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見晴らしのいい場所


 嫌な感情というものはいつまでたっても心に居座っていて、質が悪い。

 アレクサンドラはため息を呑み込もうとしたが、押し殺せなかった。グレイは俯くアレクサンドラを連れて、教会の中へと入った。


「まだ彼のことを好きなのか?」


 どれぐらい歩いたのか、グレイが小さな声で聞いてきた。アレクサンドラは顔をあげて、グレイを見上げる。彼の表情は静かで、何を思っているのか窺えなかった。


「好きかどうかと言われたら、好きじゃない。でも、すごくショックだったというか」


 アレクサンドラはゆっくりと言葉を選んで音にした。


「婚約破棄はわたしがしたことだけど、婚約していた時よりもすごく楽しそうで……」


 もしかしたらルーベンは甘えていたのではなくて、本当に自分を嫌っていたのではないのか。

 ルーベンが浮気を繰り返していたのは、アレクサンドラから婚約破棄をしてもらいたかったからではないのか。


 考えてはいけない疑問が大きくなって、手が付けられなくなる。ぽたりと頬から手の甲へ雫が落ちた。それが自分の涙だということに気が付いて、慌てて頬を拭う。それでも次から次へと溢れる涙は止まることがない。

 あまりにもみっともなくて、胸さえも苦しくなってきた。何のために泣いているのかすらわからなかったが、止めることもできず。泣いている顔を見せたくなくて、グレイから見えないように顔を背けた。


 アレクサンドラは震える唇を何とか動かした。


「ごめんなさい、すぐに止めるから」


 震える声が情けないが、気持ちを落ち着かせようと大きく息を吸う。早く早く、と焦っていると、頭を抱える様にして抱き寄せられた。その距離の近さに、咄嗟に離れようと彼の体を押す。


「何を」

「傷つくことはみっともないことではない。それだけ彼との結婚を真剣に考えていたのだろう」


 いつもよりも少し低い声が心に響いた。顔をあげることができずに、彼の胸に伏せたまま、ただただ泣いた。

 初めはじっと抱きしめているだけだったが、そのうち大きな手が躊躇いがちに頭を撫でてきた。言葉はなかったが、労わるようなその温かさがとてもありがたい。


 締め付けられるような胸の痛みが次第に消えていく。心が落ち着いてくれば、頭を撫でるぎこちなさが次第に気になってきた。もしかしたら、こういうことに慣れていないのかもしれない。


「ふふ」


 慰めてくれることが嬉しくて、つい笑い声が漏れた。涙を指で拭うと、顔をあげる。


「なんだ、もう泣かないのか?」

「グレイが慰めてくれたから」

「慰めになったのならよかった」

「ちゃんと心が温かくなったもの。なんか幸せそうな彼の顔を見たら、ルーベン様にとって、わたしはあまりいい婚約者じゃなかったと思ってしまったの」


 唐突にアレクサンドラは言った。グレイは不愉快そうにくっきりと眉を寄せる。


「そんなことはないだろう? いい婚約者ではないのは男の方だ」

「確かにそうだけど。わたしね、社交界デビューしてからずっとルーベン様に怒ることしかしていなかったなと思い出して」


 ルーベンはいずれ子爵になる。当然、治めるべき領地もあるわけで、学ぶことは山ほどあった。アレクサンドラも子爵夫人として、そして領主の夫人として、ルーベンの母である侯爵夫人によって厳しい教育が行われた。


 求められていること以上の結果を出そうと頑張っていたけれども、アレクサンドラの努力はルーベンの眉を顰めるような行動ですべて否定された。ルーベンが愛人を作るたびに、トラブルを起こすたびにアレクサンドラの評価は下がっていく。婚約者を支えることもできない無能な女だと陰口をたたかれていたのも知っていた。


 心のゆとりのないアレクサンドラは言葉にしなくてもいつだってルーベンに対して不満ばかりで、顔を合わせればもっとしっかりしてほしい、自分のこともちゃんと考えてほしいとそう訴えていた。


 冷静に考えれば、アレクサンドラに顔を合わせるたびに責められたら逃げるしかないだろう。そして悪循環に陥る。ルーベンは嫌なことから逃げてしまう性格だから、無責任に甘やかす女性に流れてしまうのも当然のことで。


「結婚は二人でするものなのに、お互いに違う方向を見ていたかもしれない」


 アレクサンドラは息を吐くと、小さくほほ笑んだ。今になって気が付いても遅いが、気持ちがすっきりとしていた。


「……気持ちが落ち着いたなら時計塔に登るか」

「え? これから?」

「折角、ここまで来たんだからてっぺんまで行かなくては」


 アレクサンドラは解放された気分に浸りながら街を歩きたかったが、時計塔に登るのが目的で教会まで来たのだ。付き合ってもいいか、という程度の気持ちで時計塔の入り口をくぐった。


「……本当にこれを登るの?」

「ああ」


 唖然として螺旋階段を見上げた。とてつもなく遠いところに窓がある。そこから少し下の所に、フロアが見える。正直ここまで高い塔の螺旋階段を上がったことはなかった。


「時計塔の窓から見る景色は絶景なんだ」

「確かにこれだけ高いところから見れば綺麗だとは思うけど」


 上がったことのない高さに怯めば、グレイが腕を引っ張った。


「ほら、行くぞ」

「ちょっと待って!」


 アレクサンドラも慌てて彼の後に続く。歩き出したところで、グレイの手が離れた。それを寂しく思いながら、一歩一歩階段を上る。


 不思議な空間だった。天まで届きそうなほどの塔の中の螺旋階段を進むたびに、気持ちが晴れやかになっていく。


「ついたぞ」


 登り切った先には、街が目の前に広がっていた。


「うわ……!」


 すべてが小さい。さほど高い位置にいるわけではないが、それでも建物は小さく、空が近く感じた。


「綺麗ね」


 とても綺麗だった。

 隣を見れば、外を眺めるグレイがいる。


 彼とずっと一緒にいたい。


 そんな気持ちが自然と湧き上がってくる。彼の素性を知らないが、国外の貴族であることは間違いない。本気で彼との結婚を考えるのなら、醜聞をそのまま放置するわけにはいかない。


「ねえ」


 しばらく二人で無言でいたが、小さな声でグレイに呼び掛けた。グレイはアレクサンドラに顔を向ける。


「どうした?」

「わたし、社交界に戻ろうと思うの」

「社交界でいいのか? もしこの国が嫌なら、僕が外に連れ出すこともできるが」


 思わぬ言葉に、アレクサンドラは嬉しそうに笑った。


「そう言ってもらえるだけで頑張れるわ」

「無理しなくてもいい。外に出ただけで世界は変わるものだ」

「甘やかすと本気にするわよ」

「適当なことを言ったつもりはない」


 グレイが何の気負いもなく言うので、気合を入れた。

 彼に告白する前に、自分自身の後始末をしようという気持ちが沸き上がってくる。シーグローヴ伯爵からは自分で相手を選んでいいと許可をもらっているのだから、あとは彼と婚約した時にケチがつかないように今ある醜聞をもう少しましな噂で上書きするだけだ。


「何もかも嫌になったら助けてね」


 彼はアレクサンドラの決意を感じたのか、どこか困ったような、それでいて仕方がないかというような笑みを浮かべた。


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