第35節:問答
無陀が抑えていた悪龍が、突如その気配を増した。
「お?」
「無陀! 下がって!」
烏の呼び掛けに、無陀は悪龍から離れようと宙を蹴ったが既に遅かった。
いきなり、凄まじい衝撃に横薙ぎに払われて、吹き飛ばされる。
「がっは……ッ!」
息が詰まり、自分の体勢すらも分からなくなった。
薄く見開いた目に映ったのは、迫り来る地面。
体が動かない。
焦る無陀だが、地面に叩き付けられる前に襟首を掴まれて難を逃れた。
「な、ん……?」
「悪龍の力が増したのよ!」
烏が言うのに、無陀が悪龍を見ると。
それまで幻影のように揺らめいていた悪龍の腕が、滑らかな質感を得ていた。
さらに。
中空の陣から生える腕が、二本に増えている。
宙に生えた両腕の片方が、おそらく無陀を弾いたのだろう。
「シャレになってねーねぇ」
「どうやら、贄が増えたようね」
さらに禍々しさを増した強烈な気配に頬を引きつらせる無陀に対し、烏が無陀を連れて駆けながら答える。
悪龍の腕が、自身の周囲を覆う陣の端を掴んで、力を込め始めた。
「あれ、マズくねーかねぇ? 烏、何で気を吸うのを止めたのかねぇ?」
「あなたが吹き飛ばされたからでしょうが!」
怒鳴り声をと共に地面に落とされた無陀は、尻をさすりながら立ち上がる。
「そら悪かったねぇ」
言い合う間にも、悪龍の腕に力がこもり、陣の中の空間が割れ始めた。
「言ってる間に完全に顕現しそうね……」
「ご遠慮願いたいねぇ」
烏も、まだ戦意を失っていない。
無陀は両手の短刀を構え直した。
「片方ずつやる。合わせてくれねーかねぇ?」
「もう吸気は受け付けないわね。良いでしょう。もうしくじらないでよ?」
「善処はするけどねぇ」
空間を無理矢理割って本体を現出させようとする悪龍を抑えにかかる。
「朱翼……」
再び宙を駆ける無陀の耳に、烏が呟くのが聞こえた。
※※※
「陽赤星呑ーーー」
朱翼は、落ち着いていた。
強大な紋陣を維持する為に、学長は力を使っている。
未だ、自身を未熟と思う彼女であっても、対抗可能だと朱翼は思っていた。
「歳星火生」
丁寧に。
乱れに乱れる龍脈より五行素を吸い上げ、自身の呪力として練り上げていく。
「燃形灼成……《火針》」
左腕より放たれる、朱翼が本気で放った炎の針は。
纏う青白い炎を雲雀の姿に変えて、学長に襲いかかった。
「太白土生……」
その一撃に掌をかざして、学長はあっさりと火の素を土に変えて防いだ。
土塊に転じた火針が、ボトボトとその場に粘土となって落ちる。
「カカカ。火の力では悪龍の栄養となるばかり。得意とする紋を封じられて、まだ私に抗し得るか? 雛よ」
朱翼は石裂を握り締めて、学長へ向けて駆け出した。
「一つ、疑問に思う事があります」
「申してみよ」
朱翼は、石裂で学長の首を狙った。
「何故貴方がたは、そうも人に害を為すのか。もっと別の手法を使おうとは思わないのですか?」
石裂をあっさりと避けた学長は。
「来れ、《悪蛇》」
いつの間にやら再度紋を描いた腕を、地面にかざした。
妖しく光る紋が地面から一対の土塊を蛇に変えると、それが学長の体を這い上がって両肩に融合する。
朱翼に噛みつこうとするそれを避けて、彼女は姿勢を低く落とすと地面に手を付いて足払いを仕掛けた。
が、軽く避けられる。
「異な事を言うな、雛よ。塵芥のような命を幾ら消費したところで、阿納の在りようは変わらぬ。何故気にかける必要があろうか」
蛇が長く伸びて、それぞれに朱翼に襲いかかるのに対し。
彼女は片方を避け、片方を掴んだ。
「壬分填星」
朱翼の相克呪を受けて、握った蛇が土塊に還る。
ヒュ、と鋭く呼気を吐きながら、朱翼は下から突き上げるように石裂で学長の胸元を狙うが。
「老いたりとはいえ、異民族を征伐した私を……その程度では殺せぬよ」
逆に腹を蹴り上げられて、朱翼は吹き飛んだ。
「……貴方も、大義に従う者ですか」
「否。我はただ己の為に在る。より強く。より深く。力を得る事。源を識る事。それこそが我が望み。我が願い」
朱翼は腹を押さえながら立ち上がり、歯を噛み締めた。
「なるほど。貴方の望みは……内丹を得る事ですか」
「左様」
学長は、ニタリ、と笑った。
「内丹こそ、神化への鍵よの。妖力甚大、不老長寿にて世に憚る。……雛よ。神の子よ。汝と同じ存在と化す事が、我が望みである」
内丹、とは。
不老長寿の秘儀とされる仙丹を作り出す事を目的とする錬丹術の内でも、特に自身の体内を作り変える事でそれを成す事を目的とする錬丹の方策。
『不老長寿の薬物を作り出す外丹と違い、大衆に還元する方策である必要がない故にーーー』
かつて、師より与えられた言葉が、朱翼の耳に木霊した。
『ただ一人の不老長寿を目的とするならば、幾つかの成し得る方法があるーーー』
その一つが。
「上位存在との合一……」
朱翼のつぶやきに、学長は歓びに目を輝かせた。
「カカカ。聡明である。惜しい者よ。その美貌、その頭脳、その矮小なる高潔さ……しゃぶればさぞかし、美味かろうにの」
老いてなお、壮健。
劣情に歪む顔を舌なめずりする醜悪さに、朱翼はかすかに顔をしかめた。
「残念である。汝が、神の子でさえなければの」
「どこまでも下劣に貪欲。貴方は、師とは違うようです。大義すら持たない貴方は」
朱翼は、睨みつけて学長を断じた。
「只の俗物ですね」
彼女の罵倒に、学長はますます嗤う。
「俗欲こそが、人の本性よ。高潔なる神の子。我ら、浅ましく地を這う獣ごときに何を期待していたのだ?」
「より高みを目指す事、それこそが人の在り様だと私は私の周りに在る人々を見て思いました。故にこそ、私も人で在りたいと。ーーー知性ある存在であるならば、獣とは一線を画す事を目指してはどうなのです?」
「愚かなり。誠に愚かよ。この地に伝わる言葉、唯我独尊。獣より脱する事は、我のみが行えば良いのだ。獣より脱する事は、如何なる事か? 些事に惑わず、快楽のみを追求出来る存在と化す事がそれよ。生きる事に苦するが獣の所業。知など関係がない」
「物事の本質を曲解するのがお得意ですか? ならば私は、メイアより習った言葉を返しましょう。高貴なる者の使命。我欲のみを追求し神となろうとする貴方は、その使命の存在を忘れている。そんな人間は、どこまで行っても獣ーーーいいえ、餓鬼です」
「ならば高貴なる雛よ。己が使命を果たして見せよ。私を倒す事でな。……まぁ、無駄な足掻きよ。見よ。今この時、惜しい者がまた一柱の贄となった」
学長が指し示す先に目をやると、白い魂が飛び来て、舞い踊る者たちの輪に加わった。
悪龍の気配が、急速に増していく。
「もう時機に、全てが揃い踏みだ。雛よ、汝の死をもって、我が悪龍招来儀は完成するのだ!」
学長が吼えるのと同時に。
残った蛇が、再び朱翼襲い掛かった。




