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第19話 追い詰められた弟子

 デ=レイは音もなく起き上がると、流れるような仕草で寝台から下りて、シエーナの前に立った。彼女を見下ろすアイスブルーの瞳は、初めて魔術館の前で会った時のように、冷え冷えとしている。シエーナの鼓動が、どくどくと上がっていく。


「始めから、おかしいと思ったよ。伯爵家の一人娘が魔術師になどなりたがるはずはない、と。ましてやこの陰気な渓谷で働きたいなど。一体どんな魂胆や狙いがあって、ここに来た?」

「わ、私……、本当はル=ロイドに会いに来たんです」

「祖母はもういない。それなのに、君は今ここで何をしている?」


 魔法の内容を話してはいけない、とル=ロイドは言った。他人に明かせば、あの魔法はたちどころに消えてしまうと。

 唇を引き結び、開こうとしないシエーナに業を煮やし、デ=レイは手を伸ばして彼女の両手首を掴んだ。シエーナが息を呑む。

 何かを盗んだのかと訝しみ、手首を握って上に持ち上げ、掌をこちらに向けさせるが何も持っていない。

 シエーナの瞳が揺れ、不安そうにデ=レイを見上げている。

 貸したワイシャツとズボンは大き過ぎて、ひどく滑稽な格好になっている。だがシエーナが髪を結うことなく肩に垂らしているのを見るのは、初めてだった。

 デ=レイは固まるシエーナを、しばし無言で見下ろした。

 波打って胸元に流れる(はしばみ)色の髪に視線が吸い寄せられ、長い髪の美しさに心惹かれ、目はゆっくりと毛先までを辿ってしまう。

 デ=レイは掴んだシエーナの手首を、壁に押し付けた。


「さて、どうしようか。そもそもイジュ伯爵は本当に、君がここに来ていることを知らないのか? 伯爵は、私と君が二人きりだと知っているのか?」

「父には、まだここのことを話していません。私がリド魔術館にいると思っています。それに、ほ、他にもたくさんの女性のお弟子さんが魔術館にいると、父には言ってあるので……」


 デ=レイはゆっくりと目を閉じながら項垂れるように重い息を吐いた。


「君は、たいした嘘つきだ」


 もっとも、本当のことを伝えてしまえば、娘がここで働くことを伯爵は許さないからだろう。

 だがますます分からない。シエーナの目的は、なんなのか。


「イジュ伯爵が、君が私の寝室に忍び込んだと知ったらどうなる? 知らせてみるか?」


 血の気が引く思いで、シエーナが首を左右に振る。


「親まで騙して、ここで何がしたい? 何が目的でこの魔術館に潜入を?」


 目を逸らして答えようとしないシエーナを前に、デ=レイは質問の仕方を変えることにした。無防備過ぎる伯爵家の令嬢に、少々灸を据えたい心境に駆られたのだ。


「シエーナ・マリー・セリーヌ・フォイアンヌ・イジュ伯爵令嬢」


 フルネームを呼ばれたシエーナが、ピクリと体を震わせる。


(いいぞ、いい。少しはこの状況に怯えてくれ)


 デ=レイは座り込むシエーナを壁際に押しつけ、膝をついて彼女の顔を覗き込んだ。

 至近距離に顔を寄せるデ=レイに困惑し、シエーナが瞳を右に左にと彷徨わせる。見慣れたとは言え、秀麗な顔があまりに近くに迫るので、目のやり場に困ってしまう。


「君は異性と一つ屋根の下にいて、挙げ句に今……夜中に寝室に忍び込んでいる。こういうことされても、文句は言えないぞ」


 壁に押し付けられた手首が痛く、デ=レイの鬼気迫る表情が恐ろしい。けれどもすぐ目の前で紡ぎ出される言葉は全身の力が抜けてしまうほど耳に心地よい。

 デ=レイの顔が見たくなったシエーナが瞼を持ち上げ、アイスブルーの瞳と黒い瞳が見つめあう。

 その瞬間、デ=レイは室内の暗さのせいで何も反射していない黒い瞳に、自分自身の中身が吸い込まれたような気がした。まるで二つのブラックホールのように。

「シエーナ」と名を呼びながら、気がつくとデ=レイは自分の唇をそっと彼女の頰に寄せていた。シエーナは一瞬体を強張らせただけで、動かない。

 口づければ身をよじって逃げるだろう、と予想していたデ=レイは、受け身のシエーナの反応に微かに驚いた。

 無防備なシエーナを少し脅かすだけのつもりだったのだが、あたたかな頰が心地よくて、唇を離せない。

 その柔らかな肌に触れると、ジリジリと胸が焦げるように熱くなり、たまらず唇をゆっくりと滑らせ、彼女の頬をなぞるようにして口元に向かっていく。

 デ=レイはシエーナの唇に己の唇で触れる前に、ようやく動きを止めた。これ以上続ければ、本格的なキスをしてしまう。その先は、自分でも止める自信がない。

 そのまま唇を離し、やや呆れたように呟く。


「ーーなんでよけない?」

「よ、よけないといけませんか……?」

「よけるだろ、普通。この状況なら」


 数秒の間の後で、シエーナが震える声で答える。


「だ、だって……」

「よけてくれないと、互いにキスをしてしまうじゃないか」

「で、でも。私……、あんまり、嫌じゃないんです……」


 シエーナの告白の後半は、消え入りそうなほど小さかった。けれど、彼女は自分でも困惑してしまうほど、デ=レイの急なキスが心地良かった。

 対するデ=レイは聞き間違えたかと思い、問い返す。


「なんだと?」


 ぎこちない間が沈黙を埋める。

 二人とも自分達がやっていることが、そして何がしたかったのかを一瞬忘れかけていた。

 デ=レイはつい本音を漏らした。


「ーーもう一度言ってくれ。最後のほうが、よく聞こえなかった」

「い、嫌です。やっぱり恥ずかしいから、離してください。お、お師匠様がこんなことをなさるなんて。お師匠様失格ですわ」

「いや君、人のこと言えないだろう」

「そ、そうなんですけど」

「――シエーナ。何を隠している? 親にまで言えないことで、一人で悩む必要はない」


 たしかにシエーナは一人で全てを抱え、悩んできた。

 もはやどうにも自分だけでは処理できないのも、明白だった。

 デ=レイはシエーナの手首から手を滑らせ、その両手を優しく握った。


「教えてくれ、君は一体何に悩んでいる?」


 契約の内容を話さなければ、大丈夫だろうか。

 甘い言葉で促され、力強く手を握られると、強情さがみるみる萎えていき、弱った心が溢れ出して止まらない。

 もはやデ=レイの力と知識を借りるべきなのかもしれない。ここまで来れば、話さなくてももう結果は同じだろう。

 シエーナは観念したように口を開いた。


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