとも限らないわ。幼馴染はお金の繋がりのない関係よ」
はっきりと言い切れば、ルーベンが初めて戸惑った顔になった。
「アレクサンドラ?」
「さようなら。お元気で」
もう一度引き留められないように、アレクサンドラはグレイを引っ張るようにして歩き始めた。気持ちの余裕のなさを見せないように、わざとゆっくりと歩く。グレイはルーベンから彼女を隠すようにして寄り添う。
「あんな人のために頑張っていたなんて……」
ルーベンのためにもう何もしなくてもいい。そう思うのに、胸の奥から苦い何かが込み上げてきて、ひどく息が苦しくなる。
「やっぱりわたしって母親の役割をしていたのかしら」
「そんな感じはするな。何があっても君が助けてくれると思っているところが何とも」
「本当にそうね。それに彼女に騙されている気もするけど……もう関係ないわね」
グレイと話しているうちに、気持ちが落ち着いてきた。そして、婚約者でありながら彼の母親の役割を担っていたということが、すとんとお腹に落ちた。
アレクサンドラはちらりとルーベンのいる方へと視線を送った。もう彼の姿は見えない。
これからは何があっても、甘えることなく生きてほしいと願った。