第37節:大理の罪(前編)
〝それ〟は。
脆弱で力の弱い魂が器を抜け出して、宴へと加わるのを見ていた。
星の流れを小さくしたような魂が、四つ。
星の流れから漏れて変化した魂が、一つ。
ゆらゆらと揺らめき、嘆きながら踊る様を少しだけ哀れに思いながら。
〝それ〟は、自らを深淵より掬い出そうとする小さな器に目を向ける。
眠りから目覚める不快さを覚えながら。
深淵の中で、鎌首をもたげた。
そして、儀が始まる。
※※※
「フラドゥ―――!」
メイアの声が響き渡ると共に。
無陀と烏は動きを止めた。
「悪龍が……?」
烏が呟きながら見上げる先には、こちらも動きを止めた悪龍の腕があった。
急速に、その気配が薄まっていく。
代わりに、離れた場所にあった学長の気配が増大し始めた。
「……何が起こっているの?」
「さてねぇ」
横に着地した無陀は、呑気な口調と裏腹に鋭い目で朱翼たちを見ている。
「次に出るのは鬼か蛇か。出来ればこれ以上悪い事にはなって欲しくねーねぇ」
※※※
弥終と颯が、風切に乗って朱翼たちの元へたどり着くと、メイアの高い声が聞こえた。
「何があったってーのよ?」
「不明だ。不明だが……見るが良い」
風切にしがみつく弥終が指差す先に、動きを止めた悪龍と見上げる烏たちの姿があった。
見下ろす先に居る者たちは、全員動きを止めている。
「どうやら……陣は完成したようだ。どうやらな」
「それって、不味いんじゃねーのかよ?」
弥終は答えなかった。
彼の視線は、学長に対峙する朱翼に注がれていた。
※※※
メイアの慟哭が朱翼の耳を打った。
朱翼から目を反らした学長が鼻を鳴らす。
「ふん。アレが贄か。思ったより保たなかったな……」
学長は、朱翼に目を戻した。
「まぁ、問題はなかろう。万全を期すなら、汝を殺すべきであったが」
「九尾にフラドゥ……彼らにも、予め悪龍の紋を刻んでいたのですね」
「左様。カカカ、我が望みを阻むこと叶わず、残念であったなァ!」
朱翼もそちらに目を向けると、抜け出たフラドゥの魂が踊りの中央に加わった。
学長が、力の歓喜に震える。
「カカ、カカカッ! 良い。良いなァ……これだ、これこそ私が求めていたものだ……!」
「……《火針》」
朱翼が軽く呪紋を放つが、避けもしない学長。
火の呪紋は、彼の目の前で弾かれた。
「無駄な事よ。そこで、我が悪龍の力を得るを見ているが良い。くふふ。殺さずとも汝を手に入れる事すら可能かも知れぬなぁ、雛よ」
学長の外見が、変化を始めた。
髪が白髪から焦茶へと代わり、皺が消え、全身の筋肉が太く盛り上がり、若々しく変化していく。
その虹彩は紅く、白眼は黒く染まっていた。
「合一の為に、本来の悪龍将来儀を改変しましたね」
本来であれば悪龍の器を形作る筈の、龍脈の流れから吸い上げられる呪力が学長に流れ込んでいくのを〝視て〟、朱翼は言った。
「そう……悪龍を甦らせて従える気など、毛頭ない。最初から取り込んでしまえば良いのよ。全ては、我が、神の領域へと至る為の布石……!」
学長は、浅ましい顔で舌なめずりをした。
貪欲に呪力をすすり上げるのが、朱翼の目には映っている。
「雛よ。汝を我が伴侶としてやろう。カカカ、神同士、仲良くやろうではないか! 可愛がってやろうぞ!」
両手を大きく広げた学長……いや、人外のモノへと変質を始めたアジは、己を誇るように高らかに謳った。
「ここが、我が世の始まりである!」
その呪に。
「いいえ。これで終わりですよ」
朱翼は、否定を返した。
「あなたは、三つ勘違いをしています」
冷静な朱翼に、昂じながらも不審を覚えたのか。
アジは片眉を上げて、しかし笑みを消さないままに首を傾けた。
「ほう?」
「一つは」
朱翼は、演技をやめて、腹を押さえていた手を離す。
「私が貴方の所業をを防げなかったという点。……私は、この瞬間を待っていたのです。貴方が動けなくなる、この瞬間を」
「なるほど、汝も悪龍の復活を望んでいたと?」
「いいえ。悪龍将来儀の完成を……貴方の望む、改変された招来儀の完成を、望んでいたのです」
「どういう意味かな? 我が伴侶となる事を、最初から望んだと?」
自分に都合のよい解釈を告げるアジに、朱翼は首を横に振る。
朱翼は。
ここまで全てが己の思い通りに物事が進んだ事に、自分自身ですら驚きを覚えていた。
「いいえ。動けない貴方に、絶望を与える為、です」
アジの思惑も。
死すべき者も。
全てが、彼女の読んだ通りに運んだ。
朱翼は、誰に対してもそれを言わなかった。
ここに来る直前まで、彼女の中では。
人の死を良しとする冷徹な己と。
アジにこれ以上誰も殺させないままに倒すべきとする己が。
せめぎあっていた。
しかし。
悪龍の復活を阻止して、中途半端に儀を終えてしまえば。
地が、乱れたままに全てが終わる事になる。
人の命を尊ぶ小理と。
在るべき大地を取り戻す大理。
彼女は……後者を選んだ。
彼女自身の忌んだ、師の所業を。
彼女自身も、行う決意を。
それも、師を超える傲慢さで。
自分にとって、関わりのない者たちの命を棄てたのだ。
『不浄の紋を刻んだ死者は、奈辺にあるや?』
あの文を朱翼に届けたのは、間違いなく須安、彼女の師だろう。
あれは示唆であると同時に、選択を迫る問いかけだったのだ。
彼は見ている。
朱翼の為す事を。
救世の巫女として、どう生きるかを。
人の命を食んで、己の魂を穢すのか。
小理に拘り、大地を穢れたままにするか。
そして彼女は、己から遠い他者を不浄の贄とした。
己の身内を……此方にある者を惜しんだ。
師の問いかけに対する答えとして。
これ以上に傲慢な選択が、他にあるだろうか。
「絶望、か」
アジは、朱翼の言葉をまるで信じていなかった。
「動けぬ私を殺す術があると言うのか? たった今、呪紋を阻まれたばかりの汝が?」
「私が直接手を下す必要などないのですよ。貴方は間違った。それが二つ目の勘違いです」




