予定外の帰宅
アレクサンドラはここ数日の解放感に、毎日が楽しくて仕方がなかった。出かけるときはライカと二人のことが多いが、暇を見つけてはロドニーやグレイが連れ出してくれる。そしてグレイを通して知り合いになったぺルラの所へ顔を出したりと、充実した日々を送っていた。
ライカと老夫婦しか世話をしてくれる人がいないため、アレクサンドラも拙いながらも自分の身の回りのことはするようになった。初めてのことが多くお手伝いの域を出ていないが、誰かの手を借りて生活していたアレクサンドラには新鮮な体験だ。
「おまたせ」
今日はロドニーと一緒に買い物に来ていた。ずっと迷っていた小物をようやく手に入れ、店の外で待っていたロドニーへ駆け寄る。ロドニーは嬉しそうなアレクサンドラを見て、にこりと笑う。
「そろそろいい時間だと思うんだ」
「何が?」
時間を気にしている様子がなかったので、驚きに目を丸くする。ロドニーは子供にするように宥めるような手つきでアレクサンドラの頭を撫でた。
「もちろん迎えの馬車」
「迎え……」
楽しい気持ちが一気にしぼんだ。ロドニーを問い詰める間もなく、横に馬車が止まる。恐る恐る通りを見れば、よく知った御者がいた。彼はいつもと同じように会釈する。ロドニーは馬車の取っ手に手を伸ばした。
「さあ、時間は有限だ。質問は馬車に乗ってからだ」
馬車の中にはむっつりと不機嫌そうなカルヴァンが座っている。アレクサンドラは予想外に顔を合わせた兄に固まった。そんな彼女をカルヴァンは一瞥した。
「早くしろ。時間がない」
「逃げたい気持ちはわかるけど、ほら、乗って」
「屋敷には帰らないわよ」
アレクサンドラは後ずさった。だが、すぐにロドニーに止められてしまう。
「サンドラ、ちょっと顔を出してくるだけだよ」
「嫌よ。一度帰ったら、戻ってこれないじゃない」
「大丈夫だって」
どうしても屋敷に帰らせたいロドニーに不信感が募る。ロドニーは困ったようにカルヴァンを見た。
「そのままの格好で母上の前に出る勇気があるなら、ここで時間を浪費してもいいが」
「お母さまが帰っているの!」
悲鳴に近い声をあげれば、カルヴァンはため息をついた。
「お前が家出してから一体どれだけ経っていると思う。母上が直接タウンハウスに来るよりはましだろうが」
「お母さま、わたしがどこで暮らしているか、知っているの?」
カルヴァンに恐る恐る聞けば、呆れたような目を向けられた。
「知っているも何も、叔母上はきちんと母上に説明をして少しの間でいいからと許可をもらっていたぞ」
「ほら、話は馬車でもできるから。急いで着替えないと」
抵抗しても無駄だとようやく諦めた。項垂れたアレクサンドラをロドニーは馬車へ押し込んだ。
「じゃあ、よろしく」
「色々と世話をかけたな」
ロドニーとカルヴァンは短く会話をした後、馬車が動き始める。茫然としてアレクサンドラは馬車の外にいるロドニーを見ていた。彼は笑顔でがんばれと、手を振っている。
「アレクサンドラ」
いつまでも呆けている妹の名前をカルヴァンは呼んだ。のろのろと窓の外から前に座るカルヴァンへと顔を向けた。
「毎日の報告はライカからもらっていた。それに陰から護衛もつけている」
「え?」
「自由にさせておくわけがないだろうが」
当然のことを言われて、アレクサンドラは目を伏せた。
「そうよね。自由になった気がしていたわ」
「お前は貴族の娘だからな。何かあっても困る」
常識的に考えればすぐにわかるようなことをアレクサンドラは見ていなかった。大きく息を吐くと、気を取り直してカルヴァンを見た。
「それで、どこに行くの?」
「まずは仕立て屋で身支度をしてから、屋敷へ戻る」
「お母さまも知っているのなら、このままでもいいでしょう?」
アレクサンドラは自分の着ているものに視線を向けた。スカートのボリュームの少ないワンピースだ。街を歩くには十分に上品ではあるが、貴族としてはかなりみすぼらしい。
「説教時間が長くなってもいいのなら」
「……わかりました」
カルヴァンは肩をすくめた。
◆
「どういうつもりなの」
案内されたサロンで母ジャニスが不機嫌そうに待っていた。アレクサンドラは軽く挨拶をしてから、ジャニスの前の席へと腰を下ろす。
「どういうつもりって……まだ誰とも婚約したくなくて。お母さまはすぐに次を整えると思ったから」
ルーベンとの婚約破棄に傷ついて、とかもっともな理由を言おうかと考えたが、のらりくらりと答えたところで追及の手が弱まる気がせず、仕方がなく本音を答えた。
「あなたがイザドーラを頼るのはわかっていたわ。でもね、まさか護衛もつけずにタウンハウスで暮らすなんて」
「お兄さまがきちんと護衛を付けていたって聞いたわ。それにライカは連れていたもの」
「そういうことではないのよ。あなたが自分で連れて行かなかったことが問題だと言っているの」
タウンハウスで暮らすのが気に入らないのか、ジャニスが咎めるような目を向けてきた。アレクサンドラは逃げ出したくなる気持ちを押さえつけるように、体をソワソワと動かした。
「わかっているの? 婚約破棄した上に、タウンハウスで暮らしていることが誰かに知られたりしたら社交界で立場がもっと悪くなるわ」
「心配いらないわ。わたしだとわからないようにするために髪と目の色を変えて……」
「アレクサンドラ」
厳しい声でジャニスが名前を呼ぶ。続きの言葉は出てこなかった。アレクサンドラはぐっと手を握りしめた。
「楽しかったようでよかったわ、とはとてもではないけど言えないわ。あなたは嫌なことを先延ばしにしただけよ」
厳しい言葉に体が竦む。
「あなたは自分で選択したのだから、きちんと向き合う必要があるわ」
「婚約破棄の事なら後悔していないわ」
「違うわよ。はあ、やっぱり理解していないのね」
ため息をつかれた。ジャニスは少しだけ雰囲気を和らげると、カップを手に取った。
「あなたが選択したのは早めに婚約白紙にしなかったことよ。あの条件では婚約破棄も遅かれ早かれだったわ。ただいたずらに時間を引き延ばしただけ」
ジャニスがしつこいぐらいにルーベンとの関係を解消することを勧めていたのを思い出した。あの時は負けたような気がして、絶対に受け入れたくなかった。その頃からジャニスとの間はぎくしゃくしていて、アレクサンドラは母親とまともに話し合ってはいない。
「……わたしが意固地だったのは理解しているわ」
「そう。それならよかったわ」
何とも居心地の悪い言い方に、アレクサンドラは心がくじけそうになった。ジャニスのことは好きであるが、彼女はすべてを手に入れている。幸せな結婚も、家庭も、そして仕事も。父親は一度も愛人を作ったことがなく、ジャニスをとても大切にしている。しかも貴族夫人にすり寄られても氷のような対応をすることで有名で、この国では珍しいぐらいの愛妻家だ。
「お話がそれだけなら……」
「そんなわけないでしょう」
退散しようと腰を浮かしかけたが、ぴしゃりと言われた。
「ねえ、お母さま。もう少しだけでいいから、好きにさせてほしいの」
「……明日、わたくしと一緒にお客様のお相手をするのならしばらくは目をつぶりましょう」
「お客様? わたしの知っている人?」
嫌な予感しかしない。ジャニスは綺麗な笑みを浮かべた。もちろん目は笑っていなかった。
「会えばわかるわよ」
間違いなく次の婚約者候補だ。
アレクサンドラは顔をひきつらせた。