お見合いを回避したい
アレクサンドラはノックをすると、返事を待つことなく執務室の扉を開けた。ぎょっとする家令に心の中で謝りながら、中にいる父のシーグローヴ伯爵に突撃する。
「お父さま!」
「サンドラ、元気そうだな。ジャニスの説教はもう終わったのか?」
普段と変わらぬのほほんとした様子で声をかけられて、アレクサンドラはむっと唇を尖らせた。
「今、終わったの! 知っていたのなら助けてくれたっていいじゃない!」
「そうはいってもなぁ。ジャニスは本当にお前のことを心配していたんだぞ。婚約破棄が決まったと連絡があってもすぐに帰ってこられないし、屋敷に戻ってくればお前は家出しているし。少しは彼女の気持ちを考えてもいいじゃないか」
「叔母さまがちゃんと許可をもらったと聞いたわ」
心配することは何もなかったのだと言外に伝えれば、シーグローヴ伯爵は困ったように笑った。
「お前の姿を見ていないから、連絡をもらった程度で心配がなくなるわけではない」
「――叔母さまの所にお世話になるのは初めてじゃないもの」
子供のような言い分だと自分でも思っていたが、それでも誰かにこのモヤモヤをぶつけたかった。
「アレクサンドラ、父上に当たるんじゃない」
「お兄さまも、もっとちゃんとお母さまに説明していてくれてもいいじゃない」
あからさまな八つ当たりに、カルヴァンはため息をついた。
「母上は全部知っているぞ。その上での説教だ」
「そうなの? 一つ一つ、ぐちぐちと問いただされたのよ」
ジャニスの説教は聞いているだけでは済まない。何故そう考えたのか、きっちりと話させる。自分が悪いことを理解しているため、気持ちがゴリゴリと削られる苦行だ。
「まあ、座りなさい。お茶を飲んで落ち着くといい。何か用事があったのだろう?」
アレクサンドラは言われるまま素直に腰を下ろすと、出されたお茶をゆっくりと飲んだ。一番好きな香りのお茶に気持ちがようやく落ち着いてくる。
「それで、用件は何かな?」
静かになった娘にシーグローヴ伯爵は尋ねた。
「明日、お客様が来るから対応しろと言われたのだけど。それってどう考えてもお見合いよね?」
「ああ、そうだな。ジャニスが気合を入れて準備していたはずだ。お前のドレスも何枚か新調していたぞ」
シーグローヴ伯爵は娘の感情を考えずににこやかに言う。アレクサンドラはカップをテーブルに戻し、姿勢を正した。
「お父さま、わたしはまだ婚約したくないのよ。もう少し自由でいたいの」
「自由? ルーベンの契約違反がわかってからすでに三か月だ。まだ自由でいたいのかい?」
そう言われてしまえばその通りで。婚約破棄した娘が引きこもっていていい時間はもう過ぎている。アレクサンドラにもその自覚はあった。
「我儘だとはわかっているの。でも」
「アレクサンドラ、この後も貴族として生きていくのならそろそろ社交に復帰しないといけないのもわかっているな?」
シーグローヴ伯爵は淡々と事実を口にする。アレクサンドラは唇を噛んだ。反論できずに黙り込んでしまう。
「ジャニスはお前が将来にわたって幸せに暮らしていけるようにと奔走している。それがどれほど大変なことか理解はしているか?」
「……はい」
国外での婚約を整えるのは人脈もそうだが、家同士のすり合わせも大変なことはわかっていた。もしアレクサンドラが変な意地を張らずに早めに婚約白紙にしていたのなら、今よりもまだ傷は浅かった。男女間の問題による婚約破棄は人々に嘲笑されるが、両家の事情による婚約白紙であれば理解される。
だから婚約白紙であれば時間がかかっても、国内で相手が探せたはずだ。だが、アレクサンドラはルーベンが女遊びから卒業してきちんと自分と向き合ってくれると現実から目をそらし続けた。
「とはいえ、ルーベン殿は最悪だったからなぁ。お前が結婚に幻滅してもおかしくはない」
きちんと理解しているとわかったからなのか、それ以上の厳しいことを言わず、シーグローヴ伯爵はため息交じりにぼやいた。アレクサンドラはちらりと目の前に座る父親を見た。
「結婚しないのは駄目ですか?」
「結婚だけが幸せではないというのはわかるが、その場合どう生活していくんだ?」
「手に職をつけるとか」
ぺルラのことを思いながら、恐る恐る言ってみる。
「言いたいことはわかるが、お前に庶民のような仕事ができるのか?」
「やろうと思えばきっと」
前向きに発言したつもりだったが、カルヴァンに鼻で笑われた。
「金を得ることは遊びじゃない」
「わたしだって今まで色々な教育を受けてきたわ」
「その知識は貴族だからこそ活かされるものだ。お前が働くということは平民になるのと同義だ」
突き放すような言葉に、アレクサンドラが黙った。既婚夫人や未亡人なら、貴族の令嬢の家庭教師や隠居した老婦人の話し相手といった職がある。だが、独身令嬢には自分よりも高位の家の侍女になるか、修道女となるぐらいしか、一人で生きていく術がない。どちらも貴族令嬢にとって厳しいもので、大抵は両親や兄弟たちの援助で暮らしていく。
「カルヴァン。そうきつく責めるな。可哀想じゃないか」
「父上、甘やかしていいことはありません」
「サンドラ、私たちはお前のことを愛している。だから本当に結婚せずにいたいというのなら、静かな場所に屋敷を用意するのはやぶさかではない。だけど、その場合、お前はひっそりと生きていくことになる」
アレクサンドラは自分がいかに甘い考えをしていたのか、気が付いた。婚約破棄したての頃も一人でも構わないと思っていたが、具体的な生活を描いてみればそれはとても寂しいものだ。
シーグローヴ伯爵は黙って俯いてしまった娘をしばらく見つめていた。アレクサンドラは好き嫌いがはっきりしていて、自分の役割をよく弁えている娘だった。それが、ぐたぐたとよくわからないようなことを言っている。そのことが不思議に思えた。
「もしかして好きな男でもできたのか?」
ぽつりと考えてもいなかったことを言われ、アレクサンドラは目を見開いた。
「ど、どど、どうしてそういう話になるの?」
「お前は良くも悪くも貴族の娘としての振る舞いを忘れたことはなかった。今後のことを考えれば、どんなに辛くても社交に戻っているだろう?」
「そうね、そうかもしれないわ」
かつての自分ならそうだ。その矜持だけでルーベンとは婚約状態を続けていたのだから。
「ロドニーが色々なところ連れて行っているんだろう? 彼なら我が家とは違う人脈を持っているから、違った出会いもあるだろう」
咄嗟にグレイの顔が思い浮かび、狼狽えた。
「なんだ、本当に気になる男がいるのか?」
「そういえば、最近よく一緒にでかけている相手がいると聞いたな。確かロドニーの友人だったか?」
しっかりと報告されているようで、カルヴァンが追撃してくる。二人の声に面白がる色が乗っていた。揶揄われていることが悔しくて、そしてそう思われてしまうことが恥ずかしくて、アレクサンドラは顔を真っ赤にした。
「お兄さま、変なことを言わないで! 彼はそういうのじゃないのよ」
「ふうん? 父上、身分的に問題なければその男を結婚相手として考えてもいいのでは」
「え? ええ?」
カルヴァンが突然何を思いついたのか、余計なことを言う。シーグローヴ伯爵もふむと腕を組み、考え始めた。
「……そうだな。無理やり相手をあてがうよりも、自分で見つけた方がいいか」
「相手が決まらなかった時にお見合いをしたらいいと思いますよ」
「よし! 明日の顔合わせは取りやめにしよう」
予想外の方向に話が転がり、アレクサンドラは茫然とした。シーグローヴ伯爵は放心した娘ににこやかな笑みを見せる。
「期間は一か月ぐらいあればいいか。結婚を許可するのは私が判断するが、彼と結婚して将来自分が幸せになれるか、しっかり自分で考えるんだ。相手が決まらなかったら、その時に改めて顔合わせの場を設けよう」
「そんな! 彼にとってただの友人の従妹でしかないのに……結婚だなんて」
「おや、まだ自分の気持ちもはっきりしていなかったか」
父親にからかわれて、かっと頬を熱くした。アレクサンドラは恥ずかしさに両手で顔を隠す。
「さあて、私はジャニスの機嫌でも取ってくるか」
そう言ってシーグローヴ伯爵は娘を部屋に戻した。