第28節:影、陰、蔭。
学長が視察を終えて龍車へ乗り込もうとした時、不意に付き従っている九尾が顔を上げた。
「どうした?」
学長の問いかけに、九尾が喉を鳴らす。
大通りは、日も陰りかけて薄闇に包まれている。
訪ねた大きな屋敷の周囲に人は居らず、門扉が閉ざされている今は中の門番に見咎められる心配もなかった。
「……誰か居るのか」
学長のつぶやきに、答えるように。
『ーーー其は未だ、目覚めの時に非ず。手出しは身を滅ぼす』
何処かから聞こえてきた声音は、聞き取ろうにも何故か意識から遠く、その意味だけが頭に染みた。
呪紋による伝達なのだろう。
「姿も見せず、声色を隠し……そして何の事を言っているのかも分からないな」
『ーーー龍脈を乱し、血を贖う。先に待つは、栄達に非ず。九尾の尾に払われよう』
学長は嗤った。
喉を鳴らすように、おかしげに、笑いが闇に溶ける。
彼の目は普段の穏やかなものと違い、照り返すように昏く輝いていた。
唇が笑み上がる事で剥き出しになった黄ばんだ歯が、その邪悪さをさらに引き立てる。
「左様か、左様か。誰と思えば、其方であったか。今この場に出向くとは重畳なり」
ざわり、と怖気立つような気配が学長から湧き上がり、生ぬるい風に長く白い髭と服の裾が揺れる。
九尾が彼の気配に呼応して、爛々と目を輝かせた。
艶めいた色を見せながら、その流麗な白い毛並みを立たせ、退廃的な扇情を目に浮かべながら学長の足元に擦り寄る。
「良い。良いぞ。アレは敵。望むままに食い散らせ」
コーン、と一声高く鳴いて、九尾が自身の周囲に鬼火を浮かべた。
そろり、と足を踏み出したかと思えば、舜天の如く姿を消す。
「貴様らも征け。そして仕留めろ」
学長の声に応えて、闇から染み出すように現れたのは、白面に赤い線が入った仮面の者が二人。
それぞれに短刀を両手に構えた彼らは、一人は空へと飛び上がり、一人は地を這うように姿を消した。
やがて遠くで、剣戟の音と炎の瞬く色が浮かび、幾度かそれを繰り返して気配が止む。
戻ってきたのは九尾のみ。
「死んだか?」
学長の問いかけに、九尾は申し訳なさそうに首を横に振り、学長に許しを請うように足元に頭を垂れる。
「ふん。まぁ仕方があるまいな。暗の者を始末しなかったところを見ると、自ら関わる気はない、という事か。アレクも何か勘付いておるが、手の者が来るまでは動くまい。しばらくは、間がある」
と、学長は九尾に目を下ろした。
「……が、取り逃がした事に対する罰は、また別よな」
九尾は、くぅん、と阿るように鳴くが、学長は邪悪に笑みを浮かべたまま首を横に振る。
すると、九尾の肢体が変化を始めた。
九つの尾が頭へと移動し、白い髪と化す。
全身を覆う毛皮が薄くなってゆき、代わりに四肢が伸びて、人のそれへと変わっていった。
現れたのは、絶世の美貌を持つ、狐耳の美女。
首輪のみを身につけた真裸の彼女は、許しを請うように地面に臥せりながら顔を上げて、しかしその表情は、蕩けるように何かを期待していた。
開いた牙の覗く口から荒い吐息を吐いて、待ちわびるように切なく頬を紅潮させ、身をくねらせる。
学長は足を上げると、その背中を強く踏みつけた。
きゃぅん、と鳴く九尾は、しかし恍惚としている。
学長が足を退けると背中には、くっきりと痛々しい靴跡が残り、所々擦りむけて血が滲む。
その背中を、何度も、何度も、容赦なく踏みつけるたびに、重い音が鳴って九尾が声を漏らす。
やがて気が済んだのか、学長が腰を曲げて九尾の顔を上げさせると、言葉を発した。
「今宵はその姿のままでおれ。私の目を楽しませるためにな」
くぅん、と切なげな鳴き声を漏らした九尾は、四つん這いのまま学長に従って龍車に乗り込み。
龍車は静かに走り出すと、闇へと消えた。
※※※
夜。
朱翼が記憶から書き写した招来儀を読解しようと試みていると、微かに何かが擦れるような音がした。
顔を上げた朱翼に、横の寝台で寝ていた烏が目を開ける。
「どうしたの?」
「今……何か物音が」
烏が寝ぼけた様子もなく目を鋭く細めると、掛け布を退けて音もなく地面に降りる。
朱翼も五行気の乱れに目を走らせるが、特に不審な気配はない。
烏がこちらを見たので首を横に振ると、彼女は小さく呟いた。
「……填星麒形」
彼女の両眼が、ほのかに金色に輝く。
万物を卓越する目を持って、周囲を見回した彼女の目にも、不審に動くものは何も映らなかったようだ。
だが、別のものを彼女は見つけた。
そろりと戸に歩み寄り、その下の隙間に差し込まれたものを慎重に拾い上げた。
「手紙ね。あなた宛よ」
卓に置かれたそれを、朱翼は開封した。
そこには、見慣れない字で一言、こう書かれていた。
『不浄の紋が刻まれし死者は、奈辺にあるや?』
問答のようなその記述を、朱翼はしばらくの間ジッと眺めていた。




