2.人生最後の余暇
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姉が部屋から去り、一人きりになった。すると、急激に全身が重たくなったように感じた。
「………疲れた」
意外と落ち着いていたといっても、疲れない筈もない状況だ。なんせ、急に異世界にいることを自覚して、姉の会話から少しでも情報を掴もうと気を張っていたのだから。
明日からは、王妃様が主催するというお茶会でのマナーレッスン等が始まり、忙しいとわかっているので、休めるうちに休むことも大切だ。
「よいしょ、っと」
多分絹であろう、肌触りのいい布が使われているベッドに背中からダイブする。それなりに勢いよく倒れこんでも立派なつくりのそれは軋む音一つ立てない。
「まぶし…」
右手で両目を覆うように置く。人口の、LEDの光ほどではないとはいえ、自然の日が差し込んでくる部屋はとても明るい。疲れている今、その光の強さはつらく感じた。
じわじわと手のひらの温度が目の周りを温める感覚が心地よい。少しだけ、気持ちの整理がつくまでは、こうしていよう。
微睡んでいるうちに、人が行き交い夜も明るい、大学生活が瞼の裏に映し出された。夢というよりもただの記憶の再現に過ぎないそれを、ぼんやりと眺める。
一般に大学生活とは、人生の夏休みと言われている。文系、理系によって差はあるものの殆どの場合大学生はまとまった休みと、充実したサークル等の活動が待っているからだ。
角川双葉は人文学部三年生、ちょうど小学生なら夏休みの終わりに差し掛かり課題が終わっていなければ焦る時期であった。その課題というのは就職活動であるが。
「やっと、休み時間か…」
人生の中では夏休みでも、その日はは大学の学習カリキュラム上は夏休みでも何でもない普通の授業がある日だった。午前の授業が終了したので、共同の学生食堂に昼食を摂るべく向かいつつスマホを片手で開いた。
「あ」
通知画面に一件の新着メッセージがあることを確認して、画面を落として走りだした。
食堂の入り口に辿り着くと、壁側に少しよけてスマホを見ていた待ち合わせ相手が丁度顔を上げた。少し周りを見渡したのち、目が合った。
「双葉!」
こちらに気付くと表情を明るくし、小走りで駆け寄ってくる幼馴染は大変可愛らしい。低めの位置で二つに分けて結った黒髪に季節問わない長袖と長ズボン。間違いなく自分の幼馴染、本田旭だ。
「旭、待った?」
尋ねると小さく首を横に振る。性格から考えると待ち合わせの10分前からここで待っていそうなものだが、本人が待っていないと言うなら言及するのも無粋だろう。
「そっか、じゃあ、お昼食べよう」
「うん」
旭が先に食堂に入り、食券を自販機で買って長蛇の列に並ぶ。昼休みは利用する人が多い。昼の前後の授業が空いていれば、もう少し快適に食事ができるが仕方ない。
並んでいる間はお喋りタイムである。基本的には直前の授業の感想や次の授業の予定などを適当に話しているだけである。
「旭は、午後から授業ある?」
「ある、実験」
工学部に所属している旭は人文学部と違って実験などが多い。それ故に常に長袖長ズボンである。夏場は暑そうに感じるが、本人が気にしていないので放っていた。
「どんな実験?」
そう尋ねると少し黙る。どう説明しようかを考えているのだろう。旭が答えを考えている間に昼食待ちの列は進み、自分の目の前にはきつねうどん、旭の前にはかやくうどんが置かれた。麺類のほうが待ち時間が短いからよく頼むのである。
「燃焼実験、だから、暑い」
座ると同時に旭は小さくつぶやいた。全く工学に興味もない人が返しやすい答えを考えたのだろうが、少しズレているところが面白い。
「そっか、頑張って」
「うん」
実験が楽しみなのか、足が前後にゆらゆらと揺れている。壁にぶつけた音がしたが、全く痛がっていないところを見ると安全靴なのだろう。用意周到である。
「安全靴?」
「そう、新しいの」
「へえ、黒にしたんだ。カッコいいね」
「あ、ごめん。話変わるんだけど、双葉は来週の就職セミナー行く?」
雑談をしていたはずが、突然のあまり楽しくはない、しかし重要な話題に、口の中の麺を一気に飲み込んでしまい軽く噎せる。慌てて旭がコップを差し出し背中をさすってくれる。
「行く、けど。どうしたの急に」
「絶対参加だって、授業で言われた」
「午前の授業?」
「そう、キャリア教育」
どの企業の説明を聞いたかレポートに書いて提出するらしい。就職率100%を謳っている工学部は大変そうだ。かといって人文学部も就職は自力で掴み取らなければいけないので絶対参加である。
「一緒に行こう」
車は出すから、お願い。と言われて断るわけもなく、ただ頷いた。
「じゃあ、授業終わったら予定調整するか」
「私、午後は実験が2コマあるだけ」
「俺も授業が二つ。終わったら連絡する」
それから、食器を下げていつもより少し余裕のある時間に食堂を出た。時間に余裕ができたので、少し遠回りをしていくことにした。
工学部棟の前で旭と別れる。手を小さく振られたので、返してやるとにっこり笑って走り去っていった。元気である。
しばらく一人で歩き、人文学部棟に至る廊下を抜けて扉に手をかける。大きなガラスのはめ込まれた重たい扉を開き切ると、そこは異世界だったのだ。
転生前の記憶はここで途切れている。
「廊下で何があったんだ…」
人生の夏休みが前世での人生最後の余暇となるとは思ってもいなかったが、その辺りは考えても仕方がない。しかし、問題は先程から今の自分について碌に思い出せないことである。
「子供の記憶は曖昧って、分かってるけど…」
今まであやふやな5年分の記憶しかないところに、比較的はっきりした20年と少しの記憶が入ってパンクしたのであろう。家族構成すらぼんやりとしか思い浮かばない現状にため息が出る。
「…ああ、もう」
もし、扉を開けなければ、とは思った。現実では無理でも、今見たばかりの自分の夢くらい変えったっていいだろう。それでも最後まで捻じ曲げなかったのは、これからこの世界で生きていく為に必要なことだと感じたからかもしれない。
「前向きに考えるしかないか…」
この世界での年齢を考えると、まだ就職などについて考えなくていいのは救いかもしれない。そもそも貴族など世襲制だろうが。
「フタバ様」
いつの間にか晩餐の時間になっていたのか使用人からであろう声が掛けられる。今行くよ、と返事は貴族らしくできていただろうか。
フタバは知る由もない、その後の実験で旭の班はメンバーのミスにより小火騒ぎを起こし、大慌てで隣室に追加の消火器を取りに行ったりしていたことを。
次回は6月7日17時更新予定です。




