元浮気相手との邂逅
エルウェス元伯爵夫人はルーベンとアレクサンドラの社交界デビューの後、初めての夜会で接触してきた。彼女はエルウェス前伯爵の後妻で、夫の女遊びにとても苦労したそうだ。夫が病気であっさりと亡くなると、前妻の子供たちに追い出されて、実家である男爵家に戻ったという経歴の持ち主だ。
豊満な胸を強調した赤いドレスに、媚びるような顔つき。
未亡人になってから、独身の若い男をとっかえひっかえしている。この国の貴族は愛人を許容する文化ではあるが、すべてが許されているわけではない。愛人を侍らすのは秘めやかに行われるべきだし、貴族として後継を作る役割を果たした既婚者同士が人生の潤いのために疑似恋愛をするのがいいという暗黙のルールがある。
そのぎりぎりをこの未亡人は渡ってきていた。そのため、社交界で締め出しをされてはいないが、いい噂を聞くこともない。本人もわかってやっているところもあるので、突き抜けてはいる。
アレクサンドラは改めて目の前にいる派手な夫人を見て、首を傾げた。以前はとても魅力的に見えていたが、今はただけばけばしさだけが目についた。
「うふふ、婚約破棄したわりにはお元気そうね」
彼女はちくりと毒を混ぜた言葉を投げつけてきた。アレクサンドラは内心面白いと思いながら、にこりとほほ笑む。
「ええ、おかげさまで。下品な女に向かって常識を諭す必要がなくなりましたから、体調がすごくよくなりましたわ」
エルウェス元伯爵夫人はアレクサンドラが滑らかな口ぶりで答えてきたことに、少しだけ不愉快そうな色を見せた。
「女性から婚約破棄をする方が常識に欠けると思うけれど、若い人たちは違うのかしら?」
「同年齢の方がどう考えているか、知りませんわ。ただ、わたしには理解のある家族もいますし、幸い、ハフィントン侯爵閣下のご理解がありましたから」
だからこそ、慰謝料もたっぷり貰えたわけだ。
「家族に恵まれていても……貴婦人の嗜みができていないなんて、これから社交界で大変ね」
「ご心配していただいて、ありがとうございます。わたしも初めはその覚悟でしたけど……ランドン公爵夫人にとてもよくしていただいて」
そんな心配は不要だったのだと答えれば、エルウェス元伯爵夫人は目を見開いた。
「え? ランドン公爵夫人が」
「お優しい方ですわ。嫌なことを言ってきた人を後で教えて欲しいと言われておりますの」
にっこりと止めを刺す。この国の社交界の頂点に立っているのはランドン公爵夫人だ。彼女の一言で、許されることもあるし、爪弾きに合うこともある。
それぐらい、影響力の強い方だ。
もちろん愛人を持つことが許されている貴族社会であるから、すべての浮気を許容しない女性を庇うわけではない。今回はアレクサンドラの行動を許してもらえるほど、ルーベンの行動とつまみ食いをする女たちが目に余った。それだけのこと。
「ま、まあ。そうなのね。わたしが心配する必要などなかったわね」
あくまで心配しているという態だったので、アレクサンドラは特に否定をしなかった。エルウェス元伯爵夫人はぎこちない挨拶をすると、そのまま人の集まっている方へとそそくさと歩き去る。
その後ろ姿を見つめ、ため息をついた。
ルーベンが彼女の誘いに乗った時には、自分がひどく惨めに思えた。ルーベンとアレクサンドラは同じ年で、社交界デビューをしたからと言って女性的な魅力はまだ備わっていない。どちらかというと、子供っぽさが抜けておらず、背伸びしたようなところがあった。
凹凸の少ない肉の薄い体。この年齢の女子であれば普通であったが、アレクサンドラの目は華やかに社交をこなす大人の女性たちに向けられていた。比べても仕方がないことを見て、ひどく落ち込んだ。まだ子供だったアレクサンドラもルーベンも、あのような女性を魅力的だと思ってしまった。
アレクサンドラは自分の思い違いを知り、自分も大人になったのだと実感した。
「すごくいい顔をしている」
一人ニヤケていると、背後から声を掛けられた。驚いて振り返れば、そこにはぺルラが立っていた。
「え? どうして?」
「心配になって様子を見に来たんだ」
ぺルラはにこりとほほ笑んだ。彼女はいつもの独特な格好ではなく、眼鏡をはずし髪を整え、きちんとした夜会用のドレスを身に纏っていた。彼女の独特な魅力を損ねない薄い青いドレスはとても軽やかなデザインで、彼女にとてもよく似合う。
そして心配して夜会に参加したと言われて嬉しくないわけがない。
アレクサンドラは自然とほほ笑んだ。
「いい笑顔。吹っ切れたの?」
「ずっと苦手意識があったのですけど……もう一度お会いしたらとても普通の方でした」
「そうなんだね」
ぺルラは軽く頷くと、アレクサンドラに近づいた。秘密を打ち明けるように耳に口を寄せ、囁く。
「グレイもつれてきたから、一緒にいるといいよ」
「え?」
「彼は他国だけど上位の貴族だから」
気が付いていたでしょう? と目で問われて頷いた。
「すっごくサンドラを心配していて、鬱陶しかったんだ。そんなに心配ならさっさと――」
何やらグレイが手が付けられないような感じになったのだろうか、と考えているとぺルラの言葉が途切れた。
「余計なことを言うな」
「……グレイ?」
ぺルラの口を塞ぐように鋭い言葉が割り込んだ。彼女の後ろに立つグレイを見て、アレクサンドラはあんぐりと口が開いてしまう。
頭一つ分ほどの身長差は変わらない。髪の色も目の色も彼本来の色になっており、彼の纏う雰囲気が全く違っていた。ぼんやりとした印象しか残らなかったはずなのに、目の前にいる男性は誰が見ても目を逸らすことができないほどの美丈夫だ。
アレクサンドラの目の前に立つと、大きな手を差し出した。
「よかったら僕と一緒に過ごしてもらえないだろうか」
「え、ええ」
戸惑いつつも、グレイが側にいることを実感すると体中が嬉しさに熱くなる。恐る恐る彼の差し出した手に自分のを置いた。
「ちゃんと両想いじゃない! さっさと行動すればわたしが夜会に参加する必要なかったのに!」
ぺルラは小さな声で悪態をつくと、グレイの背中を強く叩いた。
「恩に着る」
「当然よ。では、わたしはそろそろ退散するわ」
「ああ、わかった」
「サンドラも時間ができたら、いつでも遊びに来て」
ぺルラは言いたいことだけ言うと会場を後にした。その慌ただしい後ろ姿を見送る。
「もしかして、グレイが参加できるように来てくださったの?」
「ちょっと強引に引っ張り出した。まあ、結果よければというやつだ」
意味が分からず首を傾げれば、ぺルラが男性に捕まっていた。彼女の驚きと戸惑いがここにいても見て取れる。
「助けにいかないと」
「心配ない。あれはロドニーだ」
「え? ロドニー兄さま?」
そう言われてよく見れば、確かに正装したロドニーだ。しかし彼が参加するとは聞いていない。何が起こっているのかわからないまま、二人の様子を見守っていれば、嫌がるぺルラを引きずるようにしてダンスフロアへと行ってしまった。
「だ、大丈夫なの?」
「大丈夫だ。ぺルラはああ見えても王女だからな」
「王女……?」
次から次へと与えられる情報にアレクサンドラは目が回りそうだ。グレイはほんの少しだけ口の端を持ち上げた。
「社交界に出てこないから、ロドニーはぺルラに結婚を申し込めなかったんだ」
結婚と聞いて、目を大きく見開く。
「ぺルラの事情が面倒でね。本人も引きこもっているし、結婚する気はないと公言していた。それで社交界に出て、婚姻の申し込みができたら受けるという変な賭けが成立したんだ」
「あ、うん。もうそれ以上、話さなくて良いわ」
アレクサンドラは抱えきれない情報を拒絶した。グレイはその方がいいと頷くと、彼女を連れてダンスフロアへと向かった。