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悪魔と人と

作者: 雨森 夜宵

 いつか、どこかのお話です。そこに住む彼は、いつも、ひとりぼっちで膝を抱えておりました。誰とも口を利かぬまま、何をするということもないまま、町外れの小さな家に閉じ込められて。どうしてでしょう?

 もしもその理由が気になるのならば、この町の誰でも良いから訊ねてごらんなさい。きっと誰もが口を揃えて言うでしょう。


「あの子は悪魔に魂を奪われちまったのさ。証拠にあの子は涙を流さない。真っ赤に焼けた鉄で殴られたって泣かないし、それどころか年も取らないし死にもしないんだ! ああなんて恐ろしいんだろう!」


 そんな具合に、彼はもう何十年も自分の家に閉じ籠ったままでおりました。彼にも、お父さん、お母さん、それと二つ上のお兄さんがいましたが、彼らはとうの昔にいなくなってしまいました。悪魔と戦える人を探しに行くと言って、彼だけを残して出かけ、そしてそれきりでした。誰もいないこの家に、彼はひとりぼっちでいたのです。

 死なないからって、痛くないわけではありません。涙が出ないからって、悲しくないわけではありません。真っ赤に焼けた鉄で殴られれば、痛みで叫びます。痛い、と言います。やけどだって、痣だって残ります。なのにどうしてでしょう、涙だけは一粒も流れては来ないのです。涙が出てこないのは、魂がない証拠なのだと、町の人はみいんな考えておりました。涙の出ない彼は、ずっとずっとひとりぼっちでした。

 月に一度、町の人たちは早く彼を町の仲間に入れてあげようと――そう、あくまでも「憐れみ」と「優しさ」から――彼の魂が戻ってきていないかを確かめました。つまり、彼を考えうるありとあらゆる方法で痛めつけて、涙が出ないかじっと待ってみたのです。ところが、待てど暮らせど彼の目から滴るものはありません。そして、涙が出ない限り、彼の魂は戻ってきていないということになるのですから、彼はもう一月、家の中に閉じ込められることを余儀なくされます。

 ひどく体は痛むのです。なのにいくら叫んだところで、いくらのたうち回ったところで、肝心の涙は一滴も出てきてくれはしません。最初彼自身は、それを何かの病気と思っておりました。けれど、町の人々からそういう扱いを受けているうちに段々、本当に自分は魔物なのではないのかという疑念を持つようになりました。魂が乗っ取られたせいで、体まで悪魔にされてしまったのではないかと。悪魔の血は黒いのだと、彼はどこかで聞いたことがありました。もしかして、自分の中に流れているのは、人間の赤い血ではないのではないかしら。彼は、それが怖くて怖くてたまらなくなりました。痛みの中で訳が分からなくなった後、いつも目にするのは、黒く錆び付いたような血ばかりでしたから。


 ある夜に、彼はいてもたってもいられなくなって、家にあったナイフを己の腕に滑らせてみました。

 ぱっくりと開いた傷口からは、まるで涙のように、赤い赤い滴が滴り落ちました。彼はそれを見て、心底ほっとしたのです。そして、さっきまでの心配が本当にバカらしく思えてきて、彼は滴るそれを見つめながら思わず笑ってしまったのでした。確かに、彼の中には赤い血が流れておりました。安心したのでしょう、彼はその日、普段よりもよく眠れました。


 ところが、次の日。それを聞いていた近所の住人が噂に流したので、町中は大騒ぎになりました。いよいよ彼が本物の悪魔になってしまいそうだと、町の人が恐れ戦いたことは言うまでもありません。殺してしまおうと言う人もいました。言わないけれどそう思う人は、もっと多くいました。けれど誰が行くのかという話題になると、その人たちは決まって口を噤んでしまうのでした。恐ろしかったのです。もし、彼が本当に悪魔になっていたら。そんな彼を殺そうとしたら、それどころか焼けた鉄で殴ろうとするだけでも、どんなことが起こるか分かったものではありません。町の人は誰も、彼に近寄ることすらできませんでした。

 彼の方も彼の方で、とても苦しい思いをしていました。自分の血は黒いかも知れないという不安が、頭にこびりついて離れなくなってしまっていたのです。昼間は平気でも、日が沈むと気になりはじめ、何かの儀式のようにナイフを取り出しては体に当てるようになりました。時折やりすぎて悲鳴をあげることもありましたが、最後には赤い血を見て嬉しくなり、笑い、そして笑い疲れたらそのまま眠りにつくという一日を繰り返しておりました。人々はいよいよ悪魔らしくなってきた彼を恐れて、遂に月に一度のあの「儀式」すらやめてしまいました。


 そうして、更に何十年という年月が経った、ある日。一人の旅人が噂を聞いてこの町を訪れました。彼はこんなことを言うのです。


「私はかつて両親を悪魔によってとり殺され、今その敵討ちの為に悪魔を探して旅をしてきました。この町に巣食うと聞く悪魔を、どうかこの手で討ち取らせてほしい」


 この話は瞬く間に町中に広まったので、もちろん彼もすぐに知ることができました。町の人々が口々に彼を殺せと叫んでいることも、悪魔の力が弱まる明日の朝に乗り込むと旅人が宣言したことも。ですから彼は、その晩じっくりと考えました。それこそ、例の不安のことさえ忘れてしまうほどに。考えて、考えて、夜が明ける直前まで考えて、それからやっと、彼はあるひとつの決心をしたのでした。

 朝陽が昇り、美しく澄んだ光が室内に差し込むと同時に、旅人は彼の家の扉を乱暴に蹴り開けました。久々の来訪者に、古くなっていた蝶番は簡単に壊れて、ドアもろとも室内へふっ飛んでいきました。彼は、部屋の隅にある椅子に腰かけ、旅人を待っておりました。わざわざ陽の当たらない壁際を選んで。傷だらけの手足がよく見えるように、袖の短い服を着て。


「貴様が悪魔か」


 旅人は問いました。


「違う、僕は僕だ。今は悪魔はいない」


 彼はなるべく気持ちを隠して、平らな声で言いました。久しぶりに出した声は鉋くずのようにぱさぱさで、ひどく掠れておりましたが、辛うじて旅人には届いたようでした。驚く旅人に、彼は空気を絞り出すように続けます。


「悪魔は何十年も……いや、それよりも長く、僕を苦しめてきた。夜になる度、僕に僕を傷つけさせた。泣くことも許されない……苦しい。だから、お願いだ、名も知らない人。……僕を殺しておくれ」


 旅人は呆然としておりました。彼の話にか、傷にか、それは分かりませんが。少なくとも旅人は、彼を憎むべき敵とは見ていないようでした。旅人と彼とは、互いに動かずにいました。そこに、外の人々の声が波のように押し寄せます。


「旅人様、お気を確かに!」

「それは悪魔めの罠ですぞ!」

「惑わされてはなりませぬ、旅人様!」

「旅人様!」


 それでも旅人は、腰に携えた剣を抜こうとはしませんでした。迷っていたのでしょう。彼は小さく微笑みました。ここまでは彼の予定通りなのですから。彼は、小さく体を揺らしながら笑いました。くつくつ。今度はもう少し大きく。くくくく。そしてさらに大きく。ふふふふ。最後には、思いっきり仰け反りながら。あっはっはっはっは。警戒し直した旅人が剣を構えたのを、視界の端に捉えながら。彼の喉は既に調子を取り戻しておりましたから、彼はさっきとは全く違った太い声を出しました。できる限り大袈裟に、そして嘲るように、煽り立てるように。


「ふん、所詮お前もこの程度か! 親を殺されたというのに! こんな名前も知らない男の為に、敵討ちに躊躇いを感じるとはな! はっはっは! 他愛もないものだ! あっはっはっはっは!」


 旅人の瞳に、静かな怒りが炎のように揺らめきます。


「お前の両親もこの男と同じことを言ったぞ! もういやだ、いっそ殺してくれとな! はっはっは、脆い! なんと脆いものよ! 殺せばよいではないか! この男もそれを望んでいるのだからな、あーっはっはっはっはっはっはぁ!」


 その台詞が、決め手になったようでした。

 旅人が剣を前に構えて走り出したと思ったら、次の瞬間にはその剣が、彼の鳩尾を壁に縫い付けておりました。彼は思わず呻きを漏らしました。焼けるような痛みが、刺されたところから弾けるように広がります。彼がそこを見下ろすと、赤い、赤い血が、じわりと広がり出しておりました。見上げれば、怒りに満ちた旅人の目が、宝石のように煌めいています。歓喜に満ちた人々の叫びが、小さな家を揺さぶって、そのまま壊してしまいそうなほどでした。

 それでいいと、不自然な嘲笑を貼り付けたまま、彼は呟きました。旅人の瞳が、僅かに揺らいだ気がしました。ずるりと剣が抜かれて、体の重みをそのままに彼は床に崩れ落ちました。真っ赤な、炎のように真っ赤な血が、床を染めて広がっていきます。小さく、彼は笑いました。

 その頬に何かが落ちてきて、彼は不思議に思いました。

 次の瞬間、彼は力強い腕によって抱き上げられ、もう一度見上げた瞳が、潤みきり、いっぱいに見開かれた旅人のそれとぶつかりました。自分の体を支える腕が、はっきりと震えているのを、彼は感じていました。誰かの腕の中にあるという感覚は、彼にとってほとんど初めてのものでした。誰かが彼を見て泣いているというのも、彼にとっては初めてでした。悪くない、と彼は思いました。悪くない。


「君は、初めから人だったのか?」


 旅人はそう呟きました。呟きながら、ぽたぽたと涙を零しました。涙は彼の頬に当たって弾け、彼はそれを、くすぐったいと感じました。痛みではない感覚でした。それも、悪くないと思いました。彼は頷こうとしましたが、上手く力が入らず、その動きはとても小さくなりました。それでも、旅人には伝わったようでした。


「悪魔なんて、いないよ。みんな同じ、人。だから、もう」


 恨まないで。

 彼が囁くと、旅人は何度も頷きました。いくつもいくつも、彼の頬に滴り落ちました。くすぐったさが、少しずつ遠くなっていく気がしました。ようやく、彼は自分のするべきことが全て終わったことに気付いて、心の底から、静かに微笑みました。瞼がひとりでに落ちました。体から力が抜けていきました。


 悪くない。


 いつの間にか、そこには陽の光が真っ直ぐに差し込んでおりました。朝の光に照らされた彼の頬には、いくつもの滴が乗って、宝石のように輝いておりましたが、やがて、その頬の上を滑り落ちてゆきました。

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