婚姻準備の合間
「婚姻の準備ってすごく大変なのを忘れていたわ。本当に毎日嫌になる」
アレクサンドラはごくごくと勢いよくお茶を飲み干すと、やや乱暴な手つきでカップをソーサーに戻した。
ぺルラの管理する王家の庭はいつ来ても落ち着く場所だ。忙しさに目を回すアレクサンドラは色々な理由をつけて、ここに逃げ出してきた。いつもはグレイが付き添うのだが、今日は都合が悪いようでロドニーが一緒だ。
「それは仕方がない。伯母上にとって娘の結婚は最重要案件だ」
「そうかもしれないけど。ドレスの採寸と調度品の選別、それから知識のおさらいで一日が終わるのよ。流石に詰め込み過ぎだと思うのよね」
ドレスの採寸や調度品の選別はまだいい。疲れていても、飽きてきても見る楽しさがある。問題は知識のおさらいだ。
アレクサンドラに行われていた教育はあくまで国内の子爵夫人としてのものだ。グレイは他国の高位貴族で、身につけなくてはいけないことはさらに沢山あった。
恐ろしいことに、急ピッチで進めている教育は最小限のもの。婚約期間中ではあるが数週間後にはグレイの家に入り、さらに詳しく学ぶことになっていた。
「本当に大変なんだねぇ」
黙って話を聞いていたぺルラがアレクサンドラの愚痴が一通り終わったところで、そう相槌を打った。
「そうだ、ちょっとお願いがあるの」
「お願い? わたしにできること?」
ぺルラは不思議そうに首を傾げた。アレクサンドラからぺルラに何かをしてほしいと願うことは一度もない。それが神妙な顔をして告げている。
「数日でいいから魔法の先生を紹介してほしいの」
「魔法ならロドニーがいるじゃない」
ぺルラははそう言いながらロドニーを見た。ロドニーは会話に混ざるつもりがないのか、侍女にお茶のおかわりをもらっている。
「ロドニー兄さまは全然教えてくれないのよ。それでは困るの」
「困るようなことが思いつかない。どういうこと?」
「グレイの国は魔力が基準だって聞いたから。多少なりとも知っておいた方がいいと思ったの」
「確かにあの国は魔力至上主義だけど」
ぺルラの言葉に、ロドニーは少しだけ肩をすくめる。
「必要ないと言っているんだけど、納得してくれないんだ」
「そう」
アレクサンドラは誤魔化されないように、じっとぺルラを見つめた。ぺルラはカップにスプーン三杯ほど砂糖を足すと、くるくるとスプーンでかき混ぜる。
「アレクサンドラの魔力は一般的な量しかないから、簡単な魔法しか教えることができない」
「わかっているわ」
「うーん、やっぱりわかっていないと思う」
アレクサンドラは言われている意味が分からなくて、瞬いた。
「たとえばね。騎士団が使っているような攻撃魔法というのは、魔法を使うというよりも魔法道具を使いこなしているの」
ぺルラはアレクサンドラの顔を見ながら、ゆっくりと説明を始める。
「膨大な魔力があって単独で使えるのは、魔法師団のごく一部だけ」
「え?」
「ロドニーはけっこう多め。だから、魔法道具の研究ができる」
ロドニーは楽しそうに、付け加えた。
「昔はそれこそ大魔法と言われていたものが使われていたそうだけど、今は魔力を多く持つ人間が減っているんだ」
「どういうこと? よくわからないわ」
魔法師団は特別な能力を持った集団だとずっと教えてもらっていた。毎年行われる大祭では、派手な魔法を披露する。貴族はその血筋から平民よりも魔力は多いのも一般的。
アレクサンドラは女だから魔法の教育を受けていないだけだと思っていた。だから、きちんと学べばそれなりに魔法が使えると考えたのだ。
「この世界で魔力を持たない生き物はいないけども、便利な魔法を使えるほどの魔力を持った生き物もほとんどいない。人間も同じ。だから研究者たちは様々な道具を作って、色々できるようにしている。もし勉強するとしたら、魔法道具の事になるかな」
ぺルラの話を聞いて、アレクサンドラは魔法を学ぶことを断念した。少しだけ残念そうにため息をつく。
「ロドニー兄さまのように魔法道具に興味がないからきっと無理ね」
「わたしがしている魔法草の研究もあるけど」
ぺルラの誘いに、アレクサンドラは丁寧にお断りした。結婚するために最低限の知識があればいいため、研究者レベルの知識は行き過ぎだ。
「向こうに行って困ったことになったら、アドバイスを貰ってもいいかしら?」
「もちろんだよ」
ぺルラに快く請け負ってもらったことで、アレクサンドラはほっと安心した。
「何かあれば俺もそっちに行くつもりだから、早いうちに頼れよ」
「え? ロドニー兄さまはあちらの国に戻らないの?」
驚いて声をあげれば、ロドニーは頷く。てっきりあちらの国の研究所に戻るものだと思っていた。
「ああ。研究はこっちでするつもりだ」
そう言いながら、ロドニーの目がぺルラに向けられる。その意味を含んだ眼差しに、アレクサンドラはパッと顔を輝かせた。
「え、そういうこと!?」
「ロドニー! まだ秘密だと」
ぺルラの慌てぶりに、アレクサンドラは満面の笑顔になった。
「おめでとう! 嬉しいわ!」
「もう、まだ最終的な許可が下りていないのに」
ぺルラは嬉しいような、困ったようなそんな顔で呟く。ロドニーはふと真顔になって、アレクサンドラを見た。
「少しだけなら、一緒にグレイの国へ付き添ってやれるが……どうする?」
「付き添い?」
「ああ。グレイもサンドラも婚約破棄しているから、社交界はしんどいんじゃないのか。俺はあちらにも交流があるから、頼りになる人を紹介できると思う」
社交界、と言われてげんなりとした。アレクサンドラはこの国から出たことがないので、他の国の社交界がどういう雰囲気であるかは知らない。でも、国は違えど、足の引っ張り合いであることは間違いないはずだ。
「どうしようかしら……」
「わたしもロドニーに一緒に行ってもらった方がいいと思う」
ぺルラも心配なのか、そんなことを言い始めた。だが、これから婚約が調うのなら、ロドニーはアレクサンドラに構っている時間などない。でも一人で見知らぬ国に行く不安がないわけでもなくて。
「好き勝手に言わせるつもりはないから、心配いらない」
判断できずに迷っていれば、呆れたような声が割り込んできた。アレクサンドラはその声に、後ろを振り返る。サロンの入り口の所にグレイが立っていた。
「グレイ? どうしてここに?」
「早めに用事が終わったから迎えに来た」
グレイはアレクサンドラの側に寄ると、上体を屈めて彼女の目元にキスをする。さりげないキスに、アレクサンドラの頬がわずかに染まった。
「見せつけてくれるね」
「大切にしていないと思われると腹立たしいからな」
ロドニーの挑発するような言葉に、さらりと返す。ぺルラはそんな二人を横目で見ながら、アレクサンドラに確認した。
「わたしのことは気にしなくていいよ? わたしたちは婚約した後もごたごたするだろうから、ちょっとぐらいサンドラの助けになっても」
「ぺルラ、ありがとう。でも、グレイが守ってくれるから大丈夫よ」
アレクサンドラはテーブルの上にあるぺルラの手をそっと握った。
「そう?」
「ええ」
しっかりと目を見つめて頷けば、ぺルラも微笑んだ。
「わかった。でも忘れないで。何かあったら助けに行くから。これでも王女なんだ。使えるものは沢山ある」
「うわ。ぺルラが男前だ。グレイ、ちゃんとサンドラを守れよ」
「問題ない」
話に区切りができると、アレクサンドラは立ち上がった。グレイと共に別れの挨拶をすると、王家の庭園を後にした。ロドニーはこれからぺルラと話があるらしく、一緒ではない。
「今日は迎えに来てくれてありがとう」
「思っていたよりも早く話し合いが終わってよかったよ。あの二人が付いてくるところだった」
「まさか! 流石にそれはできないでしょうに」
グレイの現実味のない心配に、くすくすと笑う。グレイは渋い顔をした。
「そう言い切れないところがぺルラだ。行動力はロドニーよりもあるんだ」
「まあ、そうなの? 知らなかったわ」
他愛もないことを楽しく話しながら二人で並んで歩く。そんな二人の前に誰かが立ちふさがった。
「アレクサンドラ、会いたかった!」
驚いてその場に立ちすくむと、すぐにグレイが庇うようにアレクサンドラを抱き寄せた。
そこにいたのはルーベンだった。