第8節:風雲急
山道は両脇に大小の木立が絡み合うように乱立しており、夕刻近いこの時間だと薄暗く少し空気が冷えている。
そろそろ巣に帰るのか、鳥たちの声がいつもよりも騒がしいようだった。
「あら、錆揮」
そんな中を帰る途中、別の山道と合流する場所で錆揮は烏と会った。
烏は色白の小柄な女性だ。肩に弓と、今日の獲物なのだろう兎を数羽ぶら下げている。
「烏も、今から帰り?」
「ええ 錆揮はお使い?」
「うん。荷物を届けて、野菜貰って来た。長老の所にお客さんが居たよ」
「珍しいわね。いつもの行商さんじゃなかったの?」
「青い髪の人だった。俺、初めて見たよ」
「青……?」
烏は錆揮の言葉に、少し声を潜めた。
「そうだけど。髪の色がどうかした?」
「いえ、確かにこの辺りじゃ見かけない色だから。どんな客だったの?」
「流れの行商の人だって。薬草探しをするみたいだから、この山にも来るかもね。女の人だったよ」
錆揮が烏と話しながら歩いていると、前方にまたしても二人の人影が見えた。
それが誰か分かった途端に錆揮は声を上げる。
「姉ちゃん!」
すると、何やら話し込んでいた二人が振り向いてこっちを見た。
「いきなり、大きな声出さないの」
烏が嗜めながら苦笑する。
錆揮は、聞こえない振りをした。
もう少し近づいてから声を掛けてもいい事は分かっていた。
だが姉が白抜炙と二人で話しているのを見ると、どうにも錆揮は苛立たしく思ってしまう。
別に白抜炙の事が嫌いな訳ではない。
だが、彼が姉と二人で居るのを見るのが嫌だった。
「錆揮」
決して大きくはないがよく通る声が彼を呼ぶ。
美しく、同時に愛らしい顔立ちの姉は相変わらずの無表情だ。
昔からあまり笑わない人だったが、今も笑みはない。が、姉は感情を抑えているだけで本質的に冷たい人間ではない事を、錆揮は知っている。
小さな唇と切れ長の目元は涼し気で、ともすれば冷たくも感じられるが、幼さを残した頬の柔らかい曲線がその印象を和らげている。
彼を呼ぶその声に慈しみが宿っている事は、彼女を深く知らない人間には気付く事すら出来ないだろう。
それほど、姉の表出する感情は希薄だ。
だからこそ、姉が白抜炙と居る時に見せる僅かな無防備さが、錆揮には我慢出来ない。
「あまり嫉妬深いと、嫌われるわよ?」
「煩いな。関係ないだろ!」
見透かしたような烏の言葉に腹が立って、錆揮は足を速める。
烏が、少し呆れたように溜息を吐くのが後ろで聞こえた。
「どうかしましたか?」
「……何でもない」
姉の気遣いに、そんな言葉しか返せない。
戸惑ったように朱翼が白抜炙を見るが、白抜炙は困ったように頬を掻くだけだ。
二人を困らせているのが自分だと思うと、ひどく居たたまれない気がした。
「白抜炙」
追いついてきた烏が、白抜炙に話しかけると、彼は烏を見た。
「何だ」
「村に、山師の女がいるそうよ」
「それが?」
「いえ、少し気になってね」
「どうしてだ?」
白抜炙が素っ気ないながらも話を聞く姿勢で問い返すと、烏は少し考える素振りを見せてから、言葉を口にする。
「山師の中には、というか、山師を名乗る者の中には、と言った方が正しいんだけど。山と共に過ごす者と、山の恵みを商う者の他に、噂を商う者がいるの」
と、烏は視線を走らせるように朱翼に目を向けた。
視線の意味を、錆揮同様姉も悟ったようで、顔に戸惑いを浮かべている。
「そういう事か」
「ええ、気をつけるに越したことはないと思う」
「分かった」
錆揮は、二人のやり取りに不穏な色を感じて朱翼を見た。
姉が狙われない為に、彼女が顔や髪を隠した上で出来るだけ人目に触れないよう御頭や白抜炙が心を砕いている事は錆揮も知っていた。
錆揮が顔を見上げると、朱翼は立ち並ぶ木立を透かすように村のある方向へ目を向けている。
その表情は、いつもより強張っているように見えた。
「姉ちゃん?」
「どうした、朱翼」
錆揮が声を掛けると、白抜炙も姉の様子がおかしいのに気付いたようだった。
「金水の気が、異常に強まっています」
朱翼に言われて、白抜炙は懐から符を取り出す。
符、とは金属や粘土、あるいこの辺りでは希少な紙片を短冊形にして紋を描いたり刻んだりした物を言う。
白抜炙は、符術士だった。朱翼のような呪紋士と異なり、符に予め刻まれた紋を使い分ける事に長けている。
今彼が持っているのは感応符と呼ばれる種類のもので、天気地脈を感じる為の符だと聞いていた。
「感起」
白抜炙の呪に応じて、符が薄く光る。
「五行気があり得ない程に偏っているな」
「ええ。村の方角です」
「おかしいわね。麓の村を含むこの一帯は須安様の結界によって天地の気を整えられているわ。偏りが生じ辛くなっている筈でしょう?」
白抜炙たちのやり取りに、烏が参加する。
皆、鋭い光を目に宿していた。
「気が偏る事自体は、然程珍しい事でもねぇが……」
「偏り方が急過ぎます。今も金水の気が増しているようです」
朱翼は、常ならぬ事らしく、口調がどこか不安そうだった。
「結界が破られたのか?」
「分かりません」
そんな朱翼の声を遮るように、坂の下から切迫した声が聞こえて来た。
「錆揮さんーーー!」
先程の錆揮の声など比較にならないほど大きな声に、全員が一斉に振り向く。
駆けて来たのは、マドカだった。
「村に、水魔が!」
水魔。
その言葉に、全員の顔に緊張が走った。
全力で駆けて来た様子なのに、マドカの顔色は真っ青だった。
烏が転げるように駆け寄ったマドカを抱きとめ、白抜炙を見る。
「白抜炙!」
思わず固まっていた錆揮と対称的に、皆の行動は迅速だった。
「飛脚」
人数分の符を取り出した白抜炙が起呪を呟く。
全員の背に、その符を張り付けた。
「剛力」
次に、錆揮の背にさらに一枚符を重ねる。
ーーー金剛身符術。駆ける速さや腕の力などを増す符術だ。
「朱翼、烏。村へ行くぞ」
「私もですか?」
朱翼の言葉に、白抜炙は頷いた。
「大丈夫なの?」
烏の問いかけに、白抜炙は険しい顔で言葉を返した。
「水魔が出たなら、一刻を争う。どのくらいの数いるのかも分からねぇし、朱翼の力がいるかもしれん。錆揮。お前は屋敷まで駆けて御頭に知らせろ。マドカを屋敷に連れて行け」
無言のまま烏からマドカを託され、錆揮は慌てた。
「お、俺も行くよ!」
「駄目だ」
慌てて言った錆揮を、白抜炙は一言で切り捨てた。
「何で。姉さんは行くのに!」
「お前にはまだ荷が重い」
「でも!」
「一刻を争うと言ってるだろうが!」
不意に白抜炙に一喝されて、錆揮は身を竦ませた。
「自分の役割も弁えられない奴が、戯けた事を抜かすんじゃねぇよ! 今お前に与えられた役割は、マドカを屋敷に連れて行って御頭を連れて来る事だ!」
「ッ」
「返事は!」
「……はい」
返事をする頃には、白抜炙はもう錆揮を見ていなかった。
「行くぞ」
錆揮とマドカ以外の三人が、山を降りる為に駆け始める。
錆揮の横をすり抜け様、姉が言った。
「頼みますね、錆揮。人が死ぬ前に御頭を連れて来て下さい」
人が死ぬ。
その言葉に、錆揮は我に返った。
尋常ではない速さで駆ける姉らの姿はすでに視界の外に消えようとしている。
「錆揮、さん」
息も絶え絶えのマドカが、腕の中で錆揮を見た。
彼は唇を噛み、錆揮はマドカを抱き抱えて山を駆け上がり始めた。
符によって膂力が増したからこそ可能な芸当だ。
「畜生!」
自分の力の無さが情けなかった。
【鷹の衆】は村の人々に頼りにされている。
その中に、錆揮は入っていない。
白抜炙ですら、【鷹の衆】の仲間ですら、有事に錆揮を使おうとはしない。
せいぜい、御頭を呼びに走る程度の事しか錆揮には出来ない。
結局。
出会った時に白抜炙に言われた通り、錆揮は姉のおまけでしかない。そこから、一歩も抜け出せていないのだ。
悔しくて涙が滲みそうになるのを必死に堪えながら、錆揮は駆ける。
「畜生……」
しかし錆揮は自分の気持ちに囚われすぎるあまり、何も気付いていなかった。
自分の腕の中で心配そうに彼を見つめる少女が、最初に名前を呼んだのが誰だったかを。
白抜炙が、何故彼女を錆揮に預けたのか。
彼はそれらの意味を、まるで理解していなかった。