第36節:最後の贄
「フラドゥウウウウッ!」
「ッ、耳障りに喚くな……!」
怒りをもって襲い掛かって来るメイアを、フラドゥは避けながら短刀を閃かせる。
しかし実力差を気迫で埋めているのか、彼女は怯む事なく足を跳ね上げ、肘を打ち、その合間に呪紋を放つ。
死を恐れていないと思える程の至近でフラドゥの刃を躱す彼女は、無数の擦り傷を体に刻まれながらも止まらない。
歯を食いしばり、乱れかける呼吸を無理やりに整えて、なりふり構わず戦う彼女は……途方もなく美しかった。
そんな彼女を見つめながらも、幻鐘は動けない。
「まだだ……もう少し……」
腕に描いた紋を静かに、悟られないように。
慎重に小さく、出来る限り小さく、紋を展開していく。
呪紋は、ただ紋を展開する事が一番簡単だ。
しかし今、幻鐘はフラドゥに気付かれてはいけない。
息を潜めるように、精密に。
「庚顕現……」
幻鐘は、修験の師とも呼べる先達に言われていた。
実力をひけらかすような真似をするのは、二流の行いだと。
得た力を必要な時に、目立たないように、必要なだけ使い、ただひたすらに理を追求していた彼。
大きな力を持ちながら、人が困窮していようとも手を差し伸べない彼が理解出来ず、結局先達とは別れたが……。
彼の語った言葉が、今なら分かる。
「金霊、招来」
中途半端な手助けは、結局のところ何もしないのと変わらないのだと、彼は得た仲間と共に斡旋を受けるうちに気付いた。
途切れない依頼、上に行けば行くほど際限なく増えていく要求。
人の欲望には限りがなく、力ある者が手を差し伸べれば引きずり落とすが如く群がる。
そう。
朱翼に、幾多の欲望を秘めた連中が群がるように、だ。
故にこそ、真に力在る者は己の平穏の為に力を隠さねばならないのだ。
真面目に修行してこなかった事が悔やまれる。
気付くな。
幻鐘は心の中でつぶやいた。
朱翼との修行は付け焼き刃に過ぎなかったが、それでも彼女の言葉に従って呪力を、厳密に放出していく。
僅かに漏れる呪力が燐光を煌めかせる度に、奥歯を噛む。
「下抜上足……!」
出来る限り静かに、深く。
来るべき瞬間まで悟られないよう、しかし間に合うように。
編み上げた紋をひけらかす事なく展開し、陣を組み上げて行く事の、なんと困難な事か。
そして、その瞬間は訪れた。
フラドゥが、ついに動きを止めたメイアを引きずり倒し。
「これで……!」
手に持った刃を振り上げる。
幻鐘は、編み上げ、保持していた呪紋を、手を前に突き出して一気に解放した。
「汝、《酉非》ーーー」
フラドゥの、真後ろに。
「名代、赤銅……!」
赤銅が、これまでにない速度で顕現した。
※※※
殺られる。
引き倒されて息を詰めたメイアは、それでも目を見開いてフラドゥの顔を見つめた。
「これで……!」
これで。
何だと、言うのだろう。
フラドゥの顔は、歪んでいた。
歯を食いしばり、眉根を寄せて。
まるで苦しむようなその表情に、メイアは思う。
ーーーアルハたちを殺す時も、こんな顔をしていたの?
しかし、フラドゥが刃を振り下ろそうとした手を、突如現れた何かが掴んだ。
赤い剛毛に覆われた、毛むくじゃらの太い腕。
そして、腕を掴んでいるのとは別の、もう一本の赤い腕が横薙ぎに払われて。
掴まれていたフラドゥの腕が、三つの肉塊に姿を変えて吹き飛ばされた。
「ぐ、ガァアアアアアアッ!」
肩口から先を失った痛みと衝撃は、凄まじいのだろう。
フラドゥが絶叫を上げて、地面を転げた。
現れた猿に似た妖魔を見上げると、フラドゥのものだった手首と短刀を放り出した赤銅と、目が合った。
メイアは瞳孔のない妖魔の顔に、どこか荒々しさの中にも知性の色を感じる。
その目線が不意に逸らされて、転げたフラドゥに目を移す。
「か、ハッ……!」
ぼたぼたと肩から血を垂れ流す彼は、呼吸すら満足に出来ないようだ。
地面に伏せて、残った腕で体を起こそうとする彼の口の端から、涎が地面にこぼれ落ちた。
「待って、赤銅!」
トドメを刺そうと動き出した赤銅に、メイアが自分でも理由が分からないままに制止する。
赤銅は、耳を傾けるように動きを止めた。
「話を……させて」
赤銅が、幻鐘を見る。
幻鐘は疲れたように全身から脱力していたが、今にも倒れ込みそうになる体を支えて未だ座っていた。
彼が気絶すれば、赤銅は消えてしまうからだ。
「長くは、無理だ」
それでも、幻鐘は許可してくれた。
メイアは立ち上がり、よろめきながらフラドゥの前に立つ。
「フラドゥ……」
「ち……」
見下ろすような格好になったメイアに、フラドゥは舌打ちして起き上がろうとするのを止めた。
「そんな顔すんなよ……腹立つんだよ、その顔……」
「……私の事が、嫌いだった?」
メイアの問いかけに、少し黙ったフラドゥは。
「ああ、嫌いだったさ。いつもいつも、見せつけるみたいに、幸せそうな顔しやがって……」
絞り出すような声で、そう言った。
「楽しそうに、笑いやがって、下吐が出る……お前も、セミテも。俺が、アルハを殺したのを知りもしないで、横で怒って、悲しんで……」
フラドゥは、メイアを見上げるのをやめて、拳を握りしめた。
「お前らに、そんな顔をさせてるのが俺だって事を理解させられて……俺自身をゴミだと思わせてくれるお前らが、殺したいほど嫌いだったさ」
泣いているような声だった。
メイアは、そんなフラドゥの胸の内を、初めて聞いて。
いつも笑っていた彼の。
アルハとセミテと、子どもみたいな言い合いをした時に、いつも諌めてくれていた彼の。
フラドゥの、いつも一歩引いていた理由を理解して。
肩を、震わせた。
「……ごめんなさい。私は」
「言うな」
フラドゥは、メイアの言葉を拒否した。
「謝るな。こんな、モンだろ……友達を殺したヤツの、末路なんて……」
フラドゥの腕が動き、赤銅がメイアを庇うように前に出る。
だが。
「なぁ、メイア。……お前は、俺が嫌いなお前のままでいろよ」
赤銅の体に隠された向こう側から、フラドゥの声が聞こえて。
刃が肉を裂き、血が噴き出す音が響いた。




