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現場に突入


 扉を開けるのが怖い。


 強い気持ちでここに来たのに、扉を開ける段階になって抑えつけていた不安が頭をもたげてきた。


「お嬢さま」


 心配そうな声に振り向けば、侍女のライカが両手を胸の前に組み、縋るように見つめている。アレクサンドラはほんの少しだけ、こわばった表情を緩ませた。


「心配しないで。大丈夫よ」

「無理をなさらなくても、わたしが確認してまいります」

「ううん。これはわたしがすべきことなのよ」


 強い言葉でライカにも自分にも言い聞かせ、アレクサンドラは震える手に力を込めて扉を押し開いた。


 重厚な作りの扉が音もなく開く。秘めやかな男女の囁き声を耳が拾った。聞いたこともない甘さを含んだ声に足がすくむ。


「やはり、わたしが」

「ライカ、下がって。大丈夫だから」


 大きく息を吸いながら落ち着け、と自分自身に呪文のように言い聞かせた。逃げ出したくなる気持ちを押し込め覚悟を決めると、部屋の中に足を踏み入れた。


 庭が一望できる大きな窓からは昼間の明るい光が惜しみなく入り込み、真新しいレースのカーテンが差し込む光の強さを和らげている。


 結婚後に住まう部屋は心地よい空間になるようにと、アレクサンドラが時間をかけて一つ一つ吟味して整えていた。いつもなら心落ち着く部屋であるのに、今日はひどく色あせて見えた。


 広い主寝室の中央にある大きな寝台では男女が抱き合っていた。


 この屋敷に入るまでは本当に恐ろしかった。

 大切に守ってきた世界が壊れてしまうと思っていた。


 でも今感じているのは――間違いなく怒り。

 その事実にほっとした。


 婚約者であるルーベン・ハフィントンがふと何かに気が付いたかのように、女を抱きしめたまま顔を上げた。


 柔らかな栗色の髪はいつも以上に乱れ、シャツのボタンは幾つか外されていた。腕に抱く女性は彼に寄り添うようにしなだれかかっている。婚約者のあらぬ姿を見たいわけではないので、多少淫らに乱れていても服を着ている状態に、ほっと胸をなでおろした。


 幼いころから婚約をしているので見慣れているはずの婚約者であるが、女に睦言を囁きながらけだるい色香を放つ男は見知らぬ人のよう。


 ルーベンの視線が部屋を彷徨い、扉の近くに立つアレクサンドラを捉えた。甘さのある顔が一瞬にして驚きの表情に変わる。


「アレクサンドラ!?」

「ごきげんよう、ルーベン様。わたしの家の使用人と関係を持っていると聞いてまさかとは思っていたけど……本当のようね」


 女は彼にしがみつきながら、わずかに唇の端を上げた。驚く様子も、慌てる様子もなくこちらを見る彼女に、アレクサンドラは怒りを無理やり飲み込んだ。


 この女の狙いはわかっていた。よい縁談を期待できない下位貴族や困窮している貴族家の娘が上位貴族の愛人の座を狙う。妻にはなれないが、そこそこ贅沢な暮らしができる。一夫一妻制でありながら、愛人に寛容なこの国ではよくあることだ。


 貴族の娘らしく波風を立てないよう愛人の存在を無視することもできた。それが正妻の矜持とも言われて、アレクサンドラも育てられている。でも何事にも限界はある。


「君の家に行った時に声をかけられて。たまにはいいかなと思って」


 ルーベンには不貞を見られた焦りは全くなく、天気でも話すような気軽さだ。アレクサンドラは荒れ狂う感情を抑え込むように強く手を握りしめた。


 何度こうして高ぶる感情を宥めてきたことか。慣れてしまっている自分が嫌になる。


「ルーベン様、今回は遊びとして見逃せないの。流石に婚姻前に愛人が妊娠するなんて醜聞は許すことはできないわ」

「妊娠? そんなこと有り得ない」

「言い切れるということはルーベン様が避妊していたということ?」

「そうだ。当然だろう?」


 彼の言葉を信じられずに目を細めて彼を観察した。自信満々に言い切っているが、女は妊娠したと色々なところで吹聴していた。アレクサンドラの住む屋敷だけでも知らない人はいない状態。だからこそ、アレクサンドラの耳にも届いたのだが。


 ちらりと寝台にいる女に目を向けた。女はにやにやと何やら楽し気に笑みを浮かべている。その笑みに思わず眉をひそめた。


 平民ならまだしも、男爵家の娘が貴族の結婚を知らないはずがないのだが、彼女の態度からはそんな常識を持ち合わせているようには見えなかった。今までと違って随分と面倒な相手を選んだものだ。遊び相手には最悪な相手だともいえる。


 ルーベンの女遊びは二年ぐらい前から始まった。二人で参加した夜会で、遊び慣れた貴族の未亡人に女遊びは貴族男性の嗜みだと誘われたことがきっかけだ。

 まだ子供から大人になる過程であったアレクサンドラに対して、その未亡人はとても肉感的で女らしさに溢れていた。


 ルーベンは彼女の色気のある仕草や向けられる言葉に真っ赤になり、アレクサンドラは自分がどれほど子供なのかを突き付けられていて、ただただ狼狽え固まった。そして未亡人は上手くルーベンを連れ出してしまい、アレクサンドラはポツンと夜会会場に置いていかれた。


 その夫人とは長く続かなかったが後腐れのない恋愛が楽しかったのか、別れたあとは様々な花たちを摘み始めた。


 もちろんアレクサンドラも彼の家族も度を過ぎた行動を窘めた。その度に反省を示すが、しばらくするとまたふらふらし始める。


 享楽的な花たちは美しく咲くばかりではなく、暇つぶし程度の気楽さでアレクサンドラを傷つけていく。茶会や夜会で女たちの嘲笑を聞くたびに、幼い頃から築き上げたルーベンへの愛情と信頼は少しずつ色褪せ、崩れ落ちていった。今ではその欠片さえも見つけることはできない。


「本当かどうかなんて関係ないのよ。すでに社交界ではルーベン様が愛人を妊娠させたと噂になっているの。……お約束通り、婚約破棄の手続きを行いますね」


 冷めた口調で告げれば、ルーベンは寝台から慌てて降りてきて近寄ってきた。


「婚約破棄!? アレクサンドラ、ちょっと待ってくれ! 約束を破ったのは悪かった。ちょっと噂になったぐらいで、そう目くじらを立てなくても。彼女とも愛人にするつもりはなくて、結婚前の……ただの遊びなんだ」

「遊びじゃないです! わたし、ルーベン様の子を妊娠しています!」


 ルーベンが否定したことで、女はぎょっとした顔になった。悲痛な声で訴えてくるが、少しも心に響かなかった。ルーベンは甲高い声を上げた女に肩を竦めた。


「王族が使う避妊魔法を使っていたんだ。絶対に妊娠しない。もし妊娠しているのなら、僕の子ではないんだろう」

「ルーベン様!?」


 二人の醜いやり取りに我慢ができず、アレクサンドラはつかつかと婚約者の側に寄った。冷たい顔をしていながらも近づいてくる彼女に婚約者は申し訳なさそうな、それでいてどこかほっとしたような顔をした。


 彼は許されたと思ったのだ。今までも怒った顔をしていても、アレクサンドラは最後にはルーベンを許していた。


 近寄るアレクサンドラを抱きしめようと彼は両手を広げた。


「アレクサンドラ、すまなかった。今回は常識のない女を相手に選んでしまったようだ。これからは気を付けるから――」


 アレクサンドラは後一歩の距離を空けて立ち止まり、ドレスの裾を摘まんだ。左足を軸にして右足を後ろに振り、躊躇うことなく彼に向って振り上げる。


「ぐっ……ふぅ」


 蹴りの勢いをすべて股間で受け止めた婚約者はくぐもった声を漏らしてその場に崩れ落ちた。



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